<岬と灯台写真館>

樫野埼と灯台(和歌山県)

1999年9月13日に樫野埼(和歌山県串本町)で撮った写真です。


 紀伊半島一周の旅に出て、前日に夏山温泉「もみじや旅館」に泊まり、白浜温泉を目指す途中、本州最南端の町、串本に立ち寄りました。もう5度目の来訪となりますが、橋杭岩で小休止したときに、はじめて大島に渡る橋が出来ていることを発見しました。それでは、今まで行ったことのない大島へ渡ってみるかと、車を進めてみたのでした。その島の東端に樫野埼(かしのさき)があり、駐車場から少し歩くと、白亜の樫野埼灯台がありました。そこから眺める太平洋は素晴らしく、どこまでもどこまでも広がっていました。しかし、かつてこの沖合で、トルコ軍艦が座礁沈没し、多くの犠牲者が出たとのことで、心が痛みました。その関係で、遭難記念碑が立ち、トルコ記念館が開設されていたのです。

☆樫野埼灯台 地図
樫野埼灯台(1999年9月13日撮影)
樫野埼灯台の概要
番号 2889 [F5998]
位置 北緯 33度28分17秒 
東経 135度51分43秒
塗色 白色  
構造 塔形(円形) 石造
レンズ 第2等フレネル式
灯質 群閃白光 毎20秒に2閃光
光度 53万カンデラ
光達距離 18.5海里(約34km) 
明弧 109度から33度まで
灯塔高 14.6m(地上〜灯火)
標高 47m(平均海面〜灯火)
初点灯 1870年(明治3)7月8日
所在地 和歌山県西牟婁郡串本町
<特徴>
 樫野埼灯台は、紀伊半島にある和歌山県の南端、串本町の大島に立つ、白色の塔形をした大型灯台で、日本最初の洋式石造灯台です。周辺は、吉野熊野国立公園に含まれていて、太平洋を望むすばらしい景観です。

<歴史>
 この灯台は、幕末の1866年(慶応2)5月に、江戸条約によって建設することを約束した8ヶ所の条約灯台の一つです。これらが順次建設されていったのですが、この灯台もR・H・ブラントンが設計・指導して1869(明治2)年4月に潮岬灯台と共に着工、翌年の7月8日<旧暦では6月10日>に完成、初点灯されました。このように、建設が急がれたのは、ここが古くから、海上交通の要所となっており、また沖合は流れが速く、風も強いため、航海の難所としても知られていたためです。現に、1890年(明治23)9月16日夜、トルコ海軍のエルトゥールル号が台風により、ここの沖で座礁沈没、587名が亡くなるという大惨事が起きています。建設以来110余年の風雪に耐え、現役で活躍する最古の洋式灯台となっています。

<現況>
 灯塔高(地上から灯火まで)14.6m、標高は(平均海面から灯火まで)47m、第2等フレネル式レンズを使い、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里(約34km) です。灯台のあたりには、かつて常駐していたイギリス人技師が植えた水仙が群生し、甘い香りに包まれていますが、現在では、自動点灯になり無人化されています。2002年4月12日、展望台が完成し、灯台の下から6.5mの高さまで螺旋階段で結び、素晴らしい眺望を楽しむことができるようになったそうです。この展望台は、毎日午前8時半から午後5時まで一般に無料開放されています。

☆トルコ軍艦遭難慰霊碑とトルコ記念館

トルコ軍艦遭難慰霊碑(1999年9月13日撮影)
トルコ記念館(1999年9月13日撮影)

 1890年(明治23)9月16日夜、トルコ海軍のフリゲート艦「エルトゥールル号」が台風により、熊野灘で暴風雨にあい、樫野埼灯台下の岩礁で座礁沈没し、乗組員650名の内、587名が亡くなるという大惨事が起きました。大島の島民は、生存者の救出に尽力し、63名の命を救うと共に、遺体の捜索もし260体を収容して、樫野埼の丘に埋葬したのです。島民らの献身的な救助活動は、トルコ本国の人々にも深い感動を与えました。それがきっかけとなって、樫野埼灯台近くに、遭難記念碑が立ち、トルコ記念館が開館したのです。そこには、遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真等が展示されています。


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