秘湯の旅日記(15)湯の峰温泉(和歌山県) |
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*1997年11月23日(日) 新宮→熊野本宮→湯の峰温泉 ・新宮市内を散策後熊野本宮へ 新宮市内を徐福公園、阿須加神社、歴史民俗資料館と見学してから丹鶴城跡に向かう。ここは紀州藩付け家老水野氏3万5千石の城で石垣がよく残されている。本丸まで上ってみたが、熊野灘、熊野川、新宮市街が一望の下に見わたせるすばらしい眺めだ。しかし、風が強かったので、しばし滞在した後、下山する。
・新宮市内を散策後熊野本宮へ 再び歩いて、中心街のアーケードをくぐり、めはりや大王地店で昼飯を食べる。めはりずしB定食(1,000円)をたのんだが、名物の大きなめはりずしが4個ついていて、高菜の味が染み込み、素朴でとてもおいしかった。
・熊野速玉大社参拝後熊野本宮へ 休憩後は熊野速玉大社に参拝し、その脇にある佐藤春夫記念館を見学(300円)した後、少し歩いて権現前13時29分発JRバスで、熊野本宮へと向かった。右手車窓には熊野川のゆったりとした流れがあり、バスは上流へ上流へと向かって、紀伊山地に入っていく。途中、志古には瀞峡へのジェット船乗場があり、川をジェット船が行くのが見えた。バスはさらに川をさかのぼり、川湯温泉へ、この季節には川をせき止めて、大きな天然温泉の千人風呂が作られている。車窓から見ると、水着を着けた老若男女が入浴しているのが見える。続いて、渡瀬温泉、湯の峰温泉と過ぎて いった。
・熊野本宮を参拝 曲がりくねった、狭い山道のこととて、休日のマイカーとのすれ違いに時間を要し、予定より数分遅れて、終着の熊野大社前のバス停に到着した。そこには大きな鳥居があり、石段がずっと奥へと続いている。門前には数軒のみやげ物屋や食堂のようなものも店を開いている。さすがに、古来より名高い熊野本宮だけあって、大きな構えだ。石段を踏みしめながら上っていくと、前方に古めかしい大きな屋根が見えてきた。門をくぐると檜皮葺きの荘厳な社殿が並んでいる。何人かの参拝客の様子を見ていると、4ケ所で鈴を鳴らし、それぞれに参拝している。ここには4神が祭られていることがわかった。私もそれにならって一つ一つに手を合わせていった。ここが、かの熊野本宮なのだと思うと、思いも一入だが、いわゆる熊野行幸が行われた時の社殿とは場所が異なることを知った。後で、宝物殿に立ち寄って仕入れた知識だが、明治22年(1889)、熊野川の未曾有の大洪水によって、中州にあった旧社殿は流失、倒壊するなどの大被害を受け、その後、高台にあるこの地に移転したとのことだった。そうすると、江戸時代の色々な道中記に書かれてある所とは違うのかと思い、旧社殿跡(大斎原)にも 立ち寄ってみることにした。今では、素っ気ないコンクリート橋となっているのを渡り、中州のようになっているその場所にいってみたが、跡地には小さな石の社と石碑があるばかりで、他は野原になっていた。しかし、なにかのイベントがあるみたいで、和歌山放送のテントが張られ、数人が準備に追われている。どうやら熊野路ウォークという企画が行われるようだ。そうでもなければ、あまり人の訪れない場所のように思われた。
・熊野古道を歩いて湯の峰温泉へ そこを後にして、しばし街道に沿って歩いてみたが、店を閉じている商店もあり、空き地も目立って、かつての門前町のにぎわいはない。寂しい気持ちを引きずって歩いていったら、街並みがとぎれた所で、熊野古道の標識を見つけた。なんとなく、そちらの方角へ足を向けてみたら、途中から階段になった大日越えの登り口に出た。案内板では1時間弱で湯の峰温泉に出られると書いてあったので、ちょっときつい上り坂だとは思ったが、チャレンジしてみることにした。しばらく石段を上っていくと昔ながらの山道となって、どんどん上へ上へと曲がりながら続いている。結構、勾配がきつく、息を切らせながら一歩一歩踏みしめていくと、前方から親子4人連れが下りてきた。