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旅と文学
文学の旅(14) 「新版 放浪記」林芙美子著

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。 

林芙美子とその作品 『放浪記』について 放浪の軌跡 『新版 放浪記』の関係地
『新版 放浪記』を巡る旅七題 関係文学碑 関連リンク集  

☆林芙美子とその作品

 本名は、林フミコといい、1903年(明治36)に、福岡県門司市(現在の福岡県北九州市門司区)で行商人の娘として生れたといわれますが、はっきりしないそうです。その後、各地を転々と放浪しながら育ち,1922年(大正11)に、尾道高等女学校を卒業後上京し、事務員・露天商・女工・女給などの職を遍歴しながら詩や童話を書き始めました。日記をつけるようにもなり、アナーキストの詩人や作家との交流の中で影響をうけるようになったのです。1926年(昭和元)、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、生活が安定しました。1928年(昭和3)、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始し、1930年(昭和5)に改造社から刊行した自伝的小説『放浪記』がベストセラーとなったのです。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、戦後に渡って、第一線の女流作家としての活躍を続けましたが、1951年(昭和26)に47歳で急逝しました。

☆『放浪記』について

 『放浪記』は、作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説で、1928年(昭和3)、長谷川時雨主宰の『女人藝術』に、10月から翌々年10月まで20回、「秋が来たんだ――放浪記」として掲載されました。そして、1930年(昭和5)に改造社から刊行した『放浪記』と『続放浪記』が好評を博し、ベストセラーとなったのです。この小説は、昭和恐慌下の暗い東京で、貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性の姿が多くの人々をひきつけたものと思われます。1939年(昭和14)、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、大幅な改稿が行われました。さらに、戦後になって1946年(昭和21)5月からは、「日本小説」に第三部の連載が始まり、1949年(昭和21)『放浪記第三部』として刊行されました。そして、1979年(昭和54)には、これら全てを含めた『新版 放浪記』が新潮社から刊行され、これが実質上の定本となりました。また、1935年(昭和10)に木村壮十二監督(P.C.L.映画製作所)、1954年(昭和29)に久松静児監督(東映)、1962年(昭和37)に成瀬己喜男監督(東邦)と3度にわたり映画化されていますし、テレビドラマとしても何回か放送されています。さらに、女優・森光子が1961年(昭和36)に主役で、東京の芸術座で初演した舞台版「放浪記」は、同一主演者により2009年(平成21)まで2017回の上演を記録しました。

☆林芙美子の青春期までの放浪の軌跡

林芙美子の青春期までの放浪の軌跡
1903年(明治36) 0歳
 ・福岡県門司市大字小森江で生まれる(下関説もあり)
1904年(明治37) 1歳
 ・山口県下関市に転居し、父は「軍人屋」という店を構えた
1910年(明治43) 7歳
 ・母キクは、芙美子を連れて店員の沢井と家を出て、長崎に転居
 ・芙美子は、長崎市勝山尋常小学校へ入学
 ・芙美子は、佐世保市八幡女児尋常小学校(現在の佐世保市立清水小学校)へ転校
1911年(明治44) 8歳
 ・沢井は、下関市で古物商を営む
 ・芙美子は、下関市名池尋常小学校(現在の下関市立名池小学校)へ転校
1914年(大正3) 11歳
 ・沢井の店が倒産し、両親は行商に出る
 ・芙美子は、一時鹿児島の叔母に預けられる
 ・その後、芙美子は祖母に預けられる
 ・芙美子は、鹿児島市山下尋常小学校(現在の鹿児島市立山下小学校)5年へ編入
1915年(大正4) 12歳
 ・この頃、養父沢井と母キクの行商に従って、九州各地を転々とする
1916年(大正5) 13歳
 ・一家で広島県尾道市へ転居
 ・芙美子は、第二尾道尋常小学校(現在の尾道市立土堂小学校)5年へ編入
1917年(大正6) 14歳
 ・因島から忠海中学校に通っていた岡野軍一と親しくなる
1918年(大正7) 15歳
 ・芙美子は、第二尾道尋常小学校を卒業
 ・芙美子は、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ入学
 ・学費のため夜は帆布工場に勤める
1922年(大正11) 19歳
 ・芙美子は、尾道市立高等女学校を卒業
 ・明治大学に通う恋人岡野軍一を頼って上京
 ・東京市小石川区雑司ヶ谷に住む
 ・風呂屋の下足番や株屋の事務員などの仕事を転々とする
 ・両親が上京し、露天商として生計を立てる

