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松江城探訪マップ |
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松江城(島根県松江市)は、国宝に指定されている5天守閣の一つで、山陰地方で唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存天守は、1611(慶長16)年、堀尾吉晴の築城によるもので、小高い岡に立地し、周囲に内堀をめぐらした典型的な平山城です。5層6階の天守は望楼型で、付櫓を持つ複合式天守です。2層までは、黒の下見板張りで、簡素で実践的な造りで、初期天守閣の姿を今に伝えています。市内をめぐる外堀もほとんど残っていて、武家屋敷なども残存し、旧城下町の風情も残されています。堀尾氏の無嗣改易以後は、京極氏、そして松平(越前)氏の支配で230年続き廃藩置県を迎えます。現在は、城郭の復元工事によって、 1960年(昭和35)本丸一の門と南多聞の一部が復元され、1994年(平成6)に三之丸と二之丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二之丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)が復元されました。さらに、2000年(平成12)に二之丸南櫓が、翌2001年(平成13)中櫓、太鼓櫓、それらをつなぐ約130mの塀が復元され、125年ぶりに往時の姿をよみがえらせました。
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太鼓櫓(復元) |
この櫓は、二の丸の北東角に建てられた平屋建ての櫓で、入母屋造、本瓦葺、延床面積70.459㎡あります。中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付くところが異なっています。名前が示すように、太鼓を打って時を知らせたとのことで、登城の時刻および非常呼集の際にも用いられたそうです。1875年(明治8)に破却されていましたが、2001年(平成13)に約125年ぶりで、木造復元されました。
②中櫓
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中櫓(復元) |
この
櫓は、二之丸の東側、太鼓櫓と南櫓の中間に建てられた平屋建ての
櫓で、入母屋造、本瓦葺、延床面積69.833㎡あります。通常は武具が収納され、幕末には「御具足倉」と呼ばれていたとのことです。1875年(明治8)に破却されていましたが、2001年(平成13)に約125年ぶりで、木造復元されました。
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興雲閣 |
松江城二の丸上の壇に上がると、木造白塗りの壁に入母屋の瓦屋根をのせた擬洋風の建物があります。これが興雲閣で、1903年(明治36)に、松江市が松江工芸陳列所の名目で建設した明治天皇行幸の際の御宿所でした。その後、1912年(明治45)に正面の階段を奥に移動するなどの改修が行われ、松江市の公的な歓迎所として、また、各種の展覧会場、会合に使用されたとのことです。戦後は、県庁仮分室や松江市教育委員会事務局庁舎となり、1969年(昭和44)には、松江市内にある数少ない明治建築の一つとして県指定有形文化財になりました。1973年(昭和48)からは館内に「松江郷土館」を置き、郷土の歴史・文化・民俗等の資料を展示、公開していましたが、2011年(平成23)に閉館し、翌々年から保存修理工事を行っています。
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一之門 |
この門は、二の丸から本丸に至るところにあり、この門をくぐると本丸で、右横に天守閣に登る登閣券を購入する事務所があります。1960年(昭和35)に復元されたものです。
現存天守は、1611(慶長16)年、堀尾吉晴の築城によるもので、小高い岡に立地し、周囲に内堀をめぐらした典型的な平山城です。5層6階の天守は望楼型で、付櫓を持つ複合式天守です。2層までは、黒の下見板張りで、簡素で実践的な造りで、初期天守閣の姿を今に伝えています。1935年(昭和10)に、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、1950年(昭和25)に文化財保護法施行にともない重要文化財に指定され、2015年(平成27)7月8日に、国宝に昇格しています。
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南方向の眺望 |
東方向の眺望 |
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北方向の眺望 |
西方向の眺望 |
この天守閣には、高欄がないので、窓から外を見ることになりますが、眺望はとても良く、松江市街地が一望できます。南方向には、松江市の中心部から宍道湖が見られますし、西方向には、市街地と丘陵地帯が望めます。北方向には、大平山など島根半島の山々を望み、東方向には、天気が良ければ、大山が見える場合もあります。
松江城を囲む中濠は、1611年(慶長16)の一部築城と同時に造られ、今もそのままの姿を残し、満々と水を湛えています。この中濠を舟で周る堀川遊覧は、約40分ほどで巡ることができ、周囲から城を眺め、塩見縄手なども見られ、レトロな気分になれるのでお勧めです。
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北惣門橋 |
現在の北惣門橋は、橋下の発掘調査結果や絵図や文献史料を検討して、1994年(平成6)に木造で復元されたもので、長さ18.54m、幅3.82mあります。もともと、内濠の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路だったのですが、明治時代中頃に石造りのアーチ橋(眼鏡橋)に変わっていたのを江戸時代の状態に戻したものです。
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小泉八雲旧居と小泉八雲記念館 |
小泉八雲旧居の門 |
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小泉八雲旧居の母屋 |
小泉八雲旧居の庭 |
