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「旅のホームページ」は、いろいろな国内旅行を専門とするホームページです。

古(いにしえ)を訪ねる旅
 旧街道めぐり用語集
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【新居関跡】(あらいせきあと)

 最初の関所の創設は、1600年(慶長5)と伝えられ、現在よりも東の向島の地に建てられましたが、東海道では、箱根の関所と並ぶ重要なものでした。しかし、元禄年間に津波のため移転、さらに、1707年(宝永4)の宝永地震のため建物が全壊してしまったのです。その後、1708年(宝永5)に現在地(静岡県湖西市)に移転し、1855年(安政2)に改築された江戸時代の関所建物が残され、1921年(大正10)に国の史跡、1955年(昭和30)には、国の特別史跡になりました。現在は、当時の関所の様子が人形によって復元され、船着場跡も再現され、隣接して「新居関所史料館」もあって、当時の関所のことを知るには最適です。

新居の関所 新居の関所の船着場跡(静岡県湖西市)

【一里塚】(いちりづか)

 昔、街道の両側に1里 (36町=約4km) ごとに土を盛り、樹木を植えて、旅人の目印としたものですが、すでに、戦国時代末期に存在していて、織田信長や豊臣秀吉が作ったとも言われていました。しかし、1604年(慶長9)に徳川家康が秀忠に命じて、金山奉行の大久保長安の指揮の元に、江戸日本橋を起点として、東海、東山、北陸の三道の両側に築いて、制度化されたと考えられています。旅行者に便宜を与え、運賃決定の目安とし、度量衡統一政策の一環として設置されたものでした。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、その上には木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されています。一般的に榎(えのき)を植えた一里塚が多いのですが、19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎(えのき)が一番多くて、過半数を占め、次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗(くり)、桜(さくら)、檜(ひのき)、樫(かし)は数本程度しか植えられていませんでした。その後、時代の経過とともに荒廃し、今日でも原形をとどめているものは少なくなります。旧東海道でも残っているのはわずかで、錦田(静岡県三島市)、大平(愛知県岡崎市)、阿野(愛知県豊明市)、野村(三重県亀山市)の4ヶ所が国の史跡に指定されました。

奥州街道須賀川一里塚 中山道槇ヶ根一里塚

【碓氷関跡】(うすいのせきあと)

 群馬県安中市松井田町にあった関所の跡です。その始まりは、平安時代前期の899年 (昌泰2) 、東国の治安維持のため足柄関とともに東山道に設置されたものでしたが、その場所ははっきりしていません。中山道の関所としては、1590年(天正18)碓氷峠に設けられたものが、1623年(元和9)横川に移されて、代々安中藩が警固することになります。中山道では、福島関と共に重要なもので、「入鉄炮に出女」と言われたように、江戸幕府を守るために、江戸に入る鉄砲(入鉄炮)と江戸から出る女性(出女)を監視していました。しかし、1869年(明治2)の太政官布告によって廃止され、その後は、建物も失われてしまいます。1955年(昭和30)に、跡地が群馬県指定文化財になり、1959年(昭和34)、東京大学教授工学博士・藤島亥治郎の設計により柱や門など当時の部材を使って東門が復元(当時の場所ではなく、番所の跡)されました。また、域内に「碓氷関史料館」があり、旅人が役人におじきをして通行手形を差し出して通行の許可を受けたという「おじぎ石」も残されています。

碓氷関跡の東門(復元) 碓氷関跡のおじぎ石

【海野宿】(うんのじゅく)

 長野県東御市にあり、1625年(寛永2)に、脇往還である北国街道の宿場として、江戸幕府によって設置され、江戸時代前期から明治時代にかけて、宿場と養蚕によって栄えた町です。約 650 mにわたって町並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒があり、佐渡金山への輸送、北陸諸藩からの大名行列、善光寺参拝客などで繁盛したのです。明治時代以降、街道の往来が減少すると養蚕業も営んでいました。現在でも、昔の宿場町がよく保存されていて、それは、みごとな家並みで、1987年(昭和62)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。道の真ん中に水路が流れていて、昔の街道の風情をよく残し、海野宿資料館、なつかしの玩具展示館、土産物屋、飲食店などもあるので、徒歩でのんびり散策するのに向いています。

