離島の旅日記(3)八丈島を訪ねて(東京都) |
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*2001年2月1日(木) 竹芝桟橋→八丈島 木曜日の夜、急に思い立って、日曜日まで、3泊4日(船中泊1)で伊豆七島の最南端八丈島へ行って来ることにした。行きは、東京の竹芝桟橋から東海汽船「すとれちあ丸」に乗り込んだのだが、八丈島まで、10時間もかかるのだ。外海に出ると、冬のこととて、季節風に吹かれ、荒波にもまれて、かなり揺れるのだ。飲料水の空き缶が、コロコロと転がっていき、また戻ってくるような状態だったが、その中で仮眠した。 *2004年9月22日(金) 八丈島巡り 朝9時に、ようやく八丈島の底戸港へと上陸した。まず、泊まることにした民宿「樹海荘」まで歩いていったが、港から数分で、名前の通り木々に囲まれた樹林の中に建っていた。そこに、荷物を置き、その宿の自家用車を借りた。初日は、まず島の南半分を巡るつもりで、車を出発させた。
最初に、「八丈町歴史民俗資料館」に立ち寄った。ここは、旧八丈支庁舎の建物を利用して、1975年(昭和50)5月に開館したもので、建物自体が1999年(平成11)国の登録文化財となっているとのこと。館内には流人文化を中心にした資料が数多く展示されていた。八丈島の人々や流人の生活用具や農耕具、漁具、機織具等はとても興味深かった。それ以外に、都の文化財となっている磨製石斧や湯浜遺跡出土品他の古代の石器や土器も見応えがあった。また、これも都の文化財となっている羅漢坐像、銅板為朝神像の他、古文書、伊万里、古瀬戸等の陶器類、八丈島の伝説となっている源為朝の鎧等、約1,500点が展示されていて、なかなか勉強になった。
続いて、江戸時代の船預かり(幕府御用船を管理する職)であった服部家の屋敷跡へと立ち寄った。八丈島の政治を司るほどの役職で、立派な二重の玉石垣がめぐらされており、当時の豪勢な暮らしぶりが伺える。特に、樹齢700年といわれる大ソテツは見事なもので、館内には服部家ゆかりの器や道具類が展示され、船預かりの関係で、船箪笥や近藤富蔵作になる繰り位牌入れも陳列されていた。ここでは、“樫立の手踊り”と“八丈太鼓”を観賞できるが、“樫立の手踊り”は、樫立踊保存会によって伝承され、1960年(昭和35)年都の無形文化財に指定されたものだ。それらを、とても興味深く見学した。
次は、少し車を走らせて、中之郷にある裏見ヶ滝と呼ばれているところへ行ってみた。道路と水路が、滝の裏を通っていることから、この名が付けられたようだが、江戸時代に滝の所の熔岩を切り開いて通されたものだそうだ。この辺には、安川(あんがわ)と銚子(ちょうし)の口という、豊富な水源があり、水田に利用するため、山下平右衛門が滝の下の熔岩を切り開いて現在のようにしたとのこと。なかなか、面白く見学した。 その後、藍ヶ江港方面に少し下っていき、中之郷温泉「やすらぎの湯」で、温泉に浸かることにした。紺碧の海が見え始めた高台にあり、海の眺望がとても良さそうだ。さっそく受付に入浴料300円也を払い、浴室へと入っていったが、この町営の日帰り入浴施設は、1995年(平成7)4月4日にオープンしたとのことで、人気があるそうだ。ここの源泉は、1986年(昭和61)に民間によって掘削されたのだが、7年後の1993年(平成5)度に八丈町が買収し、新たに整備を行ったものとのこと。塩分濃度が濃いので、なめるとしょっぱさを感じ、いかにも海に近い温泉といった感じがする。のんびりと湯に浸かりながら、すばらしい海の眺めを楽しんだが、天気が良ければ、青ヶ島を見ることも出来るそうだ。内湯のみではあるが、とても気に入った。 ★中之郷温泉「やすらぎの湯」に入浴する。<入浴料 300円>
