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古(いにしえ)を訪ねる旅
 城郭探訪(3) 弘前城

インデックス

@追手門 A中濠 B杉の大橋 C南内門 D辰巳櫓 E未申櫓 F下乗橋
G天守閣 H天守からの眺望 I東内門  J与力番所   K丑寅櫓 L北門  
☆弘前城文化財一覧 ◎弘前城歴代城主 

弘前城探訪マップ

 弘前城(青森県弘前市)は、津軽信枚によって、1609年(慶長14)に起工し、大光寺城や堀越城の部材を使い、岩木山から石材を集めて、1611年(慶長16)に普請を終えて入城したと考えられています。しかし、五層の天守は、1627年(寛永4)に落雷によって焼失してしまいました。現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されました。津軽氏は、廃藩置県まで続き、城跡には天守の他に3基のと追手門(大手門)はじめ5棟の櫓門が残り、国の重要文化財に指定されています。石垣土塁なども残っていて、往時の状況を彷彿とさせる城跡なのです。建物はそれほど大きなものではありませんが、本丸、二の丸、三の丸のほぼ全域が公園として残されているのが特徴で、春になると5,000本の桜の花が咲き誇り、とても素晴らしいのです。尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。

@追手門

追手門の表側 追手門の裏側

 追手門は、他の城でいう大手門(城の正面の門)のことで、城郭の最も要所にある出入り口です。この門は、1610年(慶長15)に建てられたもので、外濠に向かい、三の丸へ繋がっていました。二階建ての櫓門で、入母屋造りの本瓦葺きになっていて、が乗ってます。1層目の屋根を特に高く配し、厚い板と太い柱で構成され、2層目には、正面に鉄砲狭間や物見があり、実戦的な造りとなっています。当初は、北門(亀甲門)が、弘前城の表門でしたが、4代藩主の津軽信政の時代の1665年(寛文5)年に、羽州街道が整備されると共に、こちらが表門となりました。江戸時代初期に建てられた櫓門建築の遺構として大変貴重なことから、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。

A中濠

中濠

 築城当時の弘前城は、内濠、中濠、外濠の三重ので囲まれていました。全域は、東西618m、南北956mにもおよび、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭などがあり、それぞれがによって分かたれていたのです。中濠は、二の丸と三の丸を隔てていて、杉の大橋と石橋の2つのがかかっていました。

B杉の大橋

中濠にかかる杉の大橋 

 このは、二の丸と三の丸を隔てる中濠に架かるです。築城当時は、スギ材でつくられたであったため、この名が付けられました。戦になった場合、ここからの敵の侵入を防ぐため、壊したり、焼き払ったりしやすい材質のスギが用いられたと言われています。1821年(文政4)、濠の両側が石垣となるとともに、ヒノキ材による架け替えが行われ、欄干と擬宝珠が付け加えられました。

C南内門

南内門の表側 南内門の裏側

 南内門は、三の丸から中濠に架かる杉の大橋を渡り、枡形に入って、左折したところに建っています。1610年(慶長15)に、弘前藩2代藩主津軽信枚のときに造られました。2層の櫓門形式で、入母屋造り、本瓦葺きで、屋根にが乗っています。1層目の屋根を特に高く配し、厚い板と太い柱で構成され、2層目は、真壁造、白漆喰仕上げで構成され、正面に鉄砲狭間や物見があり、実戦的な造りとなっています。江戸時代の城郭の枡形門で見られる2ノ門(高麗門)がないなど古式的な構成でした。江戸時代初期に建てられた櫓門建築の遺構として大変貴重なことから、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。

D二の丸辰巳櫓

二の丸辰巳櫓

 このは、二の丸の南東角(辰巳)を守る3層のです。1610年(慶長15)に建てられたもので、1・2層は4間四方の同面積ですが、3層目はやや小さく造り、屋根は入母屋造りで、2層目屋根に千鳥破風があり、当初は栩葺(今は銅板を覆っている)でした。防弾・防火のために土蔵造りとなっていて、側には鉄砲狭間が設けられています。このは、江戸時代初期の城郭櫓建築の遺構として大変貴重な事から、棟札(修復 享保十九林鐘二旬七)と共に、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。