旧北国街道海野宿の町並み

【大内宿】(おおうちじゅく)

 福島県南会津郡下郷町にあり、脇往還である会津西街道(会津若松〜日光今市)の会津城下から3番目の宿場町で、江戸時代前期の1640年(寛永17)頃に整備されました。大内峠(標高900m)の南の山間にあり、寄棟造りの茅葺き民家が道路と直角に整然と並べられていて、見事な景観をなしています。1981年(昭和56)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されて、全国的に脚光を浴びることになりました。現在でも、生活をしている民家がほとんどで、民宿や食堂、土産物屋などをやっているところも多くあります。大内宿本陣跡には、茅葺きで復元された「下郷町町並み展示館」があって、宿場の歴史を学ぶことができますし、名物の蕎麦を食べたり、民宿に泊まったりして、江戸時代にタイムスリップしたようなレトロな雰囲気を体験するのも良いと思います。

大内宿の町並み 復元された本陣(下郷町町並み展示館)

【追分】(おいわけ)

 道が左右に分かれるところを追分けといい、特に大きな街道が分かれるところには、道標や常夜灯が建てられ、旅人の便宜がはかられていました。主要な街道の追分があったところとしては、東海道草津宿(東海道中山道)、中山道倉賀野宿(中山道と例幣使街道)、中山道追分宿(中山道と北国街道)、中山道下諏訪宿(中山道と甲州道中)、日光道中宇都宮宿(日光道中と奥州道中)などが知られています。

中山道倉賀野宿の追分(中山道と例幣使街道) 中山道追分宿の追分(中山道と北国街道)

【木賃宿】(きちんやど)

 江戸時代より前には旅人は食糧、寝具を持参して自炊を行い、旅宿は単に食物を煮炊きするための薪水を提供し、その代金を受け取りました。江戸時代になると、食事を提供する旅籠が普及したため、宿場のはずれや町裏で営業する所が多く、米も携帯するのではなく、その宿で米を買って炊いてもらうところが増えていき、宿泊料の安い下等な宿屋のことをいうようにもなりました。大道商人や助郷人足、旅芸人など貧しい渡り者を対象とする宿となっていきました。

中山道妻籠宿上嵯峨屋 中山道妻籠宿上嵯峨屋の内部

【草津宿本陣】(くさつじゅくほんじん)

 滋賀県草津市にあった、東海道草津宿の本陣跡です。草津宿は、東海道中山道とが分かれる追分のあるところで、今でも2軒あった本陣の内一つの建物が現存しています。その田中七左衛門本陣は別名木屋本陣とも呼ばれ、兼業で材木商を営んでいました。現在の建物は18世紀末以降の再建で、1843年(天保14)の資料では、建坪468坪、門構え、玄関付、敷地1,305坪と記され、五街道でも最大級のものです。1949年(昭和24)に、国の史跡に指定され、7年間の保存整備事業を終えて一般公開されていて、その偉容を見学することができます。

草津宿本陣の正門 草津宿本陣の上段の間

【熊川宿】(くまがわじゅく)

 福井県三方上中郡若狭町にあり、脇往還である鯖街道(若狭〜京都)の宿場町です。安土桃山時代の1589年(天正17)に小浜城主浅野長政によって整備され、江戸時代には、街道随一の賑わいでした。今でも旧街道に沿って前川という水量豊かな水路が流れ、真壁造または塗籠造の伝統的建築物が多数残り、よく昔の景観を残しているので、1996年(平成8)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。現在でも、古い建物を利用して、資料館、食事処、喫茶店、雑貨店などをやっているところも結構あります。中でも、若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館(旧熊川村役場)、松木神社・義民館(義民松木庄左衛門を祀る)、旧問屋倉見屋(国指定重要文化財)、菱屋(勢馬清兵衛家)、旧逸見勘兵衛家住宅(町指定文化財)、熊川番所、道の駅若狭熊川宿(熊川宿展示館あり)などを巡ると、レトロな気分になりながら、宿場の歴史を学ぶことができます。

