旅籠宿泊記@ 和泉屋<三国街道永井宿> | |||||||||||||||||||||||||||||
<宿泊記録>☆1996年5月3日(金) 1泊2食付 5,000円(込込)で泊まる。
・永井宿へ到着する やっとのこと17時過ぎに永井宿に着いた。旧三国街道が越後との国境に達する手前、三国峠の下にあたる宿場がここだ。街道が大きくカーブしている急斜面にへばりつくように20数戸の民家が並んでいる。意外に風情が残っていて、山間の旅籠の面影があり感激する。今日泊まる宿は江戸時代末期の建築で、140年たっているというだけあって古びてはいるが、もてなしはとても感じがよい。夕食は豪華なものではないが、土地のものを使った、山菜や焼魚で素朴でとてもよかった。ゴールデンウィーク中ということもあって数組の家族連れが泊まっていて、家族ごとに炬燵に入って談笑しながら夕食をとるというのもなかなかほほえましい光景だ。風呂は、改造されていて新しく、湯加減もちょうどよくて気持ちよかった。入浴後炬燵に入りながら亭主が宿の歴史について語ってくれた。「戊辰戦争の時は永井宿には西軍が陣をし指揮官クラスは旅籠に泊まったが、多くの兵は近くで野営した。その時のものだという刀があったが、神社に奉納した。」と言うような貴重な話を聞かせてもらった。こういうことも歴史のある旅籠ならではのことだ。今日の宿にはとても満足した。
・朝永井宿を散策する 翌日は朝6時頃起床し、1時間ばかり旧三国街道を猿ヶ京方面に向かって散策した。宿を出て少し下ると、旧本陣の跡で今は建物もなく案内板と石碑が立っていた。なんでも、昭和6年、与謝野晶子が法師温泉に来遊中に訪れ、その時呼んだという歌が刻まれている。 「訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かりを呼べば 通う秋風」 (与謝野晶子) さらに大きくカーブしながら下っていくと、昔の分校跡があり、今は永井宿資料館となっているが、その前にも、1922年(大正11)10月22日、いわゆる『みなかみ紀行』の旅の途中で歌った、若山牧水の歌碑が建っている。 「山かげは 日暮れ早きに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す」 (若山牧水)
江戸時代は、参勤交代の諸大名をはじめ、新潟奉行や佐渡奉行も泊まったとのことで、交通の要路であった。明治時代以降も上越線の開通までは越後米の関東への流出口であり、米の取引場として隆盛を極め、陸の船着き場ともいわれたそうで、だからこそ色々な文学者も立ち寄ったのであろう。今では、人通りもまれな山村となっているが...。さらに、少し行くともう宿場は終わりで、そこからは旧街道が遊歩道として整備されていて歩きやすい。旧街道に従って谷底へ下っていくと、小さな滝があり、絵にしたいようなとてもよい景色だ。途中石仏があり、天保、寛政などの年号が読み取れる。国道とぶつかるあたりに戊辰戦争で亡くなった会津藩の少年兵町野久吉(白虎隊)の墓があった。慶応4年閏4月24日未明、濃霧の中を、西軍陣地へ突入し戦死したとのこと。歴史の一こまを見る思いがした。この先少し行ってから引き返し、宿に戻って朝食にしたが、これもなかなかおいしかった。これで1泊2食付5,000円は安いと思った。9時前に宿を立ち、さらに三国街道を進む。
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