子供でも登れる道なのかと気を取り直して、さらに進んでいったが、上りばかりの急坂に疲れ、途中2回の休憩を余儀なくされた。この季節16時ともなると日が傾きかけている。鬱蒼とした樹木に覆われた峠越えの小径は暗くなり、人通りもなく、不気味な感じさえする。日が落ちるまでには湯の峰温泉に着きたいと思い、先を急いで、やっとのことで峠を越え、鼻欠け地蔵の所までたどり着いた。ここからは下り坂になるの だが、こちらの方が、勾配がきつく、足元も不安定で、逆から登らなくて良かったと胸をなでおろすことになった。下りは順調でどんどん高度を下げ、やがて下方に人家や人の声が聞こえるようになっていた。まだ、日が残っているうちに湯の峰王子へとたどり着いた。熊野古道にはかつて九十九王子と呼ばれるほどたくさんの王子があって、道行く人々の休憩場所ともなっていた。今は石碑のみ残るところも多いと聞くが、ここには明治時代の火災後の再建だが小さな祠が残されていた。昔、熊野本宮に参拝する前に湯の峰温泉で潔斎する湯垢離の儀礼を行ったのがここで、後に一般化し、参詣する人々が湯の峰温泉で湯垢離をとって、熊野本宮に参るようになったという。
・湯の峰温泉に到着 無事の峠越えに感謝して、手を合わせてから最後の坂を下りるとそこにつぼ湯があった。川原の岩の上に建っている小さな浴場だ。案内板によると、かの小栗判官が、毒を盛られ、不自由となった体を癒した所だと書かれている。これは後で入浴しなければと思い、渓流沿いに宿を探しながら少し歩くと、多くの人が川原に集まっている。何かと思って上から見てみると、どうやらそこに温泉の沸き出し口があって、人が集まって覗き込んだり、卵を茹でたりしているようだった。興味を覚えて、川原に下りてみると、それは湯筒とよばれる源泉で92度もの熱湯が沸きだしていると案内がしてあった。もうもうと湯煙が立ち、ぼこぼこと湯が沸騰している。硫黄の匂いが鼻をつく。とても温泉らしい風景だ。源泉を取り巻く湯の峰の温泉街は近代的なビルはなく、昔ながらの湯治場の風情が残り、木造の旅館や民宿が渓谷沿いに並んでいる。そのはずれに今日の宿を見つけた。
★湯の峰温泉公衆浴場とつぼ湯に入浴する<薬湯300円・つぼ湯260円>
・温泉の詳細なデータを知りたい方は→湯の峰温泉(小栗湯)分析書 ・つぼ湯に入湯する 前日、電話で予約してあったが、狭い部屋しかあいていないとのことで、料金も特別に安くしてくれるとのことだった。通されたのは3畳の部屋だったが、とてもきれいなつくりで清潔にしてあったので、一人ならこれで充分だ、なんだか申し訳ないような気がした。荷物を置いてさっそくつぼ湯に入りにいったが、狭いためこの時間は結構順番待ちをしているとのことだった。それではと先に公衆浴場に入ることにしたら、入口で一般か薬湯かと聞かれた。それによって料金に100円の差があると言うのだ。そこで、どこが違うのかと問うてみたら、薬湯の方が源泉をそのまま使っているとのことだったので、高いほうの薬湯(300円)に入浴することにした。浴槽では度々この温泉に入りにくるという男性といっしょになった。「関西では有名な温泉で、湯がとても良い。」とのことで「料理にも色々と利用されている。」と言う。備え付けのカップで汲んで、「飲んでみなさい。」と勧められたが、少し硫黄のにおいがするものの、とてもおいしい湯だった。湯加減もちょうどよく、ほんとうに疲れがとれていく感じがする。木の湯船にのびのびと足を延ばし、ゆったりと湯に浸かった。少し長めに入浴し てから出てくると、つぼ湯の方が空いてきたようだ。受付から監視カメラで見ているのが、ちょっとそぐわない感じもするが、番号札をもらって入りにいくことにした。ちょうど待ち客が途切れ、中には青年が2人入浴していたが、いっしょに入れさせてもらうことにした。この浴槽は面白い。自然の川原の天然の大岩がくり抜かれて、大人2人ほど入浴できる湯壺となっている。その上に小屋掛けがしてあるといった風情だ。湯は少し熱めだが、ごぼごぼと下の方から沸きだしてくる感じが心地よく。やわらかな泉質でとても効き目がありそうだ。このロケーションといい、この湯といい、とても気に入ってしまった。先に入っていた青年2人は川湯温泉の方へ行くといって、上がってしまい。一人、天然岩の湯壺に浸り、暗くなりつつある川原を眺めているとまるで仙人にでもなった気分になるから不思議なものだ。もう少し、入っていたかったが、外の方で音がして、次の浴客が待っているようなので、上がることにした。
