若山牧水(本名:若山繁)は、1885年(明治18)宮崎県に生まれ、早稲田大学文学部英文科に学びました。1905年、尾上紫舟を中心に車前草社を結び、1910年刊行の第3歌集『別離』によって歌人としての地位を確立、翌年、創作社を結成して主宰しました。自然主義の代表歌人で、歌集『路上』『くろ土』『山櫻の歌』などが知られています。酒と旅をこよなく愛し、日本中を旅行し、朝鮮半島へも出向いています。その歌は広く愛誦され、日本各地に歌碑が建てられていますが、紀行文にも定評があり、各地を旅したものが残っています。晩年は、沼津市の千本松原に居を構えますが、1928年(昭和3)43歳の若さで没しました。代表的な歌は、
「幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」
『みなかみ紀行』は、1922年(大正11)10月14日沼津の自宅を立ち、長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する24日間の長旅の一部を綴ったものです。若山牧水の紀行文中最長で、利根川の水源を訪ねるという意味で命名されています。この旅のかなりの部分は、若い弟子達と変わる変わる連れ立っての徒歩旅行で、文中にその情景を歌った短歌が散りばめられています。現在、このルートはロマンチック街道と銘打って観光コース化されています。
1922年(大正11)秋の若山牧水の旅 |
10月14日
沼津の自宅を立ち東京経由
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御代田駅下車後自動車で
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岩村田「佐久ホテル」泊
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10月15日
佐久新聞社の短歌会出席
岩村田「佐久ホテル」泊
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10月16日
軽便鉄道で小諸駅へ
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小諸懐古園を散策
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小諸駅から汽車で沓掛駅へ、
下車後徒歩で
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星野温泉泊
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10月17日
軽井沢駅前の蕎麦屋で昼食
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草津軽便鉄道で嬬恋駅へ
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嬬恋駅前「嬬恋館」泊
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10月18日
自動車で草津温泉へ
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草津温泉「一井旅館」泊
夜、湯揉み唄と時間湯を見る
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10月19日
徒歩行の途中急に花敷温泉へ
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花敷温泉「関晴館」泊
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10月20日
徒歩で暮坂峠を越える
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沢渡温泉「正栄館」昼食
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四万温泉「田村旅館」泊
旅館で不快な思いをする
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10月21日
中之条駅から電車で渋川駅へ
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渋川駅前の小料理屋で昼食
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渋川駅から電車で沼田駅へ
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沼田「鳴滝館」泊
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10月22日
徒歩で法師温泉へ
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途中、茂左衛門地蔵尊へ参詣
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法師温泉「長寿館」泊
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10月23日
徒歩で法師温泉から戻る
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笹の湯温泉昼食
