<岬と灯台写真館>

八幡岬と勝浦灯台(千葉県)

2004年3月13日昼に八幡岬と勝浦灯台(千葉県勝浦市)で撮った写真です。


 1泊2日で、房総半島一周の岬めぐりの旅に出かけ、まず、太東崎灯台に立ち寄り、その後は、国道128号線に復して、さらに南下していったのです。次に訪れたのは、勝浦市に属する八幡岬で、まずその手前にある官軍塚から、太平洋を望んだのですが、沖合にある岩礁が波に見え隠れするのが鯨のように見えて、思わず「鯨が泳いでいるんですか?」と近くの人に聞いてしまいました。その後、勝浦灯台の写真を撮ってから、八幡岬の先端まで行って、海の眺望を堪能したのです。ここでも、何回もカメラのシャッターを切りました。それからは、勝浦市内で、昼食に海鮮丼を食べてからも、房総半島の先端に向かって走り続け、突端にある白浜町へと至り、野島崎と野島崎灯台を巡りました。

☆勝浦灯台 地図
勝浦灯台 (2004年3月13日撮影)
勝浦灯台の概要
番号 1884 [F6470]
位置 北緯 35度08分16秒 
東経 140度19分08秒
塗色 白色
構造 塔形(八角形) コンクリート造
レンズ 第4等フレネル式
灯質 群閃白光 毎22秒を隔てて
8秒間に2閃光
光度 14万カンデラ
光達距離 22海里(約41km) 
明弧 229度から73度まで
灯塔高 21.2m(地上〜塔頂)
標高 71m(平均海面〜灯火)
初点灯 1917年(大正6)3月1日
所在地 千葉県勝浦市浜勝浦
<特徴>
 勝浦灯台は、千葉県房総半島の中ほどから南に突きだした八幡岬の近く、ひらめヶ丘に立つ白亜八角形の中型灯台です。周辺は、南房総国定公園に指定されていて、太平洋を望む景勝地であり、日の出がすばらしいことで知られています。

<歴史>
 この灯台は、1917年(大正6)3月1日に設置・初点灯されましたが、太平洋戦争の末期にアメリカ軍艦載機による20数回の攻撃を受け、相当の被害を出しました。その後、数回にわたり機器の改良が行われ、1983年(昭和58)3月には灯塔が改築され、タイル貼りになりました。

<現況>
 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)21.2m、標高(平均海面〜灯火)71mで、第4等フレネル式レンズを使い、光度14万カンデラ、光達距離は22海里(約41km) です。内部は、一般公開はされていないので、通常は外観を見学するだけです。

☆勝浦灯台周辺の磯と海

勝浦灯台周辺の磯と海
勝浦灯台崖下の磯 勝浦灯台から南西方向の眺望

 勝浦灯台は、標高50mほどの「ひらめヶ丘」に立っていて、すぐ先は断崖絶壁となって、太平洋に落ち込んでいます。ここから見る朝日はとても素晴らしいとのことです。また、その崖下の磯は、釣り人の集う好ポイントともなっています。


☆官軍塚

官軍塚と碑
官軍塚からの眺望

 勝浦灯台へ向かう途中の小高い丘の上に官軍塚があります。ここでは、明治維新期の歴史の一こまをうかがい知ることが出来ました。今から130数年前、戊辰戦争(1868〜1869年)の最後の抵抗を試みる旧幕府の海軍副総督榎本武揚が函館五稜郭に立てこもったのです。その鎮圧に向かったのが、津軽藩だったのですが、容易に平定する事が出来ず、藩主の津軽承昭(つぐあきら)は、実兄であった熊本藩主細川韶邦(よしくに)に援軍を求めました。それで、熊本藩から寺尾九郎右衛門を長とする350名が援軍として、海路を北海道へ向かったものの、1869年(明治2)1月3日夜、折からの大暴風雨で、この川津沖で難破沈没してしまったのです。地元川津の人々は、必死の救助活動にあたりましたが、200余名の犠牲者を出してしまいました。これを埋葬、供養したのが官軍塚なのです。ここからは、太平洋が一望の下に見渡せます。


☆八幡岬の景観

八幡岬から東方向(勝浦灯台)の眺望 八幡岬から北西方向(勝浦湾)の眺望
八幡岬の全景 八幡岬の崖下の海

 八幡岬は、勝浦湾の東側に突き出した細長い岬で、三方を海で囲まれた自然の要害です。そのため、平安中期から江戸初期まで勝浦城が置かれていました。勝浦城主・正木頼忠の娘、お万は徳川家康の側室となり紀伊徳川家の祖、頼宣や水戸徳川家の祖、頼房の母となりました。ちなみに、時代劇で有名な徳川光圀(水戸黄門)は、お万の孫にあたります。勝浦城趾を含めた岬一帯は、自然公園として整備され、散策路や広場、展望デッキなどが設けられていますし、お万の像も建てられています。ここからは、勝浦灯台や勝浦湾、太平洋を望むことが出来、爽快です。


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