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松本城探訪マップ |
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松本城(長野県松本市)は、1504年(永正元)、島立貞永が築いた深志城がそのはじまりだったのですが、1550年(天文19)、武田信玄によって落城しています。その後、武田氏がこの城に城代を置いていましたが、1582年(天正10)、勝頼の代になって織田信長に滅ぼされました。それからの深志城は信長の城代がおかれていましたが、本能寺の変によって信長が倒れてからは小笠原氏が入り、小笠原貞慶のとき城の名を松本城と改めたのです。豊臣秀吉の時代になって、石川数正が入封し、現在の松本城の築城にとりかかり、1598年(慶長3)、主要部分が完成しました。この頃に、現在
国宝に指定されている
天守閣が完成したものと考えられています。
関ヶ原の戦い以降は、小笠原秀政が入封し、江戸時代になって戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏と城主が変遷しました。しかし、1726年(享保11)、戸田氏が入封して以後は安定し、廃藩置県を迎えたのです。
天守閣群の昭和の大修理以降、城跡の復元工事が続けられていて、1960年(昭和35)に黒門が、
枡形の二の門と
塀は、1989年(平成元)、そして太鼓門が1999年(平成11)に復元されました。また、2006年(平成18)には、
日本100名城にも選定されました。現在は、外堀の復元工事が行われています。
①太鼓門枡形
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太鼓門枡形と二の門(高麗門) |
一の門(櫓門) |
松本城探訪の最初は、1999年(平成11)3月に復元された太鼓門からはじめたいのです。松本市役所前から、外堀を渡るとまだ新しい二の門(高麗門)があります。それをくぐると太鼓門枡形に入り、正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかるのです。これが、玄蕃(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えたところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので、玄蕃石と名前がついたといいます。その上に、石垣をまたいで建つ一の門(櫓門)は、総間口約10m、桁行9間、梁間5間の堂々としたもので、屋根は本瓦葺きとなっています。櫓門の右手の北石垣の上には太鼓楼があり、太鼓と半鐘が置かれ、様々な合図が打ち鳴らされていたので、この門の名称になったとのことです。しかし、1871年(明治4)12月末に取り壊され、石垣までもが崩されていたのを、松本城の保全と史実に基づく復元整備の一貫として、太鼓門跡の発掘調査と石垣の改修から着手されました。それが、1970年頃から徐々に整備され、128年の時を越えて、みごとに蘇ったのです。
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二の丸御殿跡から天守閣東面を望む |
二の丸御殿跡 |
太鼓門をくぐり、右手に進むとそこが二の丸御殿跡で、1978年(昭和53)までは松本地方裁判所の堂々とした建物が建っていました。それが、郊外に移転してからは、全面発掘が行われ、公園化されて平面標示による建物位置が示されています。ここにあった二の丸御殿は、城主の居館と正庁だった本丸御殿が、1727年(享保12)に焼失してから機能が移されたもので、以後、明治維新まで藩の正庁でした。廃藩置県後もここが県庁となり、筑摩県の中心官庁となったものの、1876年(明治9)6月19日の不審火によって焼失したとのことです。ここから見る天守閣も北アルプスを背景にしてなかなかすばらしいのです。
③黒門枡形
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黒門枡形前から天守閣を望む |
二之丸御殿跡を後ろにして、内堀沿いに大きく回り込むと、黒門が見えてきます。さらに、内堀を渡って二の門(高麗門)をくぐり枡形にはいるとそこに、料金所があり、これより内側は有料となります。ここは、本丸の正門で、松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入口にあたるので黒門と称したといいます。この枡形門は一の門(櫓門)とニの門(高麗門)から構成され、明治以降に取り壊されていたものの、一の門は1960年(昭和3)に復興され、二の門と袖塀は1989年(平成元)12月1日に復元され、黒門枡形として蘇りました。この前から見る天守閣は、内堀と北アルプスを撮し込み、絶好の撮影ポイントです。
④本丸御殿跡
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本丸御殿跡から天守閣東面を望む |
黒門をくぐると、左手に天守群が林立し、広々とした芝生空間があります。ここが本丸御殿跡で、二の丸御殿、古山寺御殿とともに石川数正・康長父子時代に造営されたと考えられています。総坪数905坪(約3,000㎡)、総畳数1,560畳の広大な本丸御殿は、1727年(享保12)閏正月元旦焼失し、機能は二の丸御殿に移され、再建されることなく明治維新を迎えました。その後、農事試験場、松本中学校の校庭などいろいろと利用されてきましたが、今日では芝生の庭園となり、御殿跡の輪郭が平面復元標示されていて、その大きさを知ることができます。そこには、清正公駒つなぎの桜というのがありますが、加藤清正が松本城に立ち寄った際、城主石川康長が二頭の駿馬のうち良いほうを進呈するといったところ、清正は二頭とも貰い受け、その時に馬をつないだのがこの桜の木だと伝えられているのです。また、一角には小笠原牡丹が植えられていますが、こんな言い伝えが残されているのです。「武田信玄に追われた小笠原長時はこよなく牡丹の花を愛し、花が敵兵に踏み荒らされるのを憂いて近くの寺に託して城を去った。」それをもとに、約400年余後の1957年(昭和32)年に月見櫓の前に株が移され、毎年5月末には白い大輪の花が咲いているといいます。しかし、ここから見る天守群の眺めは実にすばらしいのです。5層6階の大天守を中心に、3層の乾小天守を渡櫓で連結し、さらに2層の辰巳附櫓と1層2階の月見櫓を複合しています。そして、バックに北アルプスの山々が連なり、その均整のとれた美しい姿を引き立てているのです。天守閣の外壁は各層とも上部は白漆喰で、下部は黒漆塗りの下見板で覆われていることから、別名「烏城」とも称されています。これらのみごとな天守群は、国宝に指定されている5天守閣の一つです。