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身体の疲労を感じて、
湯宿温泉「金田屋」泊
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10月24日
徒歩で沼田へ
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沼田「青地屋」泊 夜、歌会
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10月25日
片品川に沿って歩く
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老神温泉泊
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10月26日
徒歩で途中吹割の滝を見、
東小川で千明家に立ち寄る
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白根温泉泊
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10月27日
徒歩行の途中で大尻沼を見る
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丸沼の養鱒場の番小屋泊
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10月28日
徒歩で金精峠を越える
↓以上『みなかみ紀行』
日光湯元温泉「板屋旅館」泊
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10月29日
徒歩で戦場ヶ原越え中禅寺湖へ
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中禅寺湖畔「米屋旅館」泊
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10月30日
華厳の滝を見、いろは坂を下る
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馬返し駅から電車で日光へ
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日光の友人宅に泊
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10日31日
日光東照宮を見物
日光の友人宅に2泊目
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11月 1日
宇都宮市へ向かう
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私は、今までに『みなかみ紀行』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で特に心に残った所を、コース順に11ヶ所紹介します。
(1) 懐古園<長野県小諸市>
牧水は7,8人と連れ立って、懐古園(小諸城跡)を訪れていますが、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を意識していたようで、『みなかみ紀行』の中で、下記のように書かれています。牧水が訪れた当時と変わらないように懐古園の入口は小諸城三ノ門で、古い石垣もよく残されていますし、浅間山の眺望も雄大で、千曲川の流れも見えます。ただ、「千曲川旅情の歌」の碑は、1927年(昭和2)の建立なので当時はなかったと思われます。また、二の丸の石垣に下記の牧水の歌が刻まれていますが、1934年(昭和9)の除幕とのことです。
「かたわらに 秋草の花 かたるらく ほろびしものは なつかしきかな」
翌朝は早く松原湖へゆく筈であつたが餘り大勢なので中止し、輕便鐵道で小諸町へ向ふ事になつた。同行なほ七八人、小諸町では驛を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」の長詩で名高い懷古園に入つた。そしてその壞れかけた古石垣の上に立つて望んだ淺間の大きな裾野の眺めは流石に私の胸をときめかせた。過去十四五年の間に私は二三度も此處に來てこの大きな眺めに親しんだものである。ことにそれはいつも秋の暮れがたの、昨今の季節に於てであつた。急に千曲川の流が見たくなり、園のはづれの嶮しい松林の松の根を這ひながら二三人して降りて行つた。林の中には松に混つた栗や胡桃が實を落してゐた。胡桃を初めて見るといふK―君は喜んで濕つた落葉を掻き廻してその實を拾つた。まだ落ちて間もない青いものばかりであつた。久しぶりの千曲川はその林のはづれの崖の眞下に相も變らず青く湛へて流れてゐた。川上にも川下にも眞白な瀬を立てながら。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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小諸城三ノ門(懐古園入口) |
島崎藤村の“千曲川旅情の歌”の碑 |
(2) 草津軽便鉄道<長野県・群馬県>