熊川宿の町並み

【高札場】(こうさつば)

 村の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所をいいます。宿場にも多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点でもあったので、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れもできませんでした。

中山道妻籠宿高札場 中山道追分宿高札場

【五街道】(ごかいどう)

 江戸時代の主要陸上交通路のことで、江戸日本橋を起点とする東海道中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中のことをいい、幕府が直接支配をしました。当時最も整備されていた街道で、おもに公用に使われました。

【宿場】(しゅくば)

 宿駅ともいい、古代、奈良・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていきましたが、江戸時代、五街道脇往還において駅逓事務を取扱うため設定された町場をいいます。近世の宿場の整備は徳川家康によって、関ヶ原の合戦後に始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていきました。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道53次が始まりました。しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、1624年(寛文元)でした。宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになりました。又、公武の宿泊、休憩のため問屋場本陣脇本陣などがおかれました。これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったのですが、幕府は地子免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めました。ほかに一般旅行者を対象とする旅籠屋木賃宿茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげました。明治時代以降、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり衰微していきました。

中山道奈良井宿 中山道妻籠宿

【助郷】(すけごう)

 江戸時代、幕府が諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した夫役のことで、はじめは臨時の人馬徴でしたが、参勤交代など交通需要の増大につれ助郷制度として恒常化しました。人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役も共に助郷と呼び、定助郷、代助郷、宿付助郷、増助郷、加助郷、当分助郷などがありました。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もありました。人馬提供が不可能の場合、金銭で代納するようになり、次第に金銭代納が一般化しました。制度としては1872年(明治5)に廃止されました。

【関宿】(せきじゅく)

 三重県亀山市関宿にあり、五街道の一つ、東海道の江戸・日本橋から数えて47番目の宿場でした。東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する交通の要衝として、以前は栄えたのです。その昔ながらの風景が残っていて、江戸時代の街道や宿場の雰囲気に感動するのです。東海道では一番往時の町並みを色濃く残していることから、1984年(昭和59)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。町並みの中には、関まちなみ資料館(江戸末期の町家を公開)、旅籠玉屋歴史資料館(旅籠建築を公開)、鶴屋脇本陣(波田野家)、川北本陣跡、百六里庭、伊藤本陣跡、深川屋(銘菓「関の戸」販売)、地蔵院(鐘楼が国の重要文化財)、伊勢鳥居、道標などがあって、江戸時代の街道の様子を知りながら散策することができます。

東海道関宿の町並み 東海道関宿の旅籠玉屋歴史資料館 

【関所】(せきしょ)

 古代から、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設で、日本各地にありました。江戸時代になると、幕府は江戸を守るため、全国に関所を設置しました。これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受ける必要がありました。とくに、「入鉄炮出女」と言い、鉄砲などの武器が江戸へ入ることや、江戸在住の武家の女性が密かに領国へ帰国することを取り締まりました。主な関所としては、東海道箱根関所新居関所中山道の碓氷関所と福島関所、甲州街道の小仏関所、日光街道の房川渡中田関所(栗橋関所)などがあったのです。江戸幕府が倒れた後、1869年(明治2)にその役目を終え、廃止されました。

東海道新居の関所 東海道箱根の関所(復元)

【茶屋】(ちゃや)

 街道沿いにあって、旅人が休憩するところで、お茶、一膳飯、お酒などを売っているところを茶屋と言っていました。季節や土地の名物を出すので、街道で有名になっていた所もいくつかあります。宿場の中の端のほうにあるものと宿場宿場の間の立場と呼ばれる所にあるものとがありました。

【中馬】(ちゅうま)

