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古(いにしえ)を訪ねる旅
 私の好きな中世城郭跡
逆井城跡に復元された望楼(茨城県坂東市) 小谷城跡から見た琵琶湖(滋賀県長浜市)

☆中世城郭跡とは?

 戦国時代以前の中世の城は山城といわれ、数十から数百m位の山の上に作られた、防御的機能に重点を置いたものが多く、城下町の発達も余りみられませんでした。また、天守閣というような大きな建物もなく、現在の遺跡としてもあまり見るべきものが残っていません。しかし、土塁や堀跡、建物跡等を見ると当時の城郭がよみがえってくるようなところもあり、興味深いのです。最近話題となっている「日本のマチュピチュ」と呼ばれる天空の城・竹田城跡(兵庫県朝来市和田山町竹田)も中世の城郭跡です。また、近年中世城郭跡を復元しようという動きがあり、逆井城跡(茨城県坂東市)、箕輪城跡(群馬県高崎市)、鳥越城跡(石川県白山市)、荒砥城跡(長野県千曲市)、高根城跡(静岡県浜松市天竜区)、足助城址(愛知県豊田市)、鬼ノ城跡(岡山県総社市)、東条城跡(愛知県西尾市)、綾城跡(宮崎県東諸県郡綾町)など、塀や櫓、門等の一部が木造で復元されている所もあります。


☆中世山城の思い出

 私は、日本中を旅して回りましたが、中世の山城跡にも何度か立ち寄っています。結構標高の高い山の上にある所もあり、車で上まで行けない城跡も多いので、麓から徒歩で登るのは容易ではありません。しかし、当時の武将たちは重い甲冑を身に着けて上り下りしたのかと思うと、負けてはいられませんでした。山道を喘ぎながら登って行って、本丸までたどり着き、その眺望がすばらしかった時には、戦国武将の気持ちになって、下界を見下ろしたものです。戦国合戦に関わって、血の池、首洗いの井戸、腹切り丸などの伝説の地もあって、いろいろと興味深いものです。登るのがたいへんな城跡もありますが、歴史に思いを馳せる上でも立ち寄ってみることをお勧めします。


☆私の好きな中世城郭跡七題

 私は、日本中を旅したなかで色々な中世城郭を巡りました、その中から特に印象に残った中世城郭を7つ紹介しましょう。

(1) 逆井城跡公園<茨城県坂東市>

 ここは、戦国時代の末期に後北条氏が常陸、下野方面へ侵攻するための最前線基地として築いた城で、茨城県の史跡に指定されています。現在は、計画的な発掘調査と本格的な保存・復元整備事業により、「逆井城跡公園」として、多くの建築遺構が再現されました。櫓、土塀、櫓門、木橋などが復元されていますが、これらは発掘調査に基づいた時代考証を行い復元されたものです。中世城郭の姿を可能な限り忠実に基づいて再現しているので、戦国時代の城郭の様子を知る上では、貴重なものです。

逆井城の櫓(復元) 逆井城の主殿(復元)


(2) 鉢形城跡<埼玉県大里郡寄居町>

 ここは、室町時代〜戦国時代の城跡で、平安末〜鎌倉初期に築かれたという伝承もありますが、史料的には、1473年(文明5)から翌々年にかけて長尾景春が築城したとされています。その後間もなくして、山内上杉氏の城となりますが、1546年(天文15)の「河越夜戦」で北条氏が勝って、この地域の支配権が移りました。1564年(永禄7)には、北条氏邦が入城し、城の大改修が行なわれ、北条氏の北関東支配の拠点として、現在のような広大な城に拡張されました。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、豊臣方の前田利家、上杉景勝らの連合軍3万5千人に攻められ、北条方3千人が籠城戦を行いましたが、約1ヵ月後に降伏・開城し、その後は廃城となったのです。この城の北西側は荒川に面した高さ100mほどの断崖で、深沢川がつくる深い谷に背後と前面をはさまれた天然の要害となっていました。構造は連郭式平山城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、諏訪曲輪、秩父曲輪、外曲輪などが配され、土塁と堀で区切られています。この遺構が良く残っているので、1932年(昭和7)には、国の史跡に指定されました。現在は鉢形城公園として整備され、特に、三の曲輪では戦国時代の築城技術を今に伝える石積み土塁や四脚門、池などが復元され、園内の「鉢形城歴史館」では、この城の史料や出土物などを保存展示し、往時の姿が紹介されています。