・あづまや荘(民宿)へ 宿に戻るとすぐ広間での食事となったが、マグロの刺身、鮎塩焼、鳥鍋、蕎麦などが並べられていた。多人数の団体客が2組いるようで、それぞれわきあいあいと語りながら食事をしている。どうやら、1組は熊野本宮跡地でテントを張っていた、和歌山放送のメンバーのようで、明日の熊野路ウォークのことが話題となっていた。私の隣では若いカップルが食事をしていたが、「今、つぼ湯に入ってきた。」と話すと、「私たちが行った時は列が出来ていて、あきらめた。」とうらめしそうだった。奈良市から十津川に沿って車で走ってきたとのことで、しばし温泉について歓談した。お酒も新宮の地酒「太平洋」を冷やで3合たのみ気分良く、食べかつ飲んだ。後は部屋に戻って、テレビと本を読みながら寝てしまった。山中だが南国紀伊のこととて暖房も必要なく眠りについた。
☆あづまや荘(民宿)に泊まる。<1泊2食付6,450円(込込)>
*1997年11月24日(月) 中辺路経由で帰途につく。 ・朝の散歩に出かける 朝6時に起床し、6時半頃から朝の散歩に出かける。すでに、起きだして出発の準備をしているグループがいる。ずいぶん早い出立の人もいるものだ。その人達を尻目に旅館街を歩きだしたが、道路を清掃している人が何人も目についた。どうやら、旅館街の住人たちが申し合わせて出ているようだ。ぶらぶらと街中を通りすぎ、史跡や古碑などの前で立ち止まり、カメラのシャッターを切った。街はずれまで来ると、「まかずの稲」「力石」への標識が出ていたので、何かと思って、渓谷沿いの小径に歩いていった。しばらく行くと、道から川の方へ少し下りたところに1平方メートルほどの小さな田んぼがあり、立ち枯れしたような稲が数本生えている。これが、「まかずの稲」なのかとなんだか拍子抜けしたような感じになった。小栗判官の髪を束ねていた藁から自生したとの言い伝えが書いてあったが?そのすぐ上のほうに「力石」があり、小栗判官が持ち上げたという石と石標が建ててあった。カメラのシャッターを何枚か切った後、再び小径を引き返し、元の自動車道へ出て、今度は峠の方へと登っていった。こちらには小栗判官が乗ってきた車を埋めたという「車塚」があるというのだが、ずい ぶん遠かった。曲がりくねった坂をどんどん上がっていったのだが、いけどもいけども山また山で、何度も引き返そうかと思ったが、やっと、前方右手に塚が見えてきた。苔むした石標と塚があり、案内板が立ててある。こうやって伝説の地を訪ねてみるのも、温泉旅行の楽しみだ。昔ながらの湯治場には必ずといって良いほど伝説が残っている。それが、その温泉の古い起源や効能などをアッピールすることにもなっているのだ。こうやって、史跡を巡ってみると、結構良い散歩コースとなっている場合が多い。程よい運動をして、後は来た道を下って、温泉街へと戻っていった。
・宿に戻って一風呂浴びる 宿に帰ったときには7時半を過ぎていて、正味1時間少しの散歩になったわけだ。少し汗をかいたので、部屋に戻って、タオルをとって朝風呂に出掛けた。誰もいない湯船にのんびりと浸かって、リフレッシュし、上がってから朝食となった。昨日と同じ1階の広間にいったら、あらかたの人は食事を終えていて、残っているのは数人だった。まだバスの時間までには間があるので、ゆっくりと食事を終え、部屋に戻って旅日記を書いた。 ・中辺路を田辺市へ 9時過ぎに宿を出て、湯の峰温泉のバス停で9時26分発の紀伊田辺行きを待った。一日3往復JR西日本のバスが田辺市との間を通っているのだ。