牧水は軽井沢駅前の蕎麦屋で6人で宴を囲み、夕方6時の草津軽便鉄道(その後社名変更して草軽電気鉄道)の汽車で、弟子の門林兵治と共に嬬恋駅へ向かいましたが、別れがたく他の4人も軽井沢旧宿駅まで乗り込んできたとあります。その後の小さな軽便列車の旅の様子も『みなかみ紀行』の中で、下記のように書かれていて、とても興味深かったようです。草軽電気鉄道は、1962年(昭和37)に廃止され、軽井沢駅も建て替えられていますが、現在は、軽井沢駅に隣接して、「旧軽井沢駅舎記念館」があります。これは、新幹線関連事業により取り壊された旧駅舎を、1910年(明治43)の大改築往時の姿で再築した施設です。牧水がこの駅に降り立った当時の状況に復元されているということで、面白く見学しました。また、館内には、草軽電気鉄道に関する展示もあり、屋外に当時使用されていた機関車“デキ12型13号” が保存されていましたが、とてもかわいい電気機関車でした。牧水たちが汽車に乗り込んだ、当時の草津軽便鉄道(その後社名変更して草軽電気鉄道)の始点だった新軽井沢駅の跡地には、今は草軽交通本社が建っています。余談ですが、草軽電気鉄道が登場する映画はいくつかあり、「カルメン故郷に帰る」(1951年松竹大船)、「月がとっても青いから」(1955年日活)、「ここに泉あり」(1955年中央映画/松竹)が有名です。
小さな車室、疊を二枚長目に敷いた程の車室に我等二人が入つて坐つてゐると、あとの四人もてんでに青い切符を持つて入つて來た。彼等の乘るべき信越線の上りにも下りにもまだ間があるのでその間に舊宿まで見送らうと云ふのだ。感謝しながらざわついてゐると、直ぐ輕井澤舊宿驛に來てしまつた。此處で彼等は降りて行つた。左樣なら、また途中で飮み始めなければいゝがと氣遣はれながら、左樣なら左樣ならと帽子を振つた。小諸の方に行くのは二人づれだからまだいゝが、一人東京へ歸つてゆくM―君には全く氣の毒であつた。 我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごつとんごつとんと登りにかゝつた。曲りくねつて登つて行く。車の兩側はすべて枯れほうけた芒ばかりだ。そして近所は却つてうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。 疲れと寒さが闇と一緒に深くなつた。登り登つて漸く六里が原の高原にかゝつたと思はれる頃は全く黒白もわからぬ闇となつたのだが、車室には灯を入れぬ、イヤ、一度小さな洋燈を點したには點したが、すぐ風で消えたのだつた。一二度停車して普通の驛で呼ぶ樣に驛の名を車掌が呼んで通りはしたが、其處には停車場らしい建物も灯影も見えなかつた。漸く一つ、やゝ明るい所に來て停つた。「二度上」といふ驛名が見え、海拔三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあつた。見ると汽車の窓のツイ側には屋臺店を設け洋燈を點し、四十近い女が子を負つて何か賣つてゐた。高い臺の上に二つほど並べた箱には柿やキヤラメルが入れてあつた。そのうちに入れ違ひに向うから汽車が來る樣になると彼女は急いで先づ洋燈を持つて線路の向う側に行つた。其處にもまた同じ樣に屋臺店が拵へてあるのが見えた。そして次ぎ/\に其處へ二つの箱を運んで移つて行つた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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旧軽井沢駅舎記念館(長野県軽井沢町) |
草軽電気鉄道の機関車“デキ12型13号” |
(3) 草津温泉<群馬県吾妻郡草津町>
牧水は弟子の門林兵治と共に草津温泉「一井旅館」に泊まっていますが、独特の高温入浴治療法“時間湯“とその時唄う“湯揉み唄“に興味を持ち、詳述しています。街並みはかなり、近代化されてきてはいますが、当時と変わらない湯畑や時間湯の風習、外湯も残されていて、湯治場の雰囲気が感じられるところです。
「上野の 草津に来り 誰も聞く 湯揉の唄を 聞けばかなしも」
が、草津行きの自動車ならば程なく此處から出るといふことを知つた。そしてまた頭の中に草津を中心に地圖を擴げて、第二の豫定を作ることになつた。 さうなると急に氣も輕く、窓さきに濡れながらそよいでゐる痩せ/\たコスモスの花も、遙か下に煙つて見ゆる溪の川原も、對岸の霧のなかに見えつ隱れつしてゐる鮮かな紅葉の色も、すべてみな旅らしい心をそゝりたてゝ來た。 やがて自動車に乘る。かなり危險な山坂を、しかも雨中のぬかるみに馳せ登るのでたび/\膽を冷やさせられたが、それでも次第に山の高みに運ばれて行く氣持は狹くうす暗い車中に居てもよく解つた。ちら/\と見え過ぎて行く紅葉の色は全く滴る樣であつた。 草津ではこの前一度泊つた事のある一井旅館といふへ入つた。私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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草津温泉の湯畑(群馬県草津町) |
(4) 花敷温泉<群馬県吾妻郡中之条町>
草津温泉から沢渡温泉へ向かう、弟子の門林兵治と2人の徒歩行の途中、急に思い立ってコースを変更して行った温泉で「関晴館」に泊まりました。牧水は人から「草津と違って、湯が澄み透って居る故に、その崖に咲く躑躅や其他の花がみな湯の上に影を落とす、まるで底に花を敷いている様だから花敷温泉というのだ」と聞き、興味を持っていたようです。牧水の入った河原の露天風呂は今は入浴できないようですが、その雰囲気は良く残されていて、川岸に牧水の歌碑が立てられています。
「ひと夜寝て わが立ち出づる 山かげの いで湯の村に 雪降りにけり」
崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入つて先づ湯を訊くと、庭さきを流れてゐる溪流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るといふ。不思議に思ひながら借下駄を提げて一二丁ほど行つて見ると、其處には今まで我等の見下して來た谷とはまた異つた一つの谷が、折り疊んだ樣な岩山の裂け目から流れ出して來てゐるのであつた。ひた/\と瀬につきさうな危い板橋を渡つてみると、なるほど其處の切りそいだ樣な崖の根に湯が湛へてゐた。相竝んで二個所に湧いてゐる。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。 相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄つて手を浸してみると恰好な温度である。もう日もつた山蔭の溪ばたの風を恐れながらも着物を脱いで石の上に置き、ひつそりと清らかなその湯の中へうち浸つた。一寸立つて手を延ばせば溪の瀬に指が屆くのである。 「何だか溪まで温かさうに見えますね。」と年若い友は言ひながら手をさし延ばしたが、慌てゝ引つ込めて「氷の樣だ。」と言つて笑つた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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花敷温泉の牧水歌碑(群馬県中之条町) |
白砂川の渓流 |
(5) 暮坂峠<群馬県吾妻郡中之条町>
文中では、雪景色の中を沢渡温泉に向かって、弟子の門林兵治(文中ではK-君)と2人徒歩で越えたところです。牧水は、「...やがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。」と印象を書いています。草津温泉から暮坂峠を越え沢渡温泉に至る道端には、その文中に挿入された歌の碑がたくさん立てられ、自然環境もよく残されていて、当時の旅を追想させる所です。別に、この時の印象を詠った「枯野の旅」という詩が残されていて、これを刻んだ立派な詩碑と牧水の旅姿の像が、1957年(昭和32)峠に立ちました。牧水が通った10月20日には毎年ここで、盛大な牧水祭が催され、牧水ゆかりの人々が集い,「枯野の旅」の詩の朗読があり,参加者にはナメコ汁が振る舞われるそうです。ここは、標高1,086mの高所に位置するので冷涼で、峠の茶屋もあって一服休憩することもできます。
昨日の通りに路を急いでやがてひろ/″\とした枯芒の原、立枯の楢の打續いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正榮館といふのゝ三階に上つた。此處は珍しくも双方に窪地を持つた樣な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温泉もよく、いゝ湯であつた。此處に此の儘泊らうか、もう三四里を歩いて四萬温泉へ廻らうか、それとも直ぐ中之條へ出て伊香保まで延ばさうかと二人していろ/\に迷つたが、終に四萬へ行くことにきめて、晝飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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暮坂峠の茶屋と牧水誌碑(群馬県中之条町) |
(6) 旧大岩学校<群馬県吾妻郡中之条町>
「みなかみ紀行」には直接書かれていませんが、牧水がこの旅の途上、暮坂峠から沢渡温泉へ弟子の門林兵治と共に歩いている時、この学校の校庭で遊ぶ子供の様子を見て読んだという歌が2首、歌集『山櫻の歌』に収録されています。その通行を記念して、茅葺き屋根のままの当時の校舎が「牧水会館」として残され集会場として使われているのです。牧水は、学校や子供達に興味を持っていたようで、そんな情景を読んだ歌が所々に出てきます。旧校庭には記念して2首を刻んだ歌碑が立てられています。
「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の」
「われもまた かかりき村の 学校に この子等のこと 通る人見き」
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旧大岩学校の牧水会館と若山牧水の歌碑(群馬県中之条町) |
(7) 茂左衛門地蔵尊千日堂<群馬県利根郡みなかみ町>
沼田藩主真田信利は、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い滞納者には残酷な刑罰に処しました。この惨状を見るにしのびず利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民のために一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門で、1681年(天和元)正月、領主の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功しました。時の将軍(家綱)は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となりました。茂左衛門は幕吏に捕らえられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり、1682年(天和2)12月5日月夜野竹の下河原で磔刑に処せられたのです。領民はその死をいたみ刑場跡に地蔵尊を建て供養を続けました。そこに建てられているのが千日堂で、茂左衛門が祀られています。また、磔刑に処せられたところに“義人茂左衛門刑場跡”の碑が立っています。若山牧水も旅の途中でその話を聞き、興味を持ったようで、ここに参詣し、『みなかみ紀行』の中に、下記のように書いています。