E二の丸未申櫓

二の丸未申櫓

 このは、二の丸の南西角(未申)を守る3層のです。1610年(慶長15)に建てられたもので、1・2層は4間四方の同面積ですが、3層目はやや小さく造り、屋根は入母屋造りで、2層目屋根に千鳥破風があり、当初は栩葺(今は銅板を覆っている)でした。防弾・防火のために土蔵造りとなっていて、側には鉄砲狭間が設けられています。現存する三つのは、いずれも3層建てで、同じような造りですが、窓の形など細部に造作の違いが見られました。このは、江戸時代初期の城郭櫓建築の遺構として大変貴重な事から、軒札1枚(修復 元禄十二己卯年八月二日)と共に、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。

F下乗橋

下乗橋から見た天守閣南東面 天守閣から見た下乗橋

 このは、内濠を隔て、 天守本丸と二の丸を橋つなぐ橋です。藩政時代、二の丸側には下馬札が置かれ、藩主と藩主から許された者以外は、誰でも乗り物から降りて歩いて渡らなければならなかったことから、この名がつきました。築城当初、の両端は土留板でしたが、1811年(文政11)に石垣に直されとのことです。ここから見る天守閣はとてもきれいで、撮影スポットとなっています。

G天守閣(御三階櫓)

天守閣南西面 天守閣西面
 天守閣北面  天守閣北東面

 現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されています。本来は1611年(慶長16)、津軽信枚公が完成させた5層天守が聳えていたのですが、2代信牧公のとき1627年(寛永4)の落雷で焼失しました。現存天守閣の特徴は、見る方向によって姿が異なり、二の丸から見える東面、南面にだけ千鳥破風を飾り、本丸から見える北面、西面は銅扉の連窓としていることです。また、城跡には他に3基のと追手門(大手門)はじめ5棟の櫓門が残り、それらと共に1937年(昭和12)、国指定の重要文化財になりました。現在は弘前城史料館として、歴代藩主が使用した駕籠や小道具、調度品の他、刀や槍、鉄砲や大筒などが展示されています。

H天守からの眺望

天守閣から南方向を望む 天守閣から西方向を望む
天守閣から北方向を望む  天守閣から東方向を望む 

 この天守には、高欄がないので、窓を開けて外を見ることになりますが、弘前城の広がりはよくわかりました。南方向を望むと足元に下乗橋が見られ、西方向には、晴れていれば岩木山も見ることができるのです。

I東内門

東内門の表側 東内門の裏側 

 東内門は、三の丸から中濠に架かる石橋を渡り、枡形に入って、右折したところに建っています。1610年(慶長15)に、弘前藩2代藩主津軽信枚のときに造られました。2層の櫓門形式で、入母屋造り、本瓦葺きで、屋根にが乗っています。1層目の屋根を特に高く配し、厚い板と太い柱で構成され、2層目は、真壁造、白漆喰仕上げで構成され、正面に鉄砲狭間や物見があり、実戦的な造りとなっています。江戸時代の城郭の枡形門で見られる2ノ門(高麗門)がないなど古式的な構成でした。江戸時代初期に建てられた櫓門建築の遺構として大変貴重なことから、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。尚、門の内側には、唯一残された与力番所が曳屋移築されています。

J二の丸東門与力番所

二の丸東門与力番所
 弘前城には、城内12ヶ所の主要地点に、与力番所が設けられていて、出入口を監視する詰所となっていました。しかし、この二の丸東門与力番所以外は、明治時代以降廃城となったおりに破却されています。この建物だけは、破却されず放置されていましたが、1915年(大正4)頃に現在の「緑の相談所」が建てられている敷地の東側に曳家移築し公園管理人宿舎や作業員詰所などで利用されました。それを、1979年(昭和54)から復元工事をして、現在地に再度移転保存されたものです。建物は、木造2階建て、入母屋造り、銅板葺きで、平入となっており、外壁は2階が真壁造り、白漆喰仕上げ、1階は下見板張、縦押縁押えです。弘前城内に残る唯一の番所建築として、貴重なものとなっています。

