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古(いにしえ)を訪ねる旅
 城郭探訪(2) 彦根城

インデックス

@二の丸佐和口多聞櫓 A彦根城博物館 B天秤櫓 C太鼓門櫓
D天守閣  E西の丸三重櫓  F楽々園  G玄宮園 
☆彦根城文化財一覧 ◎彦根城歴代城主

彦根城探訪マップ
 彦根城(滋賀県彦根市)は、大坂の豊臣氏、西国大名に備える戦略的目的から、幕府の全面的支援を得た天下普請となり、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じて、1603年(慶長8)から築城を開始し、20年近くの歳月をかけて、1622年(元和元)頃に完成しました。国宝に指定されている3層3階の天守は、付櫓を持つ複合式で、華灯窓や武者窓、唐破風千鳥破風などに飾りの付いた美しい姿をしています。築城以来、廃藩置県まで井伊氏が居城しました。城跡には、天守閣以外に4基、太鼓門、馬屋、石垣土塁が現存し、往時の城郭の様子を今にとどめています。また、旧表御殿の外観(一部内部)を復元した「彦根城博物館」が建設されています。尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。

@二の丸佐和口多聞櫓

二の丸佐和口多聞櫓 市民ギャラリーと外壕

 彦根城探訪の最初は、いろは松から外壕(旧中濠)を越えて、二の丸佐和口門から入ってみたいものです。入口両側に並んでいるのが佐和口多聞櫓で、ここには昔、佐和口門という櫓門があり、両方の櫓はこの門の上で続いていたといいます。今も大きな門の基礎が残され、往時を偲ばせてくれるのです。向かって西側の二間半に二十八間櫓は国指定の重要文化財で、1961年(昭和36)に解体修理が行われました。東側の二間半に五十間の櫓は、1960年(昭和35)に井伊大老百年祭記念事業として造られたもので、外観は昔のままに復元されていますが、鉄筋コンクリート造りです。内部は市民ギャラリーとして、展覧会等に利用されているとのことです。二の丸内に隣接して、これも国指定重要文化財に指定されている馬屋がありますが、こういう建物が現存しているのは全国でも極めて珍しいのです。

A彦根城博物館

彦根城博物館の玄関 彦根城博物館の庭園

 表門橋で、内壕を渡り、表門の跡を過ぎると「彦根城博物館」が見えてきます。これは、市制50周年記念事業として、1987年(昭和62)に、江戸時代に彦根藩の政庁であった表御殿を発掘調査や古絵図をもとに復元したものです。「奥向き」と呼ばれる主に藩主の私邸にあたる部分は、古絵図や起こし絵をもとに内部まで復元した木造の建物で、「表向き」と呼ばれる政務が行われていた部分は、外観だけの復元で、彦根藩ゆかりの品々の展示スペースとなっています。関ケ原の戦いで井伊の赤備えと呼ばれ、恐れられた赤い甲冑などの武具や能面・能装束・茶道具・書など、収蔵する約3万5千点の中から選ばれた品々を見学できるのです。中でも、我宿蒔絵硯箱や二彩刃貼花花唐草文壷などの美術工芸品や千代姫ゆかりの華麗な雛道具は一見の価値があります。また、移築復元された能舞台、復元された表御殿「奥向き」内部や庭園を巡りながら大名生活の一端に触れてみるのもなかなか面白いので、ぜひ見学されることをお奨めしたいのです。

彦根城博物館の公式ホームページへ

B天秤櫓

廊下橋 天秤櫓
天秤櫓の全景 天秤櫓の裏側

 表門跡から坂道を上り詰めると廊下橋が見えてきます。その下をくぐってから、左側の石段を登って、鐘の丸の方へ大きく回り込むと、国の重要文化財に指定されている天秤櫓の全景が見えてくるのです。凹型をしていて、昔の天秤のように見えることからこの名前がついたといいます。空濠に面して多聞櫓が建てられ、両隅に二重櫓をしつらえ、鐘の丸とは廊下橋で結ばれています。よく見ると、格子窓の数も左右で異なり、決して左右対称ではないのです。しかし、なんかお城の門という感じを彷彿とさせるところでした。1970年(昭和35)に完成した解体修理時、瓦に長浜城主であった内藤家の定紋(上り藤)瓦が発見されたので、長浜城大手門を移築したものと考えられています。