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舊沼田領の人々はそれを聞いていよ/\悲しみ、刑場蹟に地藏尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は更に月夜野村に一佛堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と稱へたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかつた。が、次第にその御堂も荒頽して來たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地藏尊を本尊として其處に安置する事になつた。 斯うした話をU―君から聞きながら私は彼の佐倉宗吾の事を思ひ出してゐた。事情が全く同じだからである。而して一は大いに表はれ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。さう思ひながらこの勇敢な、氣の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU―君にそのお堂へ參詣したい旨を告げた。 月夜野橋を渡ると直ぐ取つ着きの岡の上に御堂はあつた。田舍にある堂宇としては實に立派な壯大なものであつた。そしてその前まで登つて行つて驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあつたからである。そして附近には唯だ雀が遊んでゐるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の仕事に就く前に一人々々此處にこの香を捧げて行つたものなのである。一日として斯うない事はないのださうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衞門を思ひ、茂左衞門に對する百姓たちの心を思ひ瞼の熱くなるのを感じた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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義人茂左衛門刑場跡の碑 |
茂左衛門地蔵尊千日堂 |
(8) 湯宿温泉「金田屋旅館」<群馬県利根郡みなかみ町>
牧水はこの旅で、法師温泉からの帰り、疲労を覚え、同行の牛口善衛(文中ではU-君)と松井太三郎(文中ではM-君)と別れ、10月23日、一人でここに泊まりました。温泉に入り、寝たところへ、林銀次(文中ではH-君)が訪ねてきて、夜9時過ぎまで語ってから林銀次は夜道を帰っていきました。現在でも、金田屋旅館の玄関を入った右側には、牧水が泊まった蔵座敷の2階がそのまま残されていて、“牧水の間”として談話室となっています。当時の調度品が置かれ、牧水関係の書籍が並んでいて、そこにたたずんでいると、牧水と林銀次が語り合っている様子が目に浮かんでくるようです。旅館によると、牧水は川魚の甘味噌焼きを旨い旨いと2皿分食べたそうです。玄関脇には、牧水の碑が立てられています。
湯の宿温泉まで來ると私はひどく身體の疲勞を感じた。數日の歩きづめとこの一二晩の睡眠不足とのためである。其處で二人の青年に別れて、日はまだ高かつたが、一人だけ其處の宿屋に泊る事にした。もつともM―君は自分の村を行きすぎ其處まで見送つて來てくれたのであつた。U―君とは明日また沼田で逢ふ約束をした。 一人になると、一層疲勞が出て來た。で、一浴後直ちに床を延べて寢てしまつた。一時間も眠つたと思ふ頃、女中が來てあなたは若山といふ人ではないかと訊く。不思議に思ひながらさうだと答へると一枚の名刺を出して斯ういふ人が逢ひ度いと下に來てゐるといふ。見ると驚いた、昨日その留守宅に寄つて來たH―君であつた。仙臺からの歸途沼田の本屋に寄つて私達が一泊の豫定で法師に行つた事を聞き、ともすると途中で會ふかも知れぬと言はれて途々氣をつけて來た。そしてもう夕方ではあるし、ことによるとこの邊に泊つて居らるゝかも知れぬと立ち寄つて訊いてみた宿屋に偶然にも私が寢てゐたのだといふ。あまりの奇遇に我等は思はず知らずひしと兩手を握り合つた。
十月廿四日 H―君も元氣な青年であつた。昨夜、九時過ぎまで語り合つて、そして提灯をつけて三里ほどの山路を登つて歸つて行つた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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湯宿温泉「金田屋旅館」の外観と牧水の間(群馬県みなかみ町) |
(9) 沼田の舒林寺<群馬県沼田市>
牧水はこの旅で10月21日に「鳴滝屋」そして、法師温泉から戻ってきて、24日に「青池屋」と沼田に2泊しているのですが、「青池屋」では夜、地元の人々が集まって歌会が開かれました。翌日、その会に集まった人々が、旅立つ牧水を町はずれまで送ることになりました。ところが別れがたかったのか、そのうちの生方吉次(文中ではK-君)が、老神温泉までついてきて、牧水と一緒に泊まることになりました。そして、翌26日の朝、いよいよ分かれようとしたときに、あいにくの雨模様で、買ってきた番傘に牧水が2首、筆を走らせたのでした。その番傘を生方吉次がさして沼田に戻り、その菩提寺にあたる舒林寺に後に奉納したとのことです。そして、1986年(昭和61)に有志によって、その番傘をかたどった記念碑が境内に建立されたというわけです。