『新版 放浪記』の関係地


『新版 放浪記』を巡る旅七題

 私は、今までに『放浪記』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で心に残った所を7つ紹介します。

(1) 下関<山口県下関市>
 林芙美子は、1903年(明治36)に下関市田中町の五穀神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと言われています。この五穀神社に、林芙美子生誕地の碑があります。自叙伝でもある「放浪記」にも下関のことが書かれており、第一学年から第四学年まで在籍していた名池小学校の資料室には彼女の学籍簿が展示されています。また、亀山八幡宮には、林芙美子文学碑があり、「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んであり、その脇の銅板には、「……私が生まれたのはその下関の町である」と「放浪記」の冒頭の部分が書いてあります。

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 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云うであった。私が生れたのはその下関の町である。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より
 


(2) 古里温泉<鹿児島県鹿児島市>
 多目的広場を備えた古里公園内には、小説「放浪記」「浮雲」などの名作を残した女流作家・林芙美子の文学碑があります。林芙美子の母親林キクは桜島の出身で、兄の経営する古里温泉を手伝っているとき知り合った泊り客(行商人)の宮田麻太郎との間にできたのが林芙美子で、本籍地もここになっています。その後、11歳の時に芙美子が本籍地に預けられ、当地で一時期を過ごしました。この母の出身地である古里町に、林芙美子の幼少期と大人の和服姿の銅像2体と「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んだ文学碑が建てられています。

  あなたは私と同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとは思いませんか?霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンがおいしい頃ですね。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より
林芙美子幼少期の銅像(鹿児島県鹿児島市) 林芙美子文学碑(鹿児島県鹿児島市)


(3) 直方<福岡県直方市>
 作家の林芙美子は、12歳のころ直方の旧大正町の木賃宿「大正町の馬屋」に泊まり両親と行商を行いました。小説『新版 放浪記』の冒頭部分に、下記のように「直方の炭坑町」が描かれており、12歳のころの直方時代が林芙美子文学の原点になった、ともいわれています。また、「このころの思い出は一生忘れることはできない」とも記されています。現在、商店街の北側に位置する須崎町公園には、「放浪記」文学碑があり、「私は古里を持たない 旅が古里であった」と刻まれています。また、山部の西徳寺には林芙美子滞在地記念文学碑もあります。

 直方の町は明けても暮れてもけて暗い空であった。砂でした鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より
 


(4) 尾道<広島県尾道市>
 1916年(大正5)5月に、林芙美子は尾道に両親とともに降り立ちました。そして、しばらく落ち着くことになり、翌年、市立尾道小学校(現在の尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業できたのです。1918年(大正9)、文学の才能を見出した教員の勧めで、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ進みました。夜間や休日は働きながら、図書室の本を読み耽けったとのことです。教諭も文才を延ばすように努め、友人にも恵まれ、18歳頃から、地方新聞に詩や短歌を投稿しました。1922年(大正13)、女学校卒業直後、上京するまで尾道にとどまり、故郷としての印象を深く刻ませ、後年もしばしば「帰郷」することになります。小説『新版 放浪記』の中にも、主人公が居住した地として登場し、尾道の町並みや千光寺のことが詳しく書かれています。以前市内には、文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開した施設があり、内部に、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしていましたが、2020年3月末で閉館しました。千光寺公園の文学のこみちには、下記の「放浪記」の一説を刻んだ石碑が立っていますし、本通り商店街入口には、和服姿でかがんだ林芙美子像もあります。また、像の近くの商店街に「おのみち林芙美子記念館」があり、その奥には芙美子が14歳の頃暮らした旧居が残されていて見学できます。

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より
閉館となった尾道文学記念室(広島県尾道市) 林芙美子碑(広島県尾道市)


(5) 東京<東京都>
 1922年(大正11)に上京して以来、事務員・露天商・女工・女給などの職を転々とし、多くの苦労を重ねてきた林芙美子は、1930年(昭和5)に落合の地(現在の東京都新宿区)に移り住み、1939年(昭和14)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。そして、1941年(昭和16)8月から1951年(昭和26年)6月28日に死去するまで住んでいたのです。現在、この家は改築・整備され、「新宿区立林芙美子記念館」として公開されています。旧家部分の立ち入りは不可ですが、生前林芙美子が生活していた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先から見ることができます。画家であった夫の林緑敏の旧アトリエは、展示室となっていて、そこは見学できます。また、そこから徒歩20分ほどの万昌院功運寺に林芙美子の墓があります。

