川端康成は、1899年大阪市に生まれ、東京帝国大学文学部に学びました。戦前、横光利一、片岡鉄平、中河与一らと共に新感覚派と呼ばれていて、代表作は『雪国』、『古都』、『山の音』などがあります。1968年に日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しましたが、1972年に自殺しています。旧制高校生の青春時代から何度も伊豆半島に足を運び、各地の温泉旅館に逗留しています。自身とても気に入っていたようで、伊豆を題材に『春景色』『温泉宿』など30篇ほどの小説を書いています。しかし、その中でも特に有名なのが『伊豆の踊子』で、青春のアンソロジーとも言える内容で、何度も映画化され、その足跡を訪ねる人が今も絶えません。
『伊豆の踊子』は、大正7年(1918)の旧制第一高校2年当時、作者自身の伊豆旅行に想を得たものです。湯ヶ島から天城峠を越え、湯ヶ野を経由して下田に至る4泊5日の行程で、旅芸人一座と道連れになったのです。私も浄蓮の滝から湯ヶ野まで、足跡をたどって歩いたことがありますが、旧道が残され、踊子コースとして散策できるのです。良く自然環境が保全され、泊まった宿も残り、文学碑や昭和の森には文学博物館も出来て、小説の舞台を訪ねるにはうってつけです。
『伊豆の踊子』のルート |
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大正7年川端康成の旅 |
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10月30日
旧制第一高校寄宿舎発
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10月31日
修善寺温泉泊
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11月1、2日
湯ヶ島温泉「湯本館」泊
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徒歩で旧天城トンネルを越え
途中、旅芸人一座と道連れに
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11月3、4日
湯ヶ野温泉「福田家」泊
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11月5日
下田「甲州屋」泊
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11月6日
下田港から船で東京へ帰る |
☆『伊豆の踊子』を巡る旅六題
私は、今までに『伊豆の踊子』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で心に残った所を6つ紹介します。
(1) 湯ヶ島温泉「湯本館」<静岡県伊豆市>
『伊豆の踊子』執筆の宿で、川端康成の定宿でした。小説の冒頭の部分で、「湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下して一心に見ていた。」とあるのはこの旅館の入口の階段のことで、当時の建物のまま残されています。
私は、それまでにこの踊子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊子は太鼓を提げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った。それから、湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見ていた。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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湯ヶ島温泉「湯本館」の外観 |
湯ヶ島温泉「湯本館」の玄関 |
(2) 旧天城トンネル<静岡県伊豆市>
文中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあったと言われています。今も、踊子が越えていったのと同じトンネルが残り、通り抜けることが出来、当時の状況を彷彿とさせる場所なのです。このトンネルは、1904年(明治37)、工期13年を費やして竣工した全長445.5m、幅4.1m、有効高3.15mの石造りのトンネルです。天城峠付近の標高約710m地点に穿たれていて、2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されています。1970年(昭和45)に、下を走る国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路だったのです。今も、未舗装の曲がりくねった旧道が残され、旅の旅情をかき立ててくれます。ここを通る旧下田街道は、1986年(昭和61)8月に日本の道100選に選ばれました。
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重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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旧天城トンネル(静岡県伊豆市) |
(3) 湯ヶ野温泉「福田家」<静岡県賀茂郡河津町>
共同浴場で踊子が入浴していて、裸で手を振るのを見たのはこの旅館からです。玄関前に踊子像が、旅館脇に文学碑が立てられています。川端康成の部屋が当時と同じ状態で残され、関係資料も展示してあって、思い出深い宿です。
彼に指ざされて、私は川向うの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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湯ヶ野温泉「福田家」(静岡県河津町) |
「福田家」川端康成宿泊の部屋(静岡県河津町) |
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「伊豆の踊子」の像(静岡県河津町) |