C太鼓門櫓

太鼓門櫓

 さらに、坂道を上って回り込むと、これも国指定重要文化財の太鼓門櫓に突き当たります。本丸の表口をかためる櫓門で、城内への合図に用いる太鼓が置かれていたので、この名前で呼ばれてきたといいます。解体修理により、このは移築されたものであることが判明し,佐和山城の城門を移したものと考えられているのです。石垣にまたがる三間脇戸附の櫓門で、上層が正面三間、巾の広い開口をもち、背面が一面の縁手欄附の構造になっており、初期櫓門の傾向を持っています。

D彦根城天守閣

南西面 東面
南面 北面
 本丸に登ると一番高いところに天守閣がそびえています。国宝に指定されている5天守閣の一つで、現存天守の完成は1603(慶長8)年、伊井直孝の時ですが、旧大津城天守閣の資材を使って再築されたものとされています。この城は、大坂の豊臣氏、西国大名に備える戦略的目的から、幕府の全面的支援を得た天下普請となり、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じて完成しました。どっしりとした牛蒡積と呼ばれる石垣の上に、3層3階の天守が威風堂々と建っています。付櫓を持つ複合式で、いくつもの屋根様式を巧みに組み合わせ、華灯窓や武者窓、唐破風千鳥破風などに飾りの付いた美しい姿をしていて、ほれぼれとするのです。

E西の丸三重櫓

西の丸三重櫓南東面 西の丸三重櫓北面

 天守閣を後ろに見ながら、西の丸へ進むと、その端に、多聞櫓に連なって、国指定重要文化財の三重櫓があります。小谷城からの移築と伝えられていますが、定かではありません。脇にある石段を下って回り込み、空掘に架かった橋を渡った辺りから見上げる北面の姿が美しく、桜の頃には一段と素晴らしいとのことです。

F楽々園

楽々園の玄関 楽々園地震の間
楽々園槻御殿 楽々園大広間

 城山を下って、黒門橋で内堀を越えると楽々園があります。旧藩主の下屋敷で、槻(けやき)御殿、別名黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで、この名前で呼ばれているのです。1677年(延宝5)、第4代藩主直興により造営が開始され、1679年(延宝7)に完成、その後数回にわたり増改築がおこなわれたとのことです。往時には能舞台を備えた広大な建物であったのですが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間など、数分の一ほどが残っているだけです。しかし、全国に残されている城郭御殿建築は珍しく、二条城、高知城、掛川城、川越城などに残されているだけなので、たいへん希少価値があります。ここで、特に興味深いのは、地震の間という特殊な部屋があることです。これは、八畳、四畳、二畳半の部屋からなり、建物全体が一枚の大岩盤上にあり、土台が舟底形になって地震の衝撃に逆らわぬように造ってあるといいます。更に上部構造をできるだけ軽減するための工夫も施されているとのことです。江戸時代に耐震設計を施した建物は珍しく、現存しているものはほとんどないと聞きました。当時の建築技術の高さを示すものではないでしょうか。また、幕末の大老として有名な井伊直弼も、1815年(文化12)10月29日に、この屋敷で生まれたとのことです。枯山水の庭園もあり、玄宮園と併せて国の名勝に指定されています。

