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私の旅日記

旅日記(6)群馬県北部のダムと温泉巡り
2007.5.12-13

*2007年5月12日(土) 

・群馬県北部のダムと温泉を巡る旅に出発する

 昭和史を考える上で、ダムの建設とそれによって湖底に沈まざるを得なかった村人のことは知っておく必要があると思い、群馬県北部のダムを巡りながら、温泉に入る旅に出ることにした。
 朝6時に出立して、高速を使わず、第2産業道路から国道17号線そして、上武道路へと乗り継いで、利根川を渡り、群馬県境を越えた。その後は、赤城山麓を周回し、沼田からは、利根川沿いに北上して、みなかみ町へと入ってきた。

・藤原ダムを見学する

 さらに、藤原方面へと進み、最初に、群馬県北部の藤原ダムを見学した。1959年(昭和34年)に完成したもので、洪水調節、不特定かんがい用水の補給、発電を行う多目的ダムだ。また、1981年(昭和56年)に完成した玉原ダムとの間で揚水発電も行うようになり、藤原ダムが下部ダムで、玉原ダムが上部ダムとなり、有効落差518m、揚水時の全揚程559mは世界最大級とのことだ。しかし、このダム建設によって、藤原集落160戸が水没しており、工事中には、20余名もの犠牲者を出し、ダムサイトに慰霊碑が建立されていた。紺碧のダム湖はとても静かに水を湛え、訪れる人もほとんどなかった。
藤原ダム 藤原ダムの慰霊碑

・「奥利根民俗集古館」と「あゝ湖底の故郷館」を訪ねる

 その後、ダムサイトを走って、「奥利根民俗集古館」を訪ねた。大きな茅葺きの屋根の古民家で、築300年以上のは経っているとのこと。奥利根地方の民具や民俗資料などが所狭しと並べられていて、懐かしい思いで見て回った。囲炉裏に火が入っていて、その端でせんべいとお茶をご馳走になってきた。
 次に、藤原ダム期成同盟委員長だった林賢二氏が建てたという「あゝ湖底の故郷館」(注:現在は閉館)にも立ち寄った。藤原ダムによって水没した藤原集落160戸の資料館で、ダム建設反対から、苦渋の受け入れまでの過程をパネル展示してあり、ダムによって水没し、先祖代々の家や田畑を手放して、他へ移らなければならなかった人達の苦悩を見せつけられる感じがした。この建物の前に、「ああ藤原湖」の詩碑が立っていた。聞くところによると、作詞家西条八十が依頼されてダムに沈んだ村人のために作詞したとのことで、1955年(昭和30)8月に、作曲は古関裕而、歌は伊藤久雄と奈良光江でコロンビアレコードから出されたそうだ。
あゝ湖底の故郷館 「ああ藤原湖」の詩碑

・「TEPCO電源PR館・須田貝」を見学する

 それから、国指定重要文化財「雲越家住宅」見学後、「TEPCO電源PR館・須田貝」(注:現在は閉館)にも行ってみたが、眼前には巨大な須田貝ダムが聳え、威容を誇っていた。内部の展示では、水力発電の方法について解説してあり、特に、揚水式発電についての知見を得た。
須田貝ダム TEPCO電源PR館・須田貝

・宝川温泉「汪泉閣」で露天風呂に入浴する

 見学してから、昼食のとれる場所を探しに奈良俣ダムの方へと向かっていった。ロックフィールドダムが望めるところまで走ってみたが、食事の出来るところが見つらなかったので、引き返すことにした。
 仕方がないので、宝川温泉「汪泉閣」へと至り、そこで昼食を取ることにした。ざる蕎麦を食べてから、日帰り入浴したんだけど、ここは日本一の面積を誇る露天風呂がある。とても大きなものが、子宝の湯(混浴)、摩訶の湯(混浴)、摩耶の湯(女性専用)、般若の湯(混浴)と河原に4つ並んでいて、併せると畳450枚分の広さがあるという。泉質は、弱アルカリ性の単純温泉で、無色透明、やわらかくて入りやすい湯だ。渓谷を望むロケーションは最高で、のんびりと浸かって、温泉を堪能した。
宝川温泉「汪泉閣」の入口 宝川温泉「汪泉閣