 江戸時代、信州の農民が行った馬の背を利用した荷物輸送業のことです。17世紀、伊那地方の農民が農閑期の副業として数頭の手持ちの馬で物資を目的地まで運送したのに始まります。18世紀初めには信州一円、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方を結ぶ重要な陸上輸送手段となりました。輸送物資は米、大豆、たばこなどを移出し、茶、塩、味噌、蚕繭などを移入しました。中馬は一人で数匹の馬をひき、途中での荷物の積み替えなしに、物資を目的地まで直送したので、その隆盛につれて、宿場で継ぎ送りをしていた宿場問屋側と荷物の争奪戦が生じ、対立しました。1764年(延宝元)には、いったん幕府により公認されましたが、18世紀中頃に再び紛争が生じました。1764年(明和元)幕府の裁許により完全に公認され、信州の中馬稼ぎをする村と馬数を決め、輸送する荷物についても街道ごとに決めました。しかし、明治時代になって衰退していきました。

伊奈街道の中馬 中馬街道の中馬

【妻籠宿】(つまごじゅく)

 長野県木曽郡南木曽町にあり、五街道の一つ、中山道の江戸・日本橋から数えて42番目の宿場でした。その昔ながらの風景に感動するのですが、これほど、江戸時代の街道や宿場の雰囲気がそのまま残されているところは他にありません。復元されたものも含めて、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠、茶屋、高札場、石畳、道標などの昔の街道の要素をすべて見られ、大変貴重な町並みなので、1976年(昭和51)に、最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。江戸時代の街道について知るにはうってつけのところで、歴史の雰囲気を強く感じ取れるのです。

中山道妻籠宿の街並み 復元された妻籠宿本陣

【問屋場】(といやば)

 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいいました。業務は問屋が主宰し、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいました。通常の時は交代で出勤しますが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていました。

中山道妻籠宿問屋場 中山道醒ヶ井宿問屋場

【東海道】(とうかいどう)

 元々は律令制における五機七道の一つで、そこを通る道として、古代や中世にもありましたが、江戸時代には五街道の一つで、江戸〜京都間の最も重要な街道でした。日本橋を起点に武蔵国、相模国、駿河国、遠江国、三河国、尾張国、伊勢国、近江国、山城国を通り、京都に至るルートです。日本橋から京都の間に53の宿場が置かれ、東海道53次と言っていました。しかし、これを大坂までのルートとし、京都から大坂まで4つの宿場を加え、東海道57次と言う場合もありました。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道53次が始まりました。しかし、全部の宿場が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、1624年(寛文元)でした。また、箱根と新居には関所が置かれ、旅人を取り締まったのです。東海道には、七里の渡し(宮〜桑名)や大井川、安倍川、酒匂川等での川留めがあり、それを避けるために女性の旅人は中山道を使うことも多くありました。幕末の公武合体策のために江戸幕府14代将軍・徳川家茂への和宮の降嫁も中山道が使われたのです。

【東海道五十三次[浮世絵]】(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

 『東海道五十三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重の作成した浮世絵風景画の代表作です。保永堂、仙鶴堂の共同出版によるもので、江戸時代後期の1833年(天保4)〜1834年(天保5)頃に作成された全55枚(江戸日本橋、京都三条大橋とその間の53の宿場を描く)で、俗に保永堂版と呼ばれてきました。本格的な風景版画として評価が高く、よく売れて、広重の名声を高め、日本のみならず、後の西洋美術にも影響を与えたと言われています。その中でも、庄野・蒲原・亀山の絵は三大役物と呼ばれて、傑作とされてきました。その後も広重によって、俗に「狂歌東海道」、「行書東海道」、「隷書東海道」、「美人東海道」、「人物東海道」、「竪の東海道」などと言われるシリーズも出されましたが、保永堂版がもっともすぐれ、圧倒的な知名度を誇っています。その前後にも、東海道を描いた浮世絵は、菱川師宣、葛飾北斎など多くあるものの、東海道の浮世絵といえば、広重と言われるようになりました。

東海道五十三次蒲原宿 東海道五十三次庄野宿

【東海道中膝栗毛】(とうかいどうちゅうひざくりげ)