「かみつけの とねの郡の 老神の 時雨ふる朝を 別れゆくなり」
「相別れ われは東に 君は西に わかれてのちも 飲まむとぞおもふ」
十月廿六日 起きて見ると、ひどい日和になつてゐる。 「困りましたネ、これでは立てませんネ。」 渦を卷いて狂つてゐる雨風や、ツイ溪向うの山腹に生れつ消えつして走つてゐる霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滯在ときめて漸くいゝ氣持に醉ひかけて來ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。 「オヤ/\、晴れますよ。」 さう言ふとK―君は飛び出して番傘を買つて來た。私もそれに頼んで大きな油紙を買つた。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに兩手の出る樣にして、くる/\と油紙と紐とで包んでしまつた。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさゝずとも間に合ふ用意をして、宿を立ち出でた。そして程なく、雨風のまだ全くをさまらぬ路ばたに立つてK―君と別れた。彼はこれから沼田へ、更に自分の村下新田まで歸つてゆくのである。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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舒林寺の番傘の碑(群馬県沼田市) |
(10) 旧千明美術館<群馬県利根郡片品村>
ここは、堂々とした門構えの茅葺き旧家で、1830年(天保元)に当時の名工・高山瀬左衛門が建てたものとのことで、以前は美術館として公開されていました。千明家は、藤原氏の末裔で、長い間に収集・使用した生活用品や左甚五郎作と伝えられる戎尊像などの美術品が多数展示されていたのです。それらも、見応えのあるものでしたが、私は、玄関前に建てられていた若山牧水の歌碑「しめりたる 落ち葉を踏みてわが急ぐ 向かひの山に 燃ゆるもみぢ葉」にとても興味を持ちました。1922年(大正11)10月26日、牧水が千明家に訪れた日に作った歌なのです。『みなかみ紀行』10月26日の記述の中で、下記のように書かれている豪家Cは、まさにこの千明家で、牧水ファンとしては、見逃せないところだと思います。庭もきれいで、じっくりと巡りました。
「しめりたる 落ち葉を踏みてわが急ぐ 向かひの山に 燃ゆるもみぢ葉」
そろ/\暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家C―を訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。 村を過ぎると路はまた峽谷に入つた。落葉を踏んで小走りに急いでゐると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望の夜近い大きな月の照りそめてゐるのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になつてゐる宿屋まで辿り着くことが出來た。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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旧「千明美術館」の外観と若山牧水の歌碑(群馬県片品村) |
(11) 丸沼、大尻沼、菅沼<群馬県利根郡片品村>
文中では、丸沼の養鱒場の番小屋に泊まりましたが、現在では、丸沼が広がったために水没しています。利根川の水源として牧水が興味を抱き、徒歩で金精峠を越え、栃木県側へ入っていき、『みなかみ紀行』としてはそこで終わりとなります。周辺は自然がよく残されていて、牧水の残した歌を味わうには最適です。
「登り来し この山あひに 沼ありて 美しきかも 鴨の鳥浮けり」
沼と山の根との間の小廣い平地に三四軒の家が建つてゐた。いづれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閑ざされてゐた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて來た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て來た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請ひ、直ぐ大圍爐裡の榾火の側に招ぜられた。 番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、實はもう一人、棟續きになつた一室に丁度同じ年頃の老人が住んでゐるのであつた。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農務省の水産局からC―家に頼んで其處に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になつて、もう何年かたつてゐる。老人はその技手であつたのだ。