☆私の好きな近世城郭七題
私は、日本中を旅したなかで色々な古民家を巡りました、その中から特に印象に残った古民家を7つ紹介しましょう。
(1) 弘前城<青森県弘前市>
弘前城は、津軽信枚によって、1609年(慶長14)に起工し、大光寺城や堀越城の部材を使い、岩木山から石材を集めて、1611年(慶長16)に普請を終えて入城したと考えられています。しかし、五層の天守は、1627年(寛永4)に落雷によって焼失してしまいました。現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されました。津軽氏は、廃藩置県まで続き、城跡には天守の他に3基の櫓と追手門はじめ5棟の櫓門が残り、国の重要文化財に指定されています。石垣、土塁、堀なども残っていて、往時の状況を彷彿とさせる城跡なのです。建物はそれほど大きなものではありませんが、一の丸、二の丸、三の丸のほぼ全域が公園として残されているのが特徴で、春になると5,000本の桜の花が咲き誇り、とても素晴らしいのです。
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弘前城天守閣 |
弘前城追手門 |
(2) 金沢城<石川県金沢市>
加賀百万石前田家の居城だったところで、国の史跡に指定され、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫が残っていて、国の重要文化財となっています。また、近年金沢城公園として整備され、菱櫓、橋詰門、橋詰門続櫓、五十間長屋、河北門が木造で復元されていて、見学できます。さらに、玉泉院丸庭園も復元されて、散策できるようになりました。城下には、長町武家屋敷跡が残されていて、上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ね、内部が見学できるところもあります。
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金沢城石川門 |
長町武家屋敷街 |
(3) 松本城<長野県松本市>
国宝に指定されている5天守閣の一つで、現存天守の完成年代は諸説あってはっきりしませんが、1597(慶長2)年頃、石川康長によるものと考えられています。5層6階の大天守は二重の渡櫓によって、3層の乾小天守と連結され、東に2層の巽付櫓と月見櫓を伴う、見事なL字型の連結複合式天守です。天守閣群の昭和の大修理以降、城跡の復元工事が続けられていて、1960年(昭和35)に黒門が、枡形の二の門と塀は、1989年(平成元)、そして太鼓門が1999年(平成11)に復元されました。現在、外堀の復元工事が行われています。
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松本城天守閣 |
復元された太鼓門枡形と二の門(高麗門) |
(4) 彦根城<滋賀県彦根市>
彦根城は、大坂の豊臣氏、西国大名に備える戦略的目的から、幕府の全面的支援を得た天下普請となり、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じて、1603年(慶長8)から築城を開始し、20年近くの歳月をかけて、1622年(元和元)頃に完成しました。国宝に指定されている3層3階の天守閣は、付櫓を持つ複合式で、華灯窓や武者窓、唐破風、千鳥破風などに飾りの付いた美しい姿をしています。築城以来、廃藩置県まで井伊氏が居城しました。城跡には、天守閣以外に櫓4基、太鼓門、馬屋、石垣、土塁、堀が現存し、往時の城郭の様子を今にとどめていて、国の特別史跡に指定されています。また、旧表御殿の外観(一部内部)を復元した「彦根城博物館」が建設されています。これらが城郭としての全体の雰囲気を良くとどめていて、散策するにはうってつけです。
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彦根城の天守閣 |
彦根城博物館の玄関 |
(5) 姫路城<兵庫県姫路市>
姫路城は、今から約670年前の1333年(元弘3)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が、ここ姫山に砦を築き、その子貞範が館を設けたのがその始まりとされているそうです。しかし、最近では、黒田重隆と職隆が、1555年(天文24)から1561年(永禄4)の間に御着城の出城として築いたという説が有力となっているとのことです。その後、1580年(天正8)、羽柴秀吉が中国攻めの根拠地として3層の天守閣を築きました。池田氏の後は本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏めまぐるしく城主がかわって廃藩置県を迎えることとなります。ここはまさに城郭建築の宝庫です。国宝の大天守と3つの小天守が連立し、その周りに櫓26基、門15棟、石垣、土塁、堀などが残されており、往時の城郭の姿を彷彿とさせ、国の特別史跡でもあり、1993年(平成5)には、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。現在ある城のうちで最も美しく、景観的にもすばらしいものです。
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姫路城の天守閣 |
姫路城はの門 |
(6) 伊予松山城<愛媛県松山市>
伊予松山城(愛媛県松山市)は、1602年(慶長7)に加藤嘉明によって創築され、工事は25年を費やし、完成をみたのは1627年(寛永4)のことで、この時には嘉明は国替えになっていました。その後を継いだ、蒲生氏も無嗣断絶となり、松平(久松)氏が城主となってからは廃藩置県まで続いたのです。姫路城、和歌山城と共に三大平山城の一つとされています。現存天守は、創建時の天守が1784年(天明4)に落雷によって焼失した後、1853年(安政5)に再建されたもので、当時の城主は12代松平勝善でした。3層3階の天守は、層塔型の連立式で、大小天守と2基の隅櫓が長方形の中庭を造っています。天守の他、櫓5基、門8棟、塀、石垣、堀などが現存し、加えて1966年(昭和41)よ始められた復元工事によって、本丸の小天守、隅櫓2基が木造で復元されて、連立式天守の偉容を回復しました。また、二の丸の復元整備も進められ、櫓や門、塀が復元され、二之丸史跡庭園や大井戸も見学できるようになりました。とても見所の多い城郭です。
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伊予松山城天守閣 |
二之丸史跡庭園奥御殿跡 |
(7) 高知城<高知県高知市>
高知城は、 関ヶ原の戦いの戦功によって掛川7万石から一躍、土佐22万石の太守となった山内一豊が築き始めました。しかし、完成を見るのは二代藩主忠義の頃のことです。ところが、現存する天守閣は、山内一豊の築城当時のものではないのです。1727年(享保12)、城下の大火によって天守閣ほか多くの建造物が焼失してしまい、その2年後から普請を始め、1747年(延享4)、山内豊敷の時に、ほとんど同じ工法で再建されたものです。4層6階の天守閣は、望楼型の独立式で、最上階に高欄を廻らしています。また、書院、櫓、門など本丸部分の建物を完全に揃った形で残しているのが大きな特徴です。山内氏は16代260余年続いて、廃藩置県を迎えました。その後、1871年(明治4)に旧藩主から城が県に譲渡され、高知公園となって一般に解放され、今日に至っています。2001年に築城400年を迎えたとのことで、年間に約20万人の人々が訪れるそうです。
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高知城天守閣 |
追手門前から天守閣を望む |
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