⑤天守閣の眺望
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天守閣から北アルプス(西方向)を望む |
天守閣から本丸御殿跡と美ヶ原(東方向)を望む |
天守群へは、本丸御殿跡を真っ直ぐ西へ突き進んで、渡櫓の下から入ります。この天守の完成年代は諸説あってはっきりしませんが、1597(慶長2)年頃、石川康長によるものと考えられているのです。5層6階の大天守は二重の渡櫓によって、3層の乾小天守と連結され、東に2層の巽附櫓と月見櫓を伴う、見事なL字型の連結複合式天守です。屋根は寄棟づくりで、各層に千鳥破風や唐破風が見られ、窓は少な目となっています。廃藩置県後、天守群の売却・破壊や倒壊の危機を市川量造、小林有也などの先達の尽力によって守られ、戦後の昭和の大修理により、天守群は解体修理されて蘇りました。以降、城跡の復元工事が順次進められています。天守閣内部に入れば矢狭間や鉄砲狭間、石落、武者走などの実践的な造りが注目されるのです。天井の小屋組も太く、柱は釿(ちょうな)削りで荒々しく、格子窓から射し入る外光が明と暗を演出し、400年前の戦乱の時代の雰囲気が感じ取れます。天守は、階を登るに従って、急勾配の階段となってくるのは、防御を考えてのことか...。4階に上ると御座所がありますが、有事の際に城主の居所として設けられたものといいます。最上階(5階)は後世の天守閣のように廻り縁がなく、防御を考えて、窓も小さくなっています。観光的には眺望するのに不便ですが、これも戦乱の世の時代を反映したものです。大天守最上階から西方向には、内堀越しに北アルプス連山、東方向には、本丸御殿跡のバックに美ヶ原等のすばらしい山並みが眺望でき、しばし、一国一城の主の気分に浸ることは出来ます。
⑥月見櫓の眺望
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月見櫓から内堀と北アルプスを望む |
月見櫓から本丸御殿跡と美ヶ原を望む |
大天守から下りてきて、巽附櫓を通り抜けると月見櫓です。寛永年間(松平直政時代)に、3代将軍徳川家光の善光寺参詣が計画され、将軍を迎えるために松本城を増築したと伝えられています。そのおりに月見櫓が造られたとのことですが、将軍の訪問は実現しなかったと聞きます。開放的な造りで、三方が吹き抜けとなっていて、眺望が良いのです。大天守や小天守の造りに比べて、防御性がなく、戦乱の収まった安定した時代の建築様式となっています。朱塗りの回縁や、刎(はね)高欄を巡らすなどの意匠を凝らし、天守群の姿に、美的ポイントを加えています。ここから眺める月はすばらしいとのことです。
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埋の橋から望む天守閣 |
天守群を出て、北へ進み、埋門の跡を抜けると、内堀に朱塗りの橋が架かっています。この橋は、昭和25年から30年にかけて行なわれた昭和の大修理完成の際、昔の絵図にあった位置に架橋したもので、1955年(昭和30)9月末に完工したとのことです。埋門の名に因んで、埋の橋と命名されています。ここから、内堀と埋の橋を撮し込んだ天守閣の姿は美しく、絶好の撮影ポイントともなっているのです。
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天守閣西面 |
天守閣南西面 |
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天守閣南面 |
内堀前から望む北アルプス |
埋の橋を渡って、内堀に沿い、松本城の二の丸西側にあたる一帯が、松本城公園です。園内には、松や桜、藤等の各種木々が植栽され、内堀には鯉が泳ぎ、白鳥や鴨なども遊んでいます。花見の時期や紅葉の季節は多くの人でにぎわうといいます。ここから、内堀越しに眺望する天守群の勇姿は、白と黒のコントラストがすばらしく、月見櫓の朱塗りの回縁が色を添えていて、実に美しい!西面、南面と角度を変えて、その美を堪能してみたいものです。また、内堀越しに北アルプスを眺めてみても良いと思います。
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松本市立博物館前から望む天守閣 |
松本市立博物館 |
松本城公園から東へ歩くと、「松本市立博物館」に突き当たります。パンフレットによると、ここの前身は1906年(明治39)に松本尋常高等小学校(現在の重文旧開智学校)内に設けられた戦役紀念館にさかのぼるとのことです。1952年(昭和27)に、県下初の博物館法による登録を受け、1968年(昭和43)に「日本民俗資料館」として開館、その後、2005年(平成17)に「松本市立博物館」と改名して、今日に至っているといいます。民俗・歴史・美術・自然(山岳)・時計の5つの展示部門から構成される総合博物館として約92,000点の資料を収蔵し、約1,500点の資料を常設展示しているとあります。中に入ってみると、かなり大きな展示スペースを持っていて、1階の歴史コーナーには、松本城下町の復元模型や松本藩関係の資料、武器や武具、絵図なども展示してあり、松本城探訪の参考にもなります。2階には、信州の自然や本田コレクション(古時計)、地階には松本とゆかりの深い作家の美術品展示、企画展示コーナーもあって充分楽しめる施設だし、松本城見学との共通券となっているので、立ち寄ってみない手はないでしょう。