それから、さらに東へと走り、日が傾きかけた頃、末吉集落へと入ってきて、島の南東端にある石積ガ鼻へと至ったが、そこには、太平洋を望んで、白亜の八丈島灯台が立っていた。前方は、どこまでも広がる太平洋に臨み、右手には小岩戸ヶ鼻が見え、漁をする漁船も遠望できるスケールの大きな眺望を堪能できるところだ。周辺は、富士箱根伊豆国立公園の一部ともなっていて、実に風光明媚だ。この灯台は、1951年(昭和26)6月10日に設置、初点灯されたが、戦後盛んとなった、カツオ・マグロ遠洋漁業の前進基地及び避難地としての航海の安全を守るために作られたとのこと。また、当時の末吉村には電気は入っていたものの、夜間2〜3時間ほどしか送電されなかったので、地元の要望で陸側の遮光をせずに、そちらにも灯台の灯りが届くようにして街灯に代わる役目も果たしたそうだ。白色塔形(円形)コンクリート造りで、灯塔高は16.69m(地上から塔頂まで)、標高(平均海面から灯火まで)95.59mで、光度100万カンデラ、光達距離25海里(約46km)の堂々とした灯台で、船舶気象通報(1時間に1回)と無線方位信号所も附属している。内部は、一般公開されていないが、年に2,3回特別に見学できる日もあるそうだ。
灯台撮影後は、末吉温泉「みはらしの湯」へ立ち寄ったが、ここは小高い丘の上に出来た、まだ新しい温泉だ。外観もしゃれていて、眺望がとても良さそうなので、さっそく、入浴料500円也を払って、浴室へと向かった。内湯に続いて、露天風呂があり、そこに出たときには、あまりの見晴らしの良さに「うぁー」と声を上げてしまった。眼前には、太平洋が広がり、右手に岩戸ヶ鼻が突き出し、船が数艘浮かんでいて、なんとも言いようのないきれいに澄んだ海が望めるのだ。露天風呂に浸かりながら、この景色を堪能できるとは、たとえようもない良い気分なのだ。しばらくは、その眺望に見とれていたが、この温泉は、かなり塩分が濃厚で、ものすごくしょっぱく、泉質もなかなかなものだと感じた。南海の孤島で、太平洋を眼前にして、濃厚な温泉に浸かっているとは、なんとも浮世離れしていて、日頃のあくせくした生活がうそのようで、とても満足した。 ★末吉温泉「みはらしの湯」に入浴する。<入浴料 500円>
それから、坂道を下って、洞輪沢(ぼらわざわ)漁港へも行ってみた。ここは、八丈島東南に位置する漁港で、歴史が古く、八丈八景“名古秋月”として、その一つに数えられている。この周囲には、昔から波打ち際に温泉が湧出していたのだが、港の脇に無料で入れる末吉自治会管理の共同浴場(簡易入浴施設)があり、ダイバーや漁師の方が入りに来るそうだ。私も、この温泉に浸かったが、とても良い気分だった。 ★洞輪沢温泉に入浴する。<入浴無料>
入浴後は、来た道を戻って、中之郷まで至ったのだが、急に冒険心を出して、東山(三原山)の方へ林道のような道を入っていくことにした。地図上では、この先、登竜峠(のぼりょうとうげ)まで抜けれるようになっていたので、行ってみたくなったのだ。しかし、道は狭くなり、ハードダートの山道となって、だんだん心細くなってきた。この道が、ほんとうに通じているのか不安になってきたのだ。山中深く入り込み、全く人影もなく、さまようようにとにかく進んでいった。幸いなことに、なんとか通り抜け、登竜峠に達したときはホッとした。しかし、ここからの眺望はすばらしく、正面に八丈富士と八丈小島、眼下に三根の町並みが広がり、底土港から太平洋も望める。しかも、日が暮れかけてきて、シルエットになった山影がことのほか美しく見えるのだ。感激して、夢中で何回も、カメラのシャッターを切っていた。その後、曲がりくねった細い道を下っていったのだが、ほんとうに運転には神経を使った。なんでも、この峠道を下方から望むとあたかも龍が昇天するように見えるので、この名がつけられたとか...。