名をM―氏といひ、桃の樣に尖つた頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髮を留むるのみで、つる/\に禿げてゐた。 言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出來るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答へると、それでは沼で釣つて見ないかと言ふ。實はこちらから頼み度いところだつたので、ほんとに釣つてもいゝかと言ふと、いゝどころではない、晩にさしあげるものがなくて困つてゐたところだからなるだけ澤山釣つて來いといふ。子供の樣に嬉しくなつて早速道具を借り、蚯蚓を掘つて飛び出した。 「ドレ、俺も一疋釣らして貰ふべい。」 案内人もつゞいた。
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紀行文『みなかみ紀行』 若山牧水著より |
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丸沼(群馬県片品村) |
☆『みなかみ紀行』関係文学碑・像一覧
所在地 |
碑の位置 |
碑名 |
碑文 |
建立日 |
長野県佐久市岩村田553 |
佐久ホテル前 |
若山牧水歌碑 |
白玉の はにしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりける |
1991年9月 |
群馬県吾妻郡中之条町大字小雨599 |
六合小学校前 |
若山牧水歌碑 |
おもはぬに 村ありて名の やさしかる 小雨の里と いふにぞありける
學校に もの讀める聲の なつかしさ 身にしみとほる 山里過ぎて |
1975年10月20日 |
群馬県吾妻郡中之条町生須 |
生須歌碑苑 |
若山牧水歌碑 |
つづらおり はるけき山路 登るとて 路に見てゆく りんだうの花
紅ゐの 胸毛を見せて うちつけに 啼く啄木鳥の 聲のさびしさ |
1978年10月20日 |
群馬県吾妻郡中之条町生須 |
生須歌碑苑 |
若山牧水歌碑 |
もみぢ葉の いま照り匂ふ 秋山の 澄みぬるすがた 寂しとぞ見し |
1995年11月 |
群馬県吾妻郡中之条町生須 |
生須歌碑苑 |
若山牧水歌碑 |
露霜の とくるがごとく 天つ日の 光をふくみ にほふもみぢ葉 |
1995年11月 |
群馬県吾妻郡中之条町生須 |
生須歌碑苑 |
若山牧水歌碑 |
枯れし葉と おもふもみぢの ふくみたる この紅ゐを なにと申さむ |
1995年11月 |
群馬県吾妻郡中之条町生須 |
生須歌碑苑 |
若山牧水歌碑 |
下草の 薄ほほけて 光りたる 枯木が原の 啄木鳥のこゑ |
1995年11月 |
群馬県吾妻郡中之条町 |
県道55号線脇 |
若山牧水歌碑 |
さびしさよ 落葉がくれに 咲きてをる 深山りんだうの 濃いむらさきの花 |
1996年10月 |
群馬県吾妻郡中之条町 |
県道55号線脇 |
若山牧水歌碑 |
散れる葉の もみじの色は まだ褪えず 埋めてそをろ りんどうの花 |
1996年10月 |
群馬県吾妻郡中之条町 |
牧水清水 |
「みなかみ紀行」文学碑 |
生須村を過ぎると路は単調な雑木林の中に入った。今まで下りであったが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登ってゆくのである。路に堆い落葉はからからにかわいている。
溪川の 眞白川原に われ等ゐて うちたたへたり 山の紅葉を
(「みなかみ紀行」の一説) |
1993年正月 |
群馬県吾妻郡中之条町入山 |
湯の平温泉口 |
若山牧水歌碑 |
枯れし葉と おもふもみぢの ふくみたる この紅ゐを なんと申さむ
溪川の 眞白川原に われ等ゐて うちたたへたり 山の紅葉を |
1977年10月22日 |
群馬県吾妻郡中之条町 |
花敷温泉への分岐点 |
若山牧水歌碑 |
夕日さす 枯野が原の ひとつ路 わが急ぐ路に 散れる栗の實
音さやぐ 落葉が下に 散りてをる この栗の實の 色のよろしさ |
1978年10月20日 |
群馬県吾妻郡中之条町 |
県道55号線脇 |
若山牧水歌碑 |
笹原の 笹の葉かげに 咲き出でて 色あはつけき りんだうの花 |
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群馬県吾妻郡中之条町引沼 |
若山牧水・旅の路 |
若山牧水歌碑 |
先生の 一途なるさまも なみだなれ 家十ばかりなる 村の學校に
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群馬県吾妻郡中之条町引沼 |
若山牧水・旅の路 |
若山牧水歌碑 |
ひたひたと 土踏み鳴らし 眞裸足に 先生は教ふ その體操を |
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群馬県吾妻郡中之条町引沼 |
若山牧水・旅の路 |
若山牧水歌碑 |
先生の 頭の禿も たふとけれ 此處に死なむと 教ふるならめ |
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群馬県吾妻郡中之条町入山 |
花敷温泉 |
若山牧水歌碑 |
ひと夜寢て わが立ち出づる 山かげの いで湯の村に 雪降りにけり |
1975年10月22日 |
群馬県吾妻郡中之条町入山 |
花敷温泉 |
若山牧水歌碑 |
眞裸體に なるとはしつつ 覺束な 此處の温泉に 屋根の無ければ |