小泉八雲旧居は、松江藩士の武家屋敷だったところで、江戸時代中後期に建てられた母屋や門と自然の山水を絡めた造りの日本庭園が残されています。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1890年(明治23)に、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきました。そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を過ごした邸宅なのです。その後八雲は、熊本、神戸、東京と移り住み、1904年(明治37)に、東京で亡くなるまでの14年間を日本で過ごしました。怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名ですが、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しています。小泉八雲が住んでいた住居で、当時のままで保存されているのはここだけなので、1940年(昭和15)に国の史跡に指定されています。また、隣接して「小泉八雲記念館」が建てられていて、小泉八雲について学ぶことができます。
⑩武家屋敷
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武家屋敷の長屋門 |
武家屋敷の母屋正面 |
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武家屋敷の母屋側面 |
武家屋敷の内部 |
この武家屋敷は、江戸時代に松江藩の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替わり住んだところで、1733年(享保18)の大火焼失後再建されたものです。
母屋、長屋、長屋門、裏門、庭園が現存していて、建物は松江市の文化財に指定されています。玄関から座敷まわり、主人居間のあたりは立派な造りになっているのに比較し、私生活部分は質素な造りになっていて、武家の暮らしぶりがわかります。室内には刀、槍、薙刀などの武器、裃や化粧道具・お歯黒道具など武士の日用品が展示されていて、興味深いものでした。
⑪塩見縄手
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塩見縄手の景観 |
塩見縄手は、松江城北側の中濠沿いで、茶室「明々庵」から「小泉八雲旧居」までの約500mの通りのことです。この辺り、江戸時代には二百石から六百石ほどの松江藩中級武士たちの家中屋敷が並んでいました。なかでも、この武家屋敷街の中ほどに一時居住していた塩見小兵衛が、のちに異例の栄進をして藩の中老にまでなったため、それをたたえてこの通りの名前になったとのことです。ちなみに、「縄手」とは細く延びる一本道のことだそうです。この塩見縄手地区は、1973年(昭和48)に松江市伝統美観保存地区に指定され、さらに1987年(昭和62)には建設省「日本の道100選」に選ばれています。松江城下でも最も雰囲気のあるところで、中濠沿いの老松ともよくマッチして、江戸時代の風情が感じられます。
指定文化財 |
指定 |
員数 |
指定年月日 |
天守閣 |
国宝 |
1棟 |
2015年(平成27)7月8日 |
松江城跡 |
国史跡 |
1件 |
1934年(昭和9)5月1日 |
小泉八雲旧居 |
国史跡 |
1件 |
1940年(昭和15)8月30日 |
興雲閣 |
県文化財 |
1棟 |
1969年(昭和44)2月18日 |
松江城天守雛形 |
市文化財 |
1基 |
1953年(昭和28)8月31日 |
竹内右兵衛書つけ |
市文化財 |
1冊 |
1953年(昭和28)8月31日 |
塩見畷旧武家屋敷遺構 |
市文化財 |
2棟他 |
1985年(昭和28)8月31日 |
武家屋敷 |
市文化財 |
1棟 |
1970年(昭和45)6月10日 |
松江藩家老朝日家長屋 |
市文化財 |
1棟 |
1943年(昭和18)11月1日 |
◎松江城の歴代城主
代 |
歴代城主 |
石高 |
在城年 |
備考 |
初代 |
堀尾吉晴(よしはる) |
240,000石 |
1611年 |
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2代 |
堀尾忠晴(ただはる) |
240,000石 |
1611~1633年 |
無嗣断絶 |
3代 |
京極忠高(ただたか) |
240,000石 |
1634~1637年 |
無嗣断絶 |
4代 |
松平直政(なおまさ) |
186,000石 |
1638~1666年 |
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5代 |
松平綱隆(つなたか) |
186,000石 |
1666~1675年 |
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6代 |
松平綱近(つなちか) |
186,000石 |
1675~1704年 |
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7代 |
松平吉透(よしとお) |
186,000石 |
1704~1705年 |
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8代 |
松平宣維(のぶずみ) |
186,000石 |
1705~1731年 |
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9代 |
松平宗衍(むねのぶ) |
186,000石 |
1731~1767年 |
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10代 |
松平治郷(はるさと) |
186,000石 |
1767~1806年 |
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11代 |
松平斉恒(なりつね) |
186,000石 |
1806~1822年 |
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12代 |
松平斉斎(なりとき) |
186,000石 |
1822~1853年 |
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13代 |
松平定安(さだやす) |
186,000石 |
1853~1871年 |
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