G玄宮園

魚躍沼に泳ぐ白鳥 臨池閣と鳳翔台
玄宮園から望む彦根城天守閣

 楽々園の東に隣接する玄宮園は、井伊家旧下屋敷の大名庭園で、第4代藩主直興が1677年(延宝5)に造営しました。唐の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて造ったので、この名がついたと言われています。また、八景亭とも称されるのは、中国の瀟湘八景あるいは近江八景を取り入れたためとのことです。江戸時代初期の大池泉回遊式庭園で、魚躍沼(ぎょやくしょう)と呼ばれる大きな池に突き出すように建つ臨池閣(りんちかく)、凰翔台(ほうしょうだい)といった建物、蓬莱四島になぞらえたという4つの島、鶴鳴渚(かくめいさぎさ)、竜臥(りゅうが)橋などなど、樹木や岩石が巧みに配置され、背景に彦根城天守閣がうかがえる様は、見事というほかありません。初夏にはハナショウブ、秋には紅葉と、四季折々の風情が、訪れる人の目を楽しませてくれるのです。1951年(昭和26)に、楽々園と併せて、庭の敷地約28.700平方mが名勝に指定され、現在は彦根市が維持、管理しているそうです。テレビの時代劇や映画のロケ地としても度々使われているとのことです。

彦根観光ガイドの彦根城のホームページへ

☆彦根城の指定文化財一覧

指定文化財 指定 員数 指定年月日
彦根城天守、附櫓及び多聞櫓 国宝 2棟 1952年(昭和27)3月29日
彦根城天秤櫓 重要文化財 1棟 1951年(昭和26)9月22日
彦根城太鼓門櫓及び続櫓 重要文化財 1棟 1951年(昭和26)9月22日
彦根城西の丸三重櫓及び続櫓 重要文化財 1棟 1951年(昭和26)9月22日
彦根誠二の丸佐和口多聞櫓 重要文化財 1棟 1951年(昭和26)9月22日
彦根城馬屋 重要文化財 1棟 1963年(昭和38)7月14日
旧池田屋敷長屋門 市指定文化財 1棟 1973年(昭和48)4月28日
旧西郷屋敷長屋門附袖塀、塀及び医薬門 市指定文化財 1棟 1973年(昭和48)4月28日
旧鈴本屋敷長屋門 市指定文化財 1棟 1977年(昭和52)5月16日
彦根城跡 特別史跡 1件 1956年(昭和31)7月19日
玄宮楽々園 名勝 1件 1951年(昭和26)6月9日

◎彦根城の歴代城主

歴代城主 石高 在城年 備考
初代 井伊直継(なおつぐ) 180,000石 1603〜1615年 1603年築城を開始し、1606年に佐和山城から移る。1615年3万石を分知され安中城主に
2代 井伊直孝(なおたか) 300,000石 1615〜1659年 大坂冬・夏の陣の功績等により10万石加増
3代 井伊直澄(なおずみ) 300,000石 1659〜1676年
4代 井伊直興(なおおき) 300,000石 1676〜1701年 槻御殿を造営する
5代 井伊直通(なおみち) 300,000石 1701〜1710年
6代 井伊直恒(なおつね) 300,000石 1710年 藩主になって約50日で没する
7代 井伊直興(なおおき) 300,000石 1710〜1714年 隠居していた4代直興が再び城主に、直該(なおもり)と改名。幕府の大老職に就く
8代 井伊直惟(なおのぶ) 300,000石 1714〜1735年
9代 井伊直定(なおさだ) 300,000石 1735〜1754年
10代 井伊直(なおよし) 300,000石 1754年 藩主になって約60日で没する
11代 井伊直定(なおさだ) 300,000石 1754〜1755年 隠居していた9代直定が再び城主に
12代 井伊直幸(なおひで) 300,000石 1755〜1789年 幕府の大老職に就く
13代 井伊直中(なおなか) 300,000石 1789〜1811年
14代 井伊直亮(なおあき) 300,000石 1811〜1850年 幕府の大老職に就く
15代 井伊直弼(なおすけ) 300,000石 1850〜1860年 幕府の大老職に就く、桜田門外の変で暗殺される
16代 井伊直憲(なおのり) 300,000石 1860〜1871年 1871年廃藩置県により城主ではなくなる
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