日が落ちた頃に、民宿「樹海荘」へと戻って来た。ここは、島の漁師さんが経営する宿で、「樹海丸」という釣り船も所有している。船宿といった感じで、同宿は釣り人ばかりだった。1泊2食付き7,000円の低料金だったのだが、夕食では、海の幸を満喫し、お酒も冷やで頼んで美味しく飲みかつ食べた。食後は、部屋に戻り、横になって、テレビを見たり、明日のコースを考えたりしている内にまどろんできて、寝てしまった。 ☆民宿「樹海荘」に泊まる。<1泊2食付 7,000円(込込)>
*2004年9月22日(土) 八丈島巡り 3日目は、車で北半分を巡ることにし、反時計回りに走りはじめて、最初に神湊港に立ち寄った。背後に八丈富士を望む景観が美しく、思わずカメラに収めてしまった。その後は、右手に太平洋を見ながら、走っていって、島の北端にある大越鼻へと至った。周辺は、富士箱根伊豆国立公園
に含まれ、太平洋や八丈小島が望める、すばらしい景観だ。ここは、八丈富士の裾野に辺り、噴火によって流れ出した溶岩が海に流れ込む時に固まって、荒々しい岩場を周囲に形成したとのこと。それらの岩礁は、絶好の釣り場ともなっているそうだ。ここに、車を駐めて、灯台とアロエ園を見学することにした。
その後、さらに海岸線に沿って車を走らせ、南原千畳岩にも立ち寄った。ゴツゴツした海岸線に荒波が打ち寄せ、その向こうに八丈小島が見える風景は、なかなかのもので、何枚も写真を撮った。この辺りは、八丈富士が噴火した時に流出した溶岩が海に流れ落ちる際に出来た溶岩地形で、黒々とした玄武岩が広がっている。それが、海に沿って幅100m、長さ500mにも及び、長い歳月を経た浸食によって、荒涼とした情景を現出しているのだ。岩礁に打ちつける波が白く飛び散る様は、絶妙のコントラストをなし、まさに豪快だ!
次に、八丈富士(標高は854m)にも登ったのだが、頂上付近では、風が強くて難儀した。しかし、その眺望は最高で、四方が見渡せて、とても満足したのだ。この山は、標高は854mあって、伊豆七島中では、一番高く、火口は直径約400m、深さ50mで、火口底には中央火口丘があった。山腹は、一面の草原状の所があり、大部分は町の草地改良事業による牛の放牧地として、牧歌的風景を成していて、のどかだった。
登山後は、昨日見逃した大里の陣屋跡(玉石垣)へ行ってみた。室町末期の1528年(享禄元年)に造られた陣屋の跡で、その後は島役所と改称され、1908年(明治41)に向里に支庁が移転するまで380年間、常に島の政治の中心だった所だ。陣屋跡を巡らしてあるのが玉石垣で、とてもみごとなものだ。これは、荒波に削られ角のとれた丸い石だけをを使って積み上げられた石垣のことで、ここのものは、八丈島で一番古いとのこと。俵積みと呼ばれる方法で造られており、一つの石に六つの石が接するところから、後に「六法積み」と呼ばれるようになったそうだ。玉石は横間の浜から運んだと言われていて、一個の石を流人がおむすび一個と引き替えに運んだといういい伝えもあるとか...。次第に民家でも玉石垣が築かれるようになり、この地区は、旧家や有力家が多かったため、今でも多く残されていて、保存状態も良い。見た目も美しいが、八丈島の歴史の上でも貴重な資料で、昔ながらの島の生活を語りかけるものとなっている。
次に、ふるさと村にも立ち寄ってみた。ここは、昔の“オリクネ”と呼ばれる伝統的な工法による住居(屋敷)を移築、修復するなどして公開している施設だ。八丈島は、暴風雨の多い地帯で、玉石垣(オリという)を巡らし、その上にツバキやシイなどの常緑広葉樹を植えて防風林(クネという)としていたので、その名が付いたそうだ。敷地内には、茅葺きの母屋はじめ、高倉、牛小屋(マヤ)、便所(カンジョ)などが復元され、島の伝統的な暮らしぶりを伺うことができる。すごく興味深かったので、パチパチと写真を撮りながら巡った。