K二の丸丑寅櫓

二の丸丑寅櫓  二の丸丑寅櫓

 このは、二の丸の北東角(丑寅)を守る3層のです。1610年(慶長15)に建てられたもので、1・2層は4間四方の同面積ですが、3層目はやや小さく造り、屋根は入母屋造りで、2層目屋根に千鳥破風があり、当初は栩葺(今は銅板を覆っている)でした。防弾・防火のために土蔵造りとなっていて、堀側には鉄砲狭間が設けられています。現存する三つのは、いずれも3層建てで、同じような造りですが、窓の形など細部に造作の違いが見られました。このは、江戸時代初期の城郭櫓建築の遺構として大変貴重な事から、1937年(昭和12)に、国指定の重要文化財となっています。

L北門(亀甲門)

北門(亀甲門)の裏側 北門(亀甲門)の表側

 北門(亀甲門)は、他の城でいう搦手門(城の裏面の門)のことで、城郭の要所にある出入り口です。この門は、大光寺城の城門を1611年(慶長16)に移築したもので、柱には多数の矢傷や刀傷を見ることが出来、外濠に向かい、北の丸への入口でした。現在残っている弘前城の城門の中では、最大規模の二階建ての櫓門で、入母屋造りの本瓦葺きになっていて、が乗ってます。しかし、矢狭間や鉄砲狭間がないなど他の城門とは異なる古い形式を持っていました。当初は、弘前城の表門でしたが、4代藩主の津軽信政の時代の1665年(寛文5)年に、羽州街道が整備されると共に、追手門が表門となり、こちらは、北門となったのです。弘前城は四神相応の思想で築かれており、北方の守護神として北に位置する丘陵に住むとされる玄武を想定され、玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた神獣だった事から、それに因み亀甲門とも呼ばれました。この門は、安土桃山時代の城門建築の遺構として大変貴重な事から、1937年(昭和12)に、国指定重要文化財になっています。

弘前観光コンベンション協会の公式ホームページへ


☆弘前城の指定文化財一覧

指定文化財 指定 員数 指定年月日
天守(御三階櫓) 重要文化財 1棟 1937年(昭和12)7月29日
二の丸辰巳櫓 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日
二の丸未申櫓 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日 
二の丸丑寅櫓 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日 
三の丸追手門 重要文化財 1棟 1937年(昭和12)7月29日
二の丸南門(南内門) 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日
二の丸東門(東内門) 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日
北の郭北門(亀甲門) 重要文化財  1棟 1937年(昭和12)7月29日
三の丸東門 重要文化財 1棟 1953年(昭和28)11月14日
津軽氏城跡 史跡 1件 1952年(昭和27)3月29日


◎弘前城の歴代城主

歴代城主 石高 在城年 備考
初代 津軽信枚(のぶひら) 47,000石 1611〜1631年
2代 津軽信義(のぶよし) 47,000石 1631〜1655年
3代 津軽信政(のぶまさ) 47,000石 1655〜1710年
4代 津軽信寿(のぶひさ) 46,000石 1710〜1731年 1千石収公
5代 津軽信著(のぶあき) 46,000石 1731〜1744年
6代 津軽信寧(のぶやす) 46,000石 1744〜1784年
7代 津軽信明(のぶはる) 46,000石 1784〜1791年
8代 津軽寧親(やすちか) 100,000石 1791〜1820年 高直し
9代 津軽信順(のぶゆき) 100,000石 1820〜1839年
10代 津軽順承(ゆきつぐ) 100,000石 1839〜1859年
11代 津軽承昭(つぐあきら) 100,000石 1859〜1869年
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