「伊豆の踊子」の旅

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。 


☆川端康成と伊豆

 川端康成は、1899年大阪市に生まれ、東京帝国大学文学部に学びました。戦前、横光利一、片岡鉄平、中河与一らと共に新感覚派と呼ばれていて、代表作は『雪国』、『古都』、『山の音』などがあります。1968年に日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しましたが、1972年に自殺しています。旧制高校生の青春時代から何度も伊豆半島に足を運び、各地の温泉旅館に逗留しています。自身とても気に入っていたようで、伊豆を題材に『春景色』『温泉宿』など30篇ほどの小説を書いています。しかし、その中でも特に有名なのが『伊豆の踊子』で、青春のアンソロジーとも言える内容で、何度も映画化され、その足跡を訪ねる人が今も絶えません。


☆『伊豆の踊子』の旅

 『伊豆の踊子』は、大正7年(1918)の旧制第一高校2年当時、作者自身の伊豆旅行に想を得たものです。湯ヶ島から天城峠を越え、湯ヶ野を経由して下田に至る4泊5日の行程で、旅芸人一座と道連れになったのです。私も浄蓮の滝から湯ヶ野まで、足跡をたどって歩いたことがありますが、旧道が残され、踊子コースとして散策できるのです。良く自然環境が保全され、泊まった宿も残り、文学碑や昭和の森には文学博物館も出来て、小説の舞台を訪ねるにはうってつけです。


湯ヶ島温泉「湯本館」階段 旧天城トンネル 湯ヶ野温泉「福田家」(静岡県河津町)
『伊豆の踊子』のルート 大正7年川端康成の旅
10月30日
 旧制第一高校寄宿舎発
   ↓
10月31日
 修善寺温泉泊
   ↓
11月1〜2日
 湯ヶ島温泉「湯本館」泊
   ↓
 徒歩で旧天城トンネルを越え
 途中、旅芸人一座と道連れに
   ↓
11月2〜4日
 湯ヶ野温泉「福田家」泊
   ↓
11月5日
 下田「甲州屋」泊
   ↓
11月6日
 下田港から船で東京へ帰る

『伊豆の踊子』を巡る旅五題

 私は、今までに『伊豆の踊子』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で心に残った所を5つ。

 その1は、旧天城トンネル(静岡県天城湯ヶ島町)です。文中の雨宿りをした茶屋はこの近くにあったと言われています。旧道に踊子が越えていったのと同じトンネルが今でも残り、通り抜けることが出来ます。当時の状況を彷彿とさせる場所です。

 その2は、湯ヶ野温泉「福田家」(静岡県河津町)です。共同浴場で踊子が入浴していて、裸で手を振るのを見たのはこの旅館からです。玄関前に踊子像が、旅館脇に文学碑が立てられています。川端康成の部屋が当時と同じ状態で残され、関係資料も展示してあって、思い出深い宿です。

 その3は、湯ヶ島温泉「湯本館」(静岡県天城湯ヶ島町)です。『伊豆の踊子』執筆の宿で、川端康成の定宿でした。小説の冒頭の部分で、「湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下して一心に見ていた。」とあるのはこの旅館の入口の階段のことで、当時の建物のまま残されています。

 その4は、下田港(静岡県下田市)です。小説では、主人公がここから船で東京に帰るため、踊子との別れがありました。当時とは、港の様子も変わってしまい、その時の桟橋がどこだったのかはよくわかりませんでした。港からの遠景はあまり変わっていないようにも思え、別離の場面を想像してみました。

 その5は、伊豆大島の波浮の港(東京都大島町)です。踊子たち旅芸人一座の出身地で、踊子「薫」のモデルになった女性が、踊っていたという旧港屋旅館が資料館として残され、当時の様子を再現した人形や関係資料が展示してあります。周辺は「踊子の里」として整備されています。

下田港(静岡県下田市) 伊豆大島波浮港の旧港屋旅館座敷(東京都大島町)
この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『伊豆の踊子』(川端康成著)が岩波文庫<460円>他から出版されています。

☆『伊豆の踊子』関連リンク集

◇旧天城トンネル 『伊豆の踊子』の最初に出てくる旧天城トンネル周辺の詳しい写真と説明があります。
◇福田家 『伊豆の踊子』に登場し、川端康成の泊まった部屋が当時と同じ状態で残る「福田家旅館」の説明です。
◇茨木市立川端康成文学館 幼児期から旧制中学校卒業期まで過ごした大阪府茨木市の川端康成文学館の説明です。

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