 十返舎一九著の滑稽本で、江戸時代後期の1802年(亨和2)から出版されました。弥次郎兵衛(弥次さん)と北八(北さん)が、江戸の長屋を旅立ち、東海道を西に向かい、伊勢参宮するまでに、さまざまな滑稽を演じる物語です。当時庶民の間でもお伊勢詣りがブームとなり、毎年多くの人が訪れていましたので、ちまたに普及し、ベストセラーとなりました。文中には当時流行の狂歌が散りばめられています。ものすごい人気となったので、次々と続編が出され20年にわたり、西日本から中山道を帰るまで続きました。

十返舎一九の肖像画 十返舎一九「東海道中膝栗毛」の碑(静岡県静岡市)

【東海道名所図会】(とうかいどうめいしょずえ)

 江戸時代後期の1797年(寛政9)に刊行され、京都から江戸に至る東海道の10ヶ国を対象とした、絵入りの名所案内記です。6巻6冊からなり、東海道沿いの名所旧跡や宿場の様子、特産物などに加えて歴史や伝説などを古書・古歌を折りまぜて描いたもので、一部には東海道を離れて三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社といった名神・名刹も記述の対象としていました。京都の俳諧師秋里籬島(あきざとりとう)著で、序文は中山愛親が書き、丸山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など、約30人の絵師が200点以上の挿絵を担当しています。実際に取材を行って現状を記載したと記され、後の浮世絵師や戯作者の種本としても活用されたといわれています。

東海道名所図会 「東海道名所図会」日本橋

【中山道】(なかせんどう)

 江戸時代の五街道の一つで、東海道に次ぐ江戸〜京都間の重要な街道でした。日本橋を起点に武蔵国、上野国、信濃国、美濃国、近江国を通り、草津宿で東海道と合流して京都に至るルートです。日本橋から草津宿の間に67の宿場が置かれていましたが、東海道と重なる草津宿、大津宿を加えて、中山道69次とも言っていました。1601年(慶長6)から街道の整備が本格化したと考えられますが、すぐにすべての宿場が整ったわけではなく、一番遅かった伏見宿が置かれたのは、1694年(元禄7)のことになります。また、碓氷と福島には関所が置かれ、旅人を取り締まりました。尚、正徳年間 (1711〜16) 以前には中仙道とも書かれていました。東海道の53次よりも宿次が多くて、距離も六里余り長く、和田峠、鳥居峠、塩尻峠、碓氷峠などの峠越えの難所もありましたが、東海道のような川留めを避けることができる利点から女性の旅人も多かったのです。幕末の公武合体策のために江戸幕府14代将軍・徳川家茂への和宮の降嫁もこの道が使われました。

中山道69次

【並木】(なみき)

 街道脇には、松や杉などの木が並べて植栽されて、並木と呼ばれていたのです。夏には暑さを避け、冬には寒風を防ぎ、また、木陰を作って旅人の絶好の休息場所ともなっていました。東海道の御油の松並木、日光道中の杉並木、中山道の笠取峠の松並木などは有名で、天然記念物や史跡にに指定されているところもあります。

東海道の御油の松並木 日光道中の杉並木

【奈良井宿】(ならいじゅく)

 長野県塩尻市奈良井にあり、五街道の一つ、中山道の江戸・日本橋から数えて34番目の宿場でした。その昔ながらの風景に感動するのですが、江戸時代の街道や宿場の雰囲気がとても良く残されているのです。大変貴重な町並みなので、1978年(昭和53)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。町並みの中には、上問屋資料館、旅籠えちごや、高札場、元櫛問屋中村邸、水場、楢川歴史民俗資料館、道標などがあって、江戸時代の街道の様子を学ぶことができます。また、次の藪原宿までの鳥居峠(標高1,197m)越えの道(約8km)は、江戸時代以来の旧中山道を信濃路自然歩道として整備されていて、3時間半ほどで歩いて行くことも可能です。

中山道奈良井宿の町並み

【日光杉並木街道】(にっこうすぎなみきかいどう)