その後は、林の中に立地する樫立向里温泉「ふれあいの湯」へと向かった。ここは、樫立地区にある町営の公共浴場で、山の中にあるので、他の温泉施設に比べ観光客が少なく、ゆったりと入浴出来た。大ぶりに作られた浴槽は総檜作りで、小さいながら樽型の露天風呂もある。泉質は、ナトリウム−塩化物強塩泉で茶褐色の湯は舐めると塩辛く、湯冷めしにくいのが特徴。休憩室では地元の人との語らいや情報交換ができる。 ★樫立向里温泉「ふれあいの湯」に入浴する。<入浴料 300円>
続いて、眺望の良い海岸に立地するブルーポート・スパ「ザ・BOON」に入浴した。中之郷尾越温泉と中之郷藍ヶ江温泉の両方の源泉を使っているとのことだ。ここのネーミングが面白い、お客様に「ざっぶーん」とお風呂に入って、ゆっくりと温泉を楽しんでいただきたいので名付けたとか...。もっとも、BOONという英語は「恵み」「たまもの」「恩恵」という意味をもっていて、八丈島の温泉の恵を味わっていただく意味も込められているそうだ。島内の他の日帰り入浴施設と比べ、入浴料が700円と高いが、ジャグジー付き浴槽、打たせ湯、サウナ、休憩室、コミュニテイ・ラウンジ等が備えられている。真正面には、太平洋の大海原が広がっており、立地条件には恵まれているように思う。 ★ブルーポート・スパ「ザ・BOON」に入浴する。<入浴料 700円>
入浴後は、民宿「樹海荘」へと戻りました。部屋で休んでいると、呼ばれて食堂での夕食となったが、同宿の釣り客達は、大漁だったようで、話が弾んでいた。食卓には、釣れたばかりの魚が刺身となっており、相伴させてもらった。新鮮な海の幸はとても美味しく、お酒も進んで、語らいながらの楽しい夕餉となった。食後は、部屋に戻り、テレビを見ていたが、酔いも回ってきたので、早めに床に就いた。 ☆民宿「樹海荘」に泊まる。<1泊2食付 7,000円(込込)>
*2004年9月22日(日) 八丈島→羽田 朝食後、荷物をまとめ八丈島の中心部を散策し、都立八丈植物公園へも行ってみた。ここは、溶岩台地上の温帯性の照葉樹からなる自然林を利用して造られた都の公園で、1962年(昭和37)に約9haの広さで開園され、その後整備が進められ1994年(平成6)度には開園面積22haとなったとのこと。観賞用温室やビジターセンターの施設もあり、散策しながら島の自然や植物と親しむことが出来る。温室には、ハイビスカスやブーゲンビリア等の花木類、トックリヤシやタビビトノキのような観葉植物、パパイヤやマンゴーなどの果樹類あわせて約100種類400株の植物を展示しているそうで、なかなか見応えがあった。
その後、ぶらぶらと歩きながら、宇喜多秀家の墓まで行ってみた。1606年(慶長11年)8月、秀家とその息子秀高・秀継、そして家臣10名の主従13名が八丈島へ送られてきたとのことで、当時は「鳥もかよわぬ」と表現されたほどの絶海の孤島だったので、いかに厳しいものだったかがわかる。しかも、その後、秀家は約50年もの流刑生活を送り、許されることなく、1655年(明暦元)11月20日、83歳で亡くなくなったそうだ。華やかだった人生の前半とを比較してみるとあまりにも落差を感じ、いたたまれないような気がした。静かに手を合わせ、冥福を祈ると共に、その悔しさを偲んでみた。
昼食後、八丈島空港14時50分発のエアニッポン830便で、羽田空港へと戻ってきた。飛行機だと45分ほどで到着することが出来、行きに船で10時間もかかったのが、ウソのように思われた。 |
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