ほぼ定刻どおりに来たバスは一端前を通り過ぎ、先にある転回場で方向を変えて、再び姿を現した。乗り込んだのは10人ばかりで、2時間余りの長いバス旅が始まった。バスは中辺路を行く、古来から熊野詣での人々が歩いた熊野古道とは付きつ、離れつしながら紀伊山中の深い渓谷沿いを進む。今、さかんに国道の改良工事が行われているが、現在バスの進む道は曲がりくねった1車線の道が多く、対向車とのすれ違いには苦労している。水流は清らかで、みごとな渓谷美をみせると思えば、道路工事で濁った河川と削り取られた地肌が顔を見せる。そんな国道を延々と走っていく。ほんとうに紀伊山地は広いものだ。途中、深い渓谷や峠からの山並みを堪能しているうちにバスはだんだんと開けた場所へと出てきた。栗栖川、鮎川と過ぎ徐々に山並みは低くなり、平坦部が多くなってきた。2時間程座り続け、腰も痛くなって、いい加減に飽きてきたころにやっと田辺市へと入ってきた。
・田辺城跡を訪ねる 紀伊田辺駅前にほぼ時間どおり11時27分に到着して、バスを下り、腰を延ばして深呼吸した。駅の観光案内所でパンフレットと地図をもらい、先ず腹ごしらえすることにして、「銀ちろ」という変わった名前の店に入った。そこで造り定食を食べたが、さすが漁港のある街だけあって、新鮮なしこしこするような刺し身を賞味できた。満足して、店を出て、田辺城(錦水城)跡まで行こうと思ったが、徒歩20分程かかると聞いていたので、駅前からタクシーに乗ることにした。会津川の河口に近い川端に小公園があり、そこが、田辺城の水門の跡だという。案内板によるとそこから東のほうに御殿があったとのことだが、今では完全に住宅地となり、痕跡も残っていない。わずかに残された水門は両側に石垣が残り、川に出るための通路になっいたようだ。そのほんの一区画だけが往時の姿を伝えるのみである。ちょっとさびしい感じがしたが、それでも御殿のあった方角に歩いて大手門の位置まで行ってみることにした。この辺が大手門の跡だろうという場所で、近所の人に正確な場所を訪ねてみたが、誰に聞いても知らないという返事が帰ってきた。もう、城跡は人々の記憶からも遠ざかってしまっ たのだろうか?
・田辺市内を散策 とても残念な思いを抱きながら、再び街中を歩いて、特異な民俗学者南方熊楠の旧居へ行ってみたが、中には入れず、外観を写真に納めることしか出来なかった。次に、市立歴史民俗資料館に行ってみたが、これも休館!駅の案内所では開館していると言っていたのだが。祝日の翌日はこういうことがあるものだが、今日はどうもついていない。満ち足りない気分のまま次の闘鶏神社に向かった。ここは源平合戦の頃、熊野水軍が源氏方につくか、平氏方につくかを鶏を戦わせて占ったという故事がある。それだけ熊野の勢力に対した大きな力を持っていたということになる。折しも、和服に着飾った親子連れが御祓いを受けていた。そういえば七五三の季節だ。ほほえましく思いながら、参拝の後、境内を見て回った。それからはまだ列車までは時間があるので、街並をぶらつくことにして、あてもなく商店街を歩いていった。こういう時間もそれはそれで結構発見があって楽しいものだ。その街の景気のよさや人々の暮らしぶりとかをかいま見ることができる。最近では地方都市にも大型店が進出し、概して商店街の景気が良くないところも多い。この田辺の街も同じ傾向にはあるとは思うが、 それほど落ち込んでいる風には見えなかった。あてどもなく30分ほど歩き回って、13時半頃には駅に戻ってきた。
・帰途につく 後は、13時45分発特急くろしお14号に乗り、海側に席を占めて、のどかな日差しと、少々の疲れにまどろみながら大阪に向かった。南近畿ワイド周遊券では天王寺までしか特急に乗れないので、そこで環状線に乗り換え、大阪駅で再び乗り換えて、新大阪から東海道新幹線ひかり号に乗って帰っていった。 |
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