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 夜。
 新宿の旭町の木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道がこのようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より
新宿区立林芙美子記念館(林芙美子旧居) 林芙美子の墓(功運寺)


(6) 因島<広島県尾道市>
 ここは、林芙美子の初恋の相手岡野軍一の生まれ故郷です。林芙美子が、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)6年生の頃、当時忠海中学の生徒だった岡野軍一と出会い、付き合うようになりました。岡野軍一が、明治大学商科進学のため上京すると、林芙美子も同じく、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)卒業と共に、恋人を追って上京したのです。そして、雑司が谷で一年ほどいっしょに暮したものの、大学を卒業した岡野軍一は故郷に戻り、日立造船所因島工場に勤めました。しかし、岡野軍一は家族の反対で芙美子との婚約を解消することとなったそうです。そういうわけで因島は、芙美子の恋人岡野軍一の故郷として度々訪れ、小説『新版 放浪記』の中にも、下記のように舞台として登場しています。たまたまあった、造船所のストライキの様子を詩にして挿入していますが、とても印象的です。また、因島公園には、林芙美子の文学碑が建てられ、「海を見て 島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い」と刻まれています。

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 物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。

 夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」
 船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」
 運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布をに入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、の様なブンブンと云う喚声があがっている。
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より


(7) 直江津<新潟県上越市>
 林芙美子は、1924年(大正13)頃に、東京の上野駅から信越本線経由で直江津駅に降り立ったとのことで、駅前のいかや旅館(現在のホテルセンチュリーイカヤ)に泊まりました。そして、周辺を散策し、三野屋菓子店で、"継続団子"を買って食べたとのことです。その体験が、後年の小説『放浪記』の第三部に、下記のように描かれています。それを記念して、2011年(平成23)11月にJR直江津駅前に記念碑が立てられました。これは、「放浪記」の舞台女優として知られる森光子さんから送られてきた直筆の色紙を元に、林芙美子が好んだ「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」が刻まれています。碑は高さ70cm、幅90cmで、上越市出身の彫刻家、岡本銕二さんが制作したもので、上部に森光子と林芙美子をイメージしたブロンズ像が付いています。また、小説に登場する"継続団子"は、今でも三野屋菓子店で売っていて、賞味できました。

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 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。嵐もよいの湫々とした潮風が強く吹いていて、あんなにあこがれて来た私の港の夢はこっぱみじんに叩きこわされてしまった。こんなところも各自の生活で忙がしそうだ。仕方がないので私は駅の前の旅館へひきかえす。硝子戸に、いかやと書いてあった。

(九月×日)
 階下の廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群がさわいでいた。
 洗面所で顔を洗っていると、
「俺ァをもういっぺん食べてえなア。」
 山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長い木橋があった。海だろうか、河なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を塵芥に混って鳩の死んだのがまるで雲をちぎったように流れていっていた。旅空で鳩の流れて行くのを見ている私。ああ何もこの世の中からもとめるもののなくなってしまったいまの私は、別に私のために心を痛めてくれるひともないのだと思うと、私はフッと鳩のように死ぬる事を考えているのだ。何か非常に明るいものを感じる。木橋の上は荷車や人の跫音でやかましく鳴っている。静かに流れて行く鳩の死んだのを見ていると、幸福だとか、不幸だとか、もう、あんなになってしまえばだ。何もなくなってしまうのだと思った。だけど、鳥のように美しい姿だといいんだが、あさましい死体を晒す事を考えると侘しくなってくる。駅のそばで団子を買った。
「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」
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小説『新版 放浪記』 林芙美子著より

この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『新版 放浪記』(林芙美子著)が岩波文庫<460円>、新潮文庫<391円>、角川文庫<391円>他から出版されています。