 五街道の一つ日光街道と例幣使街道、会津西街道の旧日光神領内(栃木県日光市周辺)にあたる部分、総延長35.41kmにおよぶ杉並木のことです。樹齢300年にもおよぶ杉の巨木が両側にびっしりと並び、昼間でも暗くなるような独特の空間を創出しました。江戸時代前期の徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた松平正綱が、日光東照宮創建とその遷宮記念に植樹したのが最初とされています。その後、3代将軍家光による日光東照宮大改修前後の1625年(寛永2)頃から約20年間に、熊野山の杉苗を植樹して日光東照宮に寄進しました。それを記念して、松平正綱の嫡男・正信が建立した杉並木寄進碑が4ヶ所に建てられています。これらは、1922年(大正11)に「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」として国の史跡・天然記念物になり、さらに、1952年(昭和27)には、国の特別史跡、1954年(昭和29)には、特別天然記念物に指定されました。また、1986年(昭和61)に「日本の道100選」、1996年(平成8)に「歴史の道百選」にも選定されています。

日光杉並木街道

【箱根関跡】(はこねせきあと)

 神奈川県足柄下郡箱根町にあった、東海道に設けられた関所の跡です。江戸時代以前にもあったとのことですが、江戸幕府によって、1615年(元和5)に設置されて、1869年(明治2)まで街道の通行者を取り締まっていました。東海道では、新居の関と共に重要なもので、「入鉄炮に出女」と言われたように、江戸幕府を守るために、箱根では特に、江戸から出る女性(出女)を監視していたのです。また、周辺の脇往還5ヶ所(根府川、矢倉沢、川村、仙石原、谷ヶ村)にもこれに準ずる脇関所が設けられました。1869年(明治2)の関所廃止後は、建物も失われましたが、1922年(大正11)に国の史跡に指定され、1996年(平成8)には、追加指定がありました。その後、1999年(平成11)から2年かけて発掘調査が行われ、箱根関所の遺構が確認されたのです。それに基づいて、大番所や上番休息所などが木造で復元され、2004年(平成16)から、一般に公開されるようになり、さらに石垣等の大規模な復元工事が行われて、2006年(平成18)には、全面公開されるに至ったのです。現在では、当時の関所の様子が人形によって復元され、隣接して「箱根関所資料館」もあって、関所のことを知るにはうってつけです。

箱根関の全景(復元) 箱根関の門(復元)

【旅籠】(はたご)

 「はたご」という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことでした。それが、旅人の食糧等を入れる器の意味になり、さらに食事を提供する宿屋を言うようになります。江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わいました。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていきます。しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになりました。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。

東海道関宿「旅籠玉屋歴史資料館」 中山道奈良井宿旅籠越後屋

【飛脚】(ひきゃく)

 元々は、速く走る者、手紙を運ぶ者という意で、通信使として平安時代末期から現れました。その後、江戸時代に急速に発達し、手紙・金銭・小荷物などの送達に馬を用いず、自らの足で走ることを業とする者をいうようになります。幕府公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚、町人も利用できる町飛脚などの制度として整えられました。しかし、明治維新を経て1871年(明治4)に、郵便制度が成立するとともに廃止されます。

飛脚の写真 歌川広重「東海道五十三次」に描かれた飛脚

【福島関跡】(ふくしまのせきあと)

 長野県木曽郡木曽町にあった、中山道に設けられた関所の跡です。江戸幕府によって、江戸時代初期の慶長年間に設置されて、1869年(明治2)まで街道の通行者を取り締まっていました。中山道では、碓氷関と共に重要なもので、「入鉄炮に出女」と言われたように、江戸幕府を守るために、江戸に入る鉄砲(入鉄炮)と江戸から出る女性(出女)を監視していたのです。また、北にある贄川宿には福島関所を補った贄川の添番所が設けられました。1869年(明治2)の関所廃止後は、建物も失われましたが、1688年(寛文8)頃の古絵図、2次にわたる発掘調査により、番所敷地及び諸施設(番所・門・塀・棚等)の配置が確認され、史跡公園として整備されることになって、東西の門や柵も復元されました。1977年(昭和52)には、当時の関所の番所を模した「福島関所資料館」が出き、関係資料が展示されていて関所のことを知るにはうってつけです。また、1979年(昭和54)には、国の史跡にも指定されました。

福島関跡 福島関所資料館

【分間延絵図】(ぶんけんのべえず)