・茂左右衛門地蔵尊に立ち寄る

 入浴後は、藤原地域から離れ、国道291号線に出て、南下していった。後閑まで走って、茂左右衛門地蔵尊に立ち寄っていくことにした。ここは、徳川五代将軍綱吉に沼田藩主・真田信利の暴政を直訴し、1682年(天保2)11月5日、この地で処刑された杉木茂左右衛門を祀ったところだ。この義挙により、沼田藩は改易となり、利根・吾妻・勢多177村の領民の窮状を救うことになった。妻子もまた斬首されていて、茂左右衛門の恩義に報いる為、領民達が建てたのが、この千日堂とのことだ。また、磔刑に処せられたところに“義人茂左衛門刑場跡”の碑が立っていた。
義人茂左衛門刑場跡の碑 千日堂前の義人杉本茂左衛門の碑

・「塩原太助記念館」見学と巧みの里を巡る

 ここから、国道17号線を少し行って、「塩原太助記念館」も見学した。ここは、上毛かるたにも「沼田城下の塩原太助」と謳われ、群馬県民に親しまれている塩原太助の記念館だ。太助(1743〜1816年)は新治村下新田の農家に生まれ、幼くして両親を亡くし、19歳の時、江戸に出て炭屋に奉公した。22年間、にわたって、勤勉に働き、後に独立して成功した。「本所に過ぎたるものが2つあり。津軽大名、炭屋塩原」と言われたほどに出世したが、晩年は多額の私財を公益事業に投じたとのこと。展示コーナーには、太助の遺品や炭焼き用具などを紹介する炭に関する資料等があり、興味深く見学した。
 その後、巧みの里を巡ったんだけど、天気がとても良く、春の花がたくさん咲いていて、とても良かった。

・宿泊する湯宿温泉「金田屋」へ到着する

 それから、泊まることになっていた湯宿温泉「金田屋」に早めについて、外湯巡りに出かけた。「小滝の湯」と「窪湯」を巡ってきたが、かなり熱めな湯だったものの、浴後はさっぱりした。宿に帰ってきてから内湯に入り直し、6時から夕食となった。薬膳料理というのが出されたんだけど、いろいろと趣向が凝らしてあった。空也蒸しとか、鮭の味噌付け焼、ネギトロワラビトロ、桑の葉の天ぷらなどなど、とても豪華で、手が込んでいて、堪能した。お酒も冷やで2合頼み、美味しく飲みかつ食べた。
 この宿は若山牧水が、「みなかの紀行」の旅の途上で宿泊したことでも有名で、牧水が泊まった蔵座敷が残されていて、“牧水の間”としてそのまま保存され、談話室となっていたので、食後に見学した。
 その後は、部屋に戻って、テレビを見たり、明日の旅程を考えたりしていたら、まどろんできたので、床に就いた。
湯宿温泉「金田屋」 湯宿温泉「金田屋」の“牧水の間”

☆湯宿温泉「金田屋」に泊まる。<1泊2食付 10,000円(込込)>

宿


湯宿温泉“金田屋旅館”のデータ
標準料金 1泊2食付 8.000〜12,000円(込別)  
浴室 内湯2(男1・女1)
入浴料金 大人 600円、小人 300円
外来入浴時間 午後12時30分〜午後4時30分
定員 木造2階建 16室 50名 
住所、電話 〒379-1414 群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉608 TEL(0278)64-0606
交通 JR上越新幹線上毛高原駅より猿ヶ京行きバス20分「湯宿温泉」下車徒歩1分
湯宿温泉「金田屋」の公式ホームページへ
湯宿温泉「金田屋」の夕食 湯宿温泉「金田屋」の朝食

*2007年5月13日(日) 

・朝の散策と朝風呂、朝食後に出立する

 朝早く起き出して、6時半頃から、カメラ片手に散歩に出かけた。朝の空気が清々しい中をぶらぶらと温泉街を歩き、河原の方まで行って、写真を撮った。
 戻って来てから、朝風呂に入って、汗を流したんだけど、とてもすっきりしたので、その後の朝食も美味しく食べられた。朝でも、結構豪華な食事で、下手な旅館の夕食くらいのボリュームがあった。しかも、お粥が美味で、おかわりしたくらいだった。
 食後は、部屋に戻って、ゆっくり荷物をまとめ、8時半頃には、宿を立って、もう少し北に向かってみることにした。