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群馬県吾妻郡中之条町入山 |
花敷温泉 |
若山牧水歌碑 |
折からや 風吹きたちて はらはらと 紅葉は散り來 いで湯のなかに |
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群馬県吾妻郡中之条町入山 |
花敷温泉 |
若山牧水歌碑 |
樫鳥が 踏みこぼす紅葉 くれなゐに 透きてぞ散り來 わが見てあれば |
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群馬県吾妻郡中之条町入山国有林内 |
暮坂峠 |
若山牧水詩碑 |
枯野の旅
乾きたる/落葉のなかに栗の實を/濕りたる/朽葉がしたに橡の實を/とりどりに/拾ふともなく拾ひもちて/今日の山路を越えて來ぬ/長かりしけふの山路/樂しかりしけふの山路/殘りたる紅葉は照りて/餌に餓うる鷹もぞ啼きし/上野の草津の湯より/澤渡の湯に越ゆる路/名も寂し暮坂峠
(若山牧水の旅姿の像が付随) |
1957年10月20日 |
群馬県吾妻郡中之条町上沢渡3404-1 |
旧大岩学校前 |
若山牧水歌碑 |
人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の
われもまた かかりき村の 学校に この子等のこと 通る人見き |
1975年10月20日 |
群馬県吾妻郡中之条町四万 |
四万湯原分校跡 |
若山牧水歌碑 |
小学校 けふ日曜に ありにけり 桜のもみぢ ただに散りゐて |
1976年10月21日 |
群馬県利根郡みなかみ町永井452-1 |
永井宿郷土館前 |
若山牧水歌碑 |
山かげは 日暮れ早きに 学校の まだ終らぬか 本読む声す |
1979年3月29日 |
群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1171 |
椿山房三国路与謝野晶子紀行文学館入口 |
「みなかみ紀行」文学碑 |
私は河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖をもっている。一つの流に沿うて次第そのつめまで登る。そして峠を越せば其處にまた一つの新しい水源があって小さな水源を作りながら流れ出してゐる、という風な處に出曾ふと、胸の苦しくなる様に歓びを覚えるのが常であった。
(「みなかみ紀行」の一説) |
1989年10月22日 |
群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉 |
歌碑の道 |
「みなかみ紀行」文学碑 |
こゝに猿ヶ京村というふしぎな名のある部落のあるを見るであろう。
(「みなかみ紀行」の一説) |
1984年 |
群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉608 |
金田屋旅館前 |
「みなかみ紀行」文学碑 |
わたしのひとり旅は わたしのこころの旅であり 自然を見つめる 一人旅でもある
(「みなかみ紀行」の一説) |
1993年10月1日 |
群馬県沼田市白沢町高平2460 |
栗生トンネル入口 |
若山牧水歌碑 |
相別れ われは東に 君は西に わかれてのちも 飲まむとぞおもふ |
1986年10月20日 |
群馬県沼田市材木町15 |
舒林寺境内 |
番傘歌碑 |
かみつけの とねの郡の 老神の 時雨ふる朝を 別れゆくなり
相別れ われは東に 君は西に わかれてのちも 飲まむとぞおもふ |
1986年10月20日 |
群馬県沼田市利根町老神 |
牧水橋西側 |
若山牧水歌碑 |
かみつけの とねの郡の 老神の 時雨ふる朝を 別れゆくなり |
1986年3月 |
群馬県沼田市利根町老神 |
牧水橋西側 |
若山牧水歌碑 |
相別れ われは東に 君は西に わかれてのちも 飲まむとぞおもふ |
1986年6月 |
群馬県利根郡片品村東小川4653-16 |
白根魚苑内 |
若山牧水歌碑 |
時知らず 此処に生ひたち 枝張れる 老木を見れば なつかしきかも |
1970年6月 |
群馬県利根郡片品村東小川4667 |
旧千明美術館前 |
若山牧水歌碑 |
しめりたる 落ち葉を踏みて わが急ぐ 向かひの山に 燃ゆるもみぢ葉 |
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この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『みなかみ紀行』(若山牧水著)が中公文庫<400円>と岩波文庫<648円>から出版されています。 |
☆『みなかみ紀行』関連リンク集
◇若山牧水記念館(沼津市) |
歌人若山牧水の生誕から永眠するまでの足跡と、その輝かしい全仕事を一堂にまとめて、編年体で展示しています。 |
◇若山牧水のホームページ |
東郷町若山牧水顕彰会のホームページで牧水の生涯、牧水の歌碑、若山牧水賞等の構成になっています。 |
◇暮坂峠 |
「旅と峠」の中の暮坂峠のページです。『みなかみ紀行』の旅で牧水が通った10月20日に、ここで牧水祭が催されます。 |
◇若山牧水 |
「教育ネットひむか」の中の若山牧水についてのページです。 |
◇佐久ホテル |
若山牧水が「みなかみ紀行」の旅で2泊した佐久ホテルの公式ホームページです。 |
◇青空文庫『みなかみ紀行』 |
青空文庫にある『みなかみ紀行』の図書カードで、このサイトで全文をダウンロードしたり読んだり出来ます。 |