 江戸幕府が主要街道の状況を把握するために、道中奉行に命じて、実測図をもとに、絵画的な表現を取り入れて作成した、詳細な絵地図です。寛政年中(1789〜1801年)に作成命令が出され、完成後、1807年(文化4)年に、幕府へ献上されましたが、東海道中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図全91巻が同時期に作られました。それらを含めて、「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼ばれ、縮尺は1,800分の1で、沿道の主な建造物(問屋場本陣脇本陣、寺社など)が丹念に描かれて、一里塚、道標、橋、高札場なども記入されています。

「五街道分間延絵図」東海道大磯宿 「五街道分間延絵図」中山道安中宿

【本陣】(ほんじん)

 「ほんじん」というのはもともと戦場において大将の位置する本営のことを言ったものでしたが、それが、武将の宿泊する所を指すようになり、宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎の名となりました。本陣を勤める者は宿役人の問屋や村役人の名主などを兼ねている者が多く、そこの主人は苗字帯刀を許され、門や玄関、上段の間等を設けることが特権のようになっていました。しかし、原則として一般の者を泊めることはできず、大名が泊まることもそう多くはなかったので、江戸時代も後期になると経営難に陥る所も少なくなく、他の仕事を兼業している場合もありました。

東海道草津宿本陣 東海道二川宿本陣

【見付】(みつけ)

 見張り番が置かれていた城門などの施設のことを見付といいますが、街道でも宿場の入口に儲けられ、何かあった時は木戸が閉じられて、通行できなくなったりもしました。街道の両側に土台を石で固め、その上に土を盛り、さらにその上に柵を置いた厳重なものもあったのです。また、大名行列などが来た時には、宿場の者がここまで、出迎えに来たりしました。

中山道垂井宿の西の見付跡 浮世絵に描かれた中山道垂井宿の西の見付

【飯盛女】(めしもりおんな)

 江戸時代に街道の宿場旅籠において、宿泊客の給仕や雑用にあたりながら、売春を行っていた私娼のことで、食売女(めしうりおんな)、宿場女郎(しゅくばじょろう)などとも呼ばれました。江戸幕府は公娼遊郭制をとり、1659年(万治2)には道中筋の遊女を厳禁しましたが、その後、飯盛と名を変えたものといわれ、1718年(享保3)に江戸幕府は、飯盛女を江戸 10里四方の宿屋1軒につき2名、その他の宿もこれに準じると定めています。しかし、実態はそれをはるかに上回り、1772年(明和9)には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかける状態でした。しかし、次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていくようになります。明治維新後の1872年(明治5)に人身売買、年季奉公が禁止されたことにより、形式的には解放されました。

歌川広重作「東海道五十三次」赤坂宿の飯森女 浮世絵に描かれた飯森女

【歴史の道百選】(れきしのみちひゃくせん)

 文化庁が1978年(昭和53)から都道府県教育委員会の協力により、全国的な歴史の道の調査・整備事業を開始して、1996年(平成8)11月、選定委員会よって選定された街道等で、現在78ヶ所の街道・運河が選定されています。
 選定の基準は、以下の5つです。
(一) 原則として、土道・石畳道・道形等が一定区間良好な状態で残っているものを選定する。
(二) 他の地域との連続性を持っているものを選定する。
(三) 単体または単独の交通遺跡は、選定の対象外とする。
(四) 参詣道、信仰関係の道は、広域信仰圏(数か国規模)を有するもののみを選定する。
(五) 原則として、現用の舗装道路は選定の対象外とするが、街道としての連続性を考慮する場合に限り含める。

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【脇往還】(わきおうかん)

 江戸時代、五街道以外の主要な街道をいい、主なものに水戸路、美濃路、伊勢路、例幣使街道、山陽道、善光寺道などが有名です。脇街道・脇道とも呼ばれました。

【脇本陣】(わきほんじん)

 本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれないときとか、宿場で藩同士が、鉢合わせになったとき、格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用されました。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供しました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めました。

東海道舞阪宿脇本陣 中山道太田宿脇本陣林家
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