江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、伊賀の武士出身といわれ、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その、生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。それは、「笈の小文」「更級紀行」「野ざらし紀行」などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の「奥の細道」の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれ息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も『旅に病んで
夢は枯れ野を かけ廻る』というものでした。
「おくの細道」は、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。この旅は、1689年(元禄2)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いたものでした。9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっていますが、日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行でした。私も、その跡をたどって何度か旅したことがありますが、各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅をしのぶことができます。
「おくの細道」の旅での芭蕉宿泊地一覧(曾良随行日記より) |
粕壁 3.27
間々田 3.28
鹿沼 3.29
日光 4. 1
玉入(玉生) 4. 2
余瀬 4. 3
野羽 4. 4〜10
余瀬 4.11〜14
黒羽 4.15
高久 4.16〜17
那須湯本 4.18〜19
旗宿 4.20
矢吹 4.21
須賀川 4.22〜28
郡山 4.29
福島 5. 1
飯坂 5. 2
白石 5. 3
仙台 5. 4〜 7
塩釜 5. 8
松島 5. 9 |
石巻 5.10
戸伊摩(登米)5.11
一ノ関 5.12〜13
岩手山 5.14
堺田 5.15〜16
尾花沢 5.17〜26
立石寺 5.27
大石田 5.28〜30
新庄 6. 1〜 2
羽黒 6. 3〜 5
月山 6. 6
羽黒 6. 7〜 9
鶴岡 6.10〜12
酒田 6.13〜14
吹浦 6.15
塩越 6.16〜17
酒田 6.18〜24
大山 6.25
温海 6.26
中村 6.27
村上 6.28〜29 |
築地 7. 1
新潟 7. 2
弥彦 7. 3
出雲崎 7. 4
鉢崎 7. 5
今町(直江津)7. 6
高田 7. 7〜10
能生 7.11
市振 7.12
滑川 7.13
高岡 7.14
金沢 7.15〜23
小松 7.24〜26
山中 7.27〜8.4
小松 8.5?〜 8
大聖寺 ?
松岡 ?
福井 8.12?〜13?
敦賀 8.14?〜15?
大垣 8.28?〜9.5
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私は、学生時代から「おくの細道」を巡る旅に何度か出ていますが、その中で特に心に残った所を、順に紹介します。
(1) 深川芭蕉庵跡<東京都江東区>
ここは、1680年(延宝8)、松尾芭蕉が37歳の時から1694年(元禄7)まで住んでいたところで、門人の杉山杉風の生け簀の番屋を改築して、芭蕉庵と称していたとのことです。現在は、その跡地と考えられているところに芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡)が祀られています。「おくの細道」の旅もここを出発地としました。近くに、「芭蕉記念館」が建てられていて、関係資料を見ることができます。
『草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家』
<冒頭>
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
面八句を庵の柱にかけ置く。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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深川芭蕉庵跡(東京都江東区) |
芭蕉記念館(東京都江東区) |
(2) 室の八嶋<栃木県栃木市>
ここは、古来の和歌などに歌枕として見られる地名で、池に八つの小島があり、昔はそこから水蒸気が立ち上っていたので、煙を詠むことになっていたとのことです。『万葉集』や『古今和歌集』等の和歌集に登場するので、松尾芭蕉も立ち寄ったと思われます。現在の「室の八嶋」は、大神神社の杉木立の中の掘割に、八つの小島があり、それぞれの島の八つの祠には、筑波・天満・鹿嶋・雷電・浅間・熊野・二荒山・香取の各名神が祀られています。その入口のところに、芭蕉の句碑と「おくの細道」の該当箇所の碑が並んで立っています。
『いと遊に 結びつきたる けふりかな』
<室の八嶋>
室の八嶋に詣す。同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習しはべるもこの謂なり」。はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記のむね世に伝ふこともはべりし。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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大神神社の室の八嶋(栃木県栃木市) |
芭蕉の「いと遊に...」句碑 |
(3) 黒羽(栃木県大田原市)
松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で14日間逗留したところで、城館跡に「芭蕉の館」という資料館があって見学しました。館の庭には、芭蕉が馬に跨り曽良を従えているブロンズ像があり、当時の芭蕉の旅の姿がしのばれます。その後、すぐ下にある大雄寺にも立ち寄ったのですが、参道の両側にシャガやシャクナゲの花が咲いていて、とてもきれいなので、接写してみました。ここの本堂はかやぶき屋根でとても雰囲気があるものの、修行のための道場になっていて、予約しないと堂内には入れないのです。やむを得ず、外から写真を撮るだけになってしまったのですが...。ここには、芭蕉が訪ねた浄法寺家の墓があるとのことです。
『かさねとは 八重撫子の 名なるべし』『夏山に 足駄を拝む 首途かな』
<黒羽>
黒羽の館代浄坊寺何がしの方におとずる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、その弟桃翠などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原(をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣ず。与一扇の的を射し時、「べっしては我国氏神正八まん」とちかひしもこの神社にてはべると聞けば、感應殊しきりに覚えらる。暮るれば桃翠宅に帰る。
修験光明寺といふあり。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に 足駄をおがむ かどでかな
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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「芭蕉の館」(栃木県大田原市) |
芭蕉と曽良のブロンズ像 |
(4) 遊行柳<栃木県那須町>
ここは、西行法師や遊行上人の伝説にまつわるところで、ここも松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で立ち寄り、「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな」の名句を残しており、1799年(寛政11)4月建立の句碑があります。その近くに、与謝蕪村の句碑「柳散 清水涸 石処々(柳散り 清水かれ 石ところどころ)」と、西行の歌碑「道のべに 清水流るゝ 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」も建っています。周囲は田園に囲まれ、訪れる人も希で、のどかな風景が広がっていました。しかし、芭蕉の旅を偲ぶにはかっこうの場所で、しばし風に吹かれながらたたずみ、何枚かカメラに収めさせてもらいました。
『田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな』
<殺生石・遊行柳>
これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男の子、短冊得させよとこう。やさしきことを望みはべるものかなと、
野を横に 馬ひきむけよ ほととぎす
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
また、清水ながるるの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。この所の郡守戸部某のこの柳見せばやなど、おりおりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ。
田一枚 植えて立ち去る 柳かな
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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遊行柳(栃木県那須町) |
与謝蕪村の句碑 |
(5) 白河の関跡<福島県白河市>
ここも、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で立ち寄った著名な所であるものの、12時を過ぎ腹も減っていたので、まず白河関の森公園にあるレストランに入りました。天ざる蕎麦を注文したのですが、地元産のそば粉を使っていて、結構味も良かったです。食後は、白河関跡をぐるっと巡りながら、白河神社、空壕跡、「古関跡」の碑、「奥の細道白川の関」の碑などの写真を撮ったのですが、古を偲ぶには良いところだと思います。
『卯の花を かざしに関の 晴れ着かな』曽良
<白河の関>
心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。いかで都へと便求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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白河の関跡(福島県白河市) |
白河関跡の「奥の細道白川の関」の碑 |
(6) 須賀川<福島県須賀川市>
最初に、須賀川市役所脇にある「芭蕉記念館」を訪れました。以前にも訪れたことがあるのですが、この地は、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で1週間逗留したところなのです。記念館で、芭蕉が須賀川滞在中の様子を紹介したビデオを見て、どこを巡るか参考にしました。まず、近くにある可伸庵跡、軒の栗