「伊豆の踊子」文学碑(静岡県河津町) |
(4) 甲州屋<静岡県下田市>
小説では、踊子達一行が泊まった木賃宿「甲州屋」の様子が下記のように描かれています。主人公は、別の宿屋(山田旅館)に泊まることになりますが、夕食後にまた宿を訪ねて、活動写真を観に踊子を誘うものの、母親の許しがもらえず、一人で行くことになるのです。現在でも、建物は替わっていますが、今でも同じ場所に「甲州屋」は残っています。
甲州屋という木賃宿は下田の北口をはいると直ぐだった。私は芸人達の後から屋根裏のような二階へ通った。天井がなく、街道に向った窓際に坐ると、屋根裏が頭につかえるのだった。
「肩は痛くないかい」と、おふくろは踊子に幾度も駄目を押していた。
「手は痛くないかい」
踊子は太鼓を打つ時の美しい手真似をしてみた。
「痛くない。打てるね、打てるね」
「まあよかったね」
私は、太鼓を提げてみた。
「おや、重いんだな」
「それはあなたの思っているより思いわ。あなたのカバンより重いわ」と踊子が笑った。
芸人達は同じ宿の人々と賑かに挨拶を交していた。やはり芸人や香具師のような連中ばかりだった。下田の港はこんな渡り鳥の巣であるらいかった。踊子はちょこちょこ部屋へ入って来た宿の子供に銅貨をやっていた。私が甲州屋を出ようとすると、踊子が玄関に先廻りしていて下駄を揃えてくれながら、
「活動につれて行って下さいね」と、またひとり言のように呟いた。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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下田の甲州屋(静岡県下田市) |
(5) 下田港<静岡県下田市>
小説では、主人公がここから船で東京に帰るため、踊子との別れがありました。当時とは、港の様子も変わってしまいましたが、当時の桟橋跡の表示がありました。港からの遠景はあまり変わっていないようにも思え、別離の場面を想像してみました。
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はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに降っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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下田港の当時の桟橋跡(静岡県下田市) |
(6) 伊豆大島の波浮の港<東京都大島町>
踊子たち旅芸人一座の出身地で、小説では、以下のように紹介されています。伊豆大島の波浮の港には、踊子「薫」のモデルになった女性が、踊っていたという旧港屋旅館が資料館として残されていました。館内には、その当時の様子を再現した人形や関係資料が展示してあり、周辺は「踊子の里」として整備されています。
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一行は大島の波浮の港の人達だった。春に島を出てから旅を続けているのだが、寒くなるし、冬の用意はして来ないので、下田に十日程いて伊東温泉から島へ帰るのだと言った。大島と聞くと私は一層詩を感じて、また踊子の美しい髪を眺めた。大島のことをいろいろ訊ねた。
「学生さんが沢山泳ぎに来るね」と、踊子が連れの女に言った。
「夏でしょう」と、私が振り向くと、踊子はどぎまぎして、
「冬でも……」と小声で答えたように思われた。
「冬でも?」
踊子はやはり連れの女を見て笑った。
「冬でも泳げるんですか」と、私がもう一度言うと、踊子は赤くなって、非常に真面目な顔をしながら軽くうなずいた。
「馬鹿だ。この子は」と四十女が笑った。
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小説『伊豆の踊子』 川端康成著より |
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旧港屋旅館(東京都大島町) |
旧港屋旅館座敷(東京都大島町) |
この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『伊豆の踊子』(川端康成著)が岩波文庫<460円>、新潮文庫<391円>、角川文庫<391円>他から出版されています。 |
☆『伊豆の踊子』関係文学碑・像一覧
所在地 |
位置 |
名称 |
碑文 |
建立日 |
静岡県天城湯ヶ島町 |
浄蓮の滝入口 |
伊豆の踊子像 |
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静岡県天城湯ヶ島町 |
旧街道脇 |
伊豆の踊子文学碑 |
道がつづら折りになっていよいよ天城峠が近づいたと思うころ雨足が杉の密林を白く染めながらすさまじい早さで麓からわたしを追って来た。 |
1981年5月1日 |
静岡県河津町湯ヶ野 |
初景滝前 |
「踊り子と私」ブロンズ像 |
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静岡県河津町湯ヶ野 |
「福田家」の隣 |
「伊豆の踊子」をしのぶ文学碑 |
湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里餘りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南國らしく感じられた。私と男とは絶えず話し續けて、すっかり親しくなった。萩乘や梨本などの小さな村里を過ぎて、湯ヶ野の藁屋根が麓に見えるやうになった頃、私は下田まで一緒に旅をしたいと言った。彼は大変喜んだ。 |
1965年11月12日 |
静岡県河津町湯ヶ野 |
「福田家」の前 |
伊豆の踊子ブロンズ像 |
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静岡県河津町湯ヶ野 |
湯ヶ野駐車場入口 |
伊豆の踊子像 |
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☆『伊豆の踊子』関連リンク集