・旧三国街道永井宿を巡る

 国道17号線に沿って走り、新潟県境に近い、旧三国街道永井宿までいってみた。ここは、昔の宿場の面影が残されていて、以前の旅籠の建物も残っている。かつては、新潟から運ばれてきた米を取り引きする場所となり、賑わったとか...。そのよすがを「永井宿郷土館」の展示で、知ることが出来た。郷土館の前には、若山牧水の歌碑「山かげは 日暮れ早きに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す」があるが、これは1922年(大正11)10月22日、いわゆる『みなかみ紀行』の旅の途中で歌ったものなのだ。しかし、他の場所で歌ったものと取り違えて、歌集に掲載されたとも言われている。
 見学後、旧本陣跡へも行ってみたが、今は建物もなく案内板と石碑が立っていた。そこには、1931年(昭和6)、与謝野晶子が法師温泉に来遊中に訪れた時詠んだという歌「訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かりを呼べば 通う秋風」が刻まれていた。
永井宿郷土館 若山牧水の歌碑

・椿山房(三国路与謝野晶子紀行文学館)を見学する

 その後、旧三国街道を通って、猿ヶ京まで戻り、「椿山房(三国路与謝野晶子紀行文学館)」を見学した。まず、与謝野晶子の事績を紹介したビデオを見、館内を巡ったが、豊富な資料と共に、晶子の情熱的な姿が彷彿としてきて、良い勉強になった。

・八ツ場(やんば)ダム水没予定の川原湯温泉で入浴する

 それからは、川原湯温泉を目指して、峠を越えていった。八ツ場(やんば)ダムによって、水没の危機にある川原湯温泉に入ってみたかったのだ。この温泉はダム建設の予定があったために、増改築が控えられ、昔ながらの温泉街が残されている。その中にある「山木館」(注:現在は閉館)の露天風呂に700円也で入浴させてもらった。階段を下りていった渓谷沿いにあり、大きな水車と共に風情がある。聞くと、このままダム建設が進めば、2〜3年後には、立ち退かなければならなくなるそうだ。源泉掛け流しで、お湯も良く、すばらしい温泉だけに、とても残念でならない。
 入浴後は、昼を過ぎていたので、JR川原湯温泉駅近くまで戻って、郷土料理店に入り、天ざるうどんを食べた。麺がシコシコして腰があり、天ぷらも上手く揚げてあって、美味しく頂いた。
川原湯温泉「山木館」 川原湯温泉「山木館」の露天風呂

・八ツ場ダムPRのためにつくられた「やんば館」を見学する

 食後は、少し走って、八ツ場ダムのPRのためにつくられた「やんば館」(注:現在は『道の駅「八ッ場ふるさと館」内の情報発信コーナー』へ移転)へ立ち寄ってみた。そこで、ダム建設の概要を知ることが出来たが、風情と温泉文化の残る川原湯温泉やみごとな渓谷美が続く、吾妻峡の一部が湖底に沈んでしまうのは耐え難いものを感じた。八ツ場ダムは水害対策と首都圏の生活用水確保が目的とされているが、首都圏の水事情も大きく変化しているようだ。第一に、不況以後の企業活動の停滞、工場の海外移転、工場の節水対策の強化など工業用水の需要が伸び悩んでいること。第二に、首都圏の人口増加が鈍化してきていて、家庭における節水対策の強化によって家庭用水の需要も伸び悩んでいることなどだ。従って、従前の水利用計画も下方修正が必要になっているように思われる。このまま、ダム工事を進めると、その工事費や経費が水道料に跳ね返って、水道料金の値上げにもなりかねず、首都圏住民にも困った問題だと考えている。従って、私は埼玉県民だが、そういう意味からも八ツ場ダムはつくってほしくないと思うのだ。八ツ場ダム建設を中止して、なんとか、川原湯温泉を現状のままで残せないものかと考えた。
やんば館 中之条町歴史民俗資料館

・「中之条町歴史民俗資料館」を見学して帰途に就く

 その後、「中之条町歴史民俗資料館」(注:現在は中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」)を見学し、渋川インターから関越自動車道に乗ったんだけど、たいした渋滞もなく、所沢インターまでは来た。しかし、その先が混んでいるようだったので、下道におり、夕方には戻ってきた。
 今回は、天気にも恵まれ、3ヶ所のすばらしい温泉に入り、美味しいものもいろいろと食べて、とてもいい旅だったものの、ずいぶんいろいろな所を巡ったんで、ちと疲れた。また、山奥ばかりを巡ったんで、いつも買い求める絵葉書を探したのだが、売っていなかったのが残念だった。
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