☆『新版 放浪記』関係文学碑・像一覧

所在地 位置 名称 碑文 建立日
福岡県直方市須崎町18 須崎町公園 「放浪記」文学碑 私は古里を持たない 旅が古里であった 1981年秋
福岡県直方市山部540 西徳寺 林芙美子滞在地記念文学碑
梟と真珠と木賃宿 林芙美子
定まった故郷をもたない私は 
きまったふる里の家をもたない私は
木賃宿を一生の古巣としている
雑草のやうな群達の中に 
私は一本の草に育まれて来た
1993年5月
福岡県中間市垣生  垣生公園  林芙美子文学碑 私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の眼に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長いことしゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。
(「新版 放浪記」の一説) 
1971年3月23日 
愛媛県西条市三津屋444-2 JR壬生川駅前 父に宛てた手紙の石碑  何もかも忘れ、この不幸な私を、父上は愛して下さるでしょう
         芙美子
父上様
(西条市は実父宮田麻太郎の出身地)
2000年2月
愛媛県西条市 佐々久山  林芙美子詩碑  帰郷
古里の山や海を眺めて泣く私です
久々で訪れた古里の家
昔々子供の飯事に
私のオムコサンになつた子供は
小さな村いつぱいにツチの音をたてゝ
大きな風呂桶にタガを入れてゐる
もう大木のやうな若者だ。
崩れた土橋の上で
小指をつないだかのひとは
誰も知らない国へ行つてゐるつてことだが。
小高い蜜柑山の上から海を眺めて
オーイと呼んでみやうか
村の人が村のお友達が
みんなオーイと集つて来るでせう。
   林芙美子の詩集より
2000年2月 
山口県下関市田中町 五穀神社 林芙美子生誕地の碑 林芙美子生誕地 1966年 
山口県下関市中之町1-1 亀山八幡宮 林芙美子文学碑 花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき
林芙美子
(「私が生まれたのはその下関の町である」を刻んだ陶板の副碑あり)
1966年
福岡県北九州市門司区羽山2丁目 小森江浄水場跡 林芙美子生誕地記念文学碑 いづくにか 吾古里はなきものか 葡萄の棚下に よりそひて
よりそひて 一房の甘き実を食(は)み 言葉少なの心安けさ
梢の風と共に よし朽ち葉とならうとも
哀傷の楽を聴きて いづくにか 吾古里を探しみむ
(掌 草紙の詩)
1974年
鹿児島県鹿児島市古里町  古里公園  林芙美子文学碑  花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき  1952年 
新潟県上越市中央 JR直江津駅前 『放浪記』記念碑
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき
2011年11月
千葉県千葉市若葉区野呂町野呂 パーキングエリア文学の森 『放浪記』文学碑  「放浪記」

十月×日
窓外は愁々とした秋景色。
小さなバスケット一ツに一切をたくして、私は興津行きの汽車に乗る。
 土氣を過ぎると小さなトンネルがあった。
(中略)
 三門で下車する。ホタホタ灯がつきそめて、驛の前は、桑畑、チラリホラリ、藁屋根が目につく、私はバスケットをさげたまゝ、ぼんやり驛に立ちつくしてしまった。
「ここに宿屋ありますか?」
(中略)
 此まゝ消えてなくなりたい今の心に、ぢつと色々な思ひにむせてゐる事がたまらなくなつて、私は厭なコロロホルムの匂ひを押し花のやうに鼻におし當てた。

      林芙美子
 
広島県尾道市西土堂町19 千光寺公園  林芙美子碑  海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
林芙美子  放浪記より 
広島県尾道市東久保町12-1  尾道東高校内 林芙美子碑  巷に来れば憩ひあり。人間みな吾を慰さめて、煩悩滅除を歌ふなり  1957年6月28日 
広島県尾道市東御所町  本通り商店街入口 林芙美子像  海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。  1984年7月22日 
広島県尾道市土堂 うず潮小路  林芙美子碑  林芙美子が多感な青春時代を過ごした林文学の芽生えをはぐくんだ家の跡です  1964年11月 
広島県尾道市因島土生町  因島公園内 林芙美子文学碑   海を見て 島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い  1981年5月 


☆『新版 放浪記』関連リンク集

◇新宿区立林芙美子記念館 東京都新宿区立の林芙美子の旧居を活用した文学記念館です。
◇おのみち林芙美子記念館(旧林芙美子居宅) 尾道まちかど広報室のおのみち林芙美子記念館(旧林芙美子居宅) のページです。
◇Wikipediaの『放浪記』 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「放浪記」のページです。
◇青空文庫『新版 放浪記』 青空文庫にある『新版 放浪記』の図書カードで、このサイトで全文をダウンロードしたり読んだり出来ます。
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