鉢形城本丸跡(埼玉県大里郡寄居町) 鉢形城跡曲輪配置図


(3) 鳥越城跡<福井県白山市>

 石川県白山市三坂町にある中世の山城跡で、「山内衆」と呼ばれる白山麓本願寺門徒の拠点として、天正初年(1573年)頃に二曲城と共に築城され、山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主としたと考えられています。加賀国では一向一揆が守護大名富樫氏を排除して、100年に渡って自治を守りましたが、織田信長の軍勢に攻められ、鳥越城が最後の拠点として戦いました。最後は、1582年(天正10)に織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、この城に拠った三百余人が磔に処せられた言います。加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつので、1985年(昭和60)に国の史跡に指定されました。現在では、石垣や塀、建物の一部等が復元されていて、見学することができます。また、2017年(平成29)には、「続日本100名城」に選定されました。尚、山麓の道の駅「一向一揆の里」には、「鳥越一向一揆歴史館」が併設されていて、加賀一向一揆の資料や鳥越城跡の発掘品などが展示され、興味深く学ぶことができます。

鳥越城跡の復元門と復元櫓 鳥越城跡の復元柵と復元建物(屯舎)


(4) 一乗谷朝倉氏遺跡<福井県福井市>

 戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡です。一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けています。また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されているのです。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されていました。江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものです。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かったとのことです。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示があります。

一乗谷朝倉館跡 復元された町並み


(5) 大高城跡<愛知県名古屋市緑区大高町>

 中世の城跡で、築城年代は定かではありませんが、南北朝時代には、池田頼忠が城主を務め、戦国時代の永正年間(1504〜21年)に花井氏、天文・弘治年間(1532〜58年)には水野忠氏が居城したと伝えられています。織田信秀の支配下にあった1548年(天文17)に、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めましたが、落とすことができず政兼は戦死しました。しかし、信秀の死後は、息子の織田信長に背いた鳴海城主山口教継の調略で、この城は沓掛城とともに今川方の手に落ちてしまったのです。これに脅威を感じた織田信長は、牽制するために近くに丸根砦、鷲津砦を築きました。1559年(永禄2)には、今川義元の命をうけ朝比奈輝勝が大高城の守りに入り、翌年には、包囲網を破って、今川義元の妹婿である鵜殿長照が守備につきました。しかし、糧道を絶たれそうになった中で、松平元康(後の徳川家康)が、織田方の隙をついて敵中を突破して兵糧を入れ、大高城を守ったのです。ところが、1560年(永禄3)5月19日(新暦6月12日)の桶狭間の戦いにより今川義元が討ち死にして今川方が負け、松平元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田方のものとなりました。その後まもなくして、廃城となりましたが、尾張藩家老の志水家が、1616年(元和2)にここに館を設けてから代々住むようになったのです。その館も1870年(明治3)に売却されました。その後も曲輪と堀が残されていて、1938年(昭和13)に「大高城跡 附丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されています。

大高城跡入口 大高城跡


(6) 月山富田城跡<島根県安来市>

 月山富田城の築城は、平安時代後期に遡るとされていますが、以後、この地を治めた守護の拠点となり、佐々木氏、塩冶氏,山名氏などが居城としました。なによりも有名なのは、戦国時代170年間(1396年〜1566年)に渡って、山陰の覇者尼子氏の本拠となったことです。尼子氏滅亡後は毛利氏の手に渡り、関ヶ原の戦いの後は、 堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石の大名として入場しましたが、1611年(慶長16)、松江城に移ったため、廃城となりました。この城は、月山(標高197m)に営まれた天然の要害で、「天空の城」とも呼ばれていました。1934年(昭和9)、国の史跡に指定され、石垣や石畳の古道が整備され、花ノ壇には、建物も一部復元されていて、山中鹿介の銅像や供養塔と共に戦国時代の面影を偲ばせてくれるところです。

月山富田城の山中御殿跡 月山富田城の花ノ壇復元建物


(7) 今帰仁城跡<沖縄県国頭郡今帰仁村>

 ここは、中世の城跡ですが、旧琉球王国の領域にあった奄美・沖縄諸島では、「城」を「グスク」または「グシク」と呼んでいます。これは、城郭としての役割だけでなく、石囲の聖地でもあって、祖霊神ニライカナイの拝所、村落共同体の御嶽でもあると考えられています。この城は、13世紀末ごろから築城が始まったと考えられ、三山分立時代(北山・中山・南山)の北山王の城でした。しかし、1420年前後に尚巴志によって北山が滅ぼされた後は、統治のため監守が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されたのです。標高約100mに位置し、範囲は南北約350m、東西約800mにも及び、堅牢な石垣を有して、本丸・二ノ丸・北殿跡など10もの郭からなる複雑な構造で、面積は約3万7千平方mあります。1972年(昭和47)に、国の史跡に指定されると、石垣も整備され、2000年(平成12)には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。尚、2006年(平成18)に、日本100名城に選定されました。

今帰仁城跡入口 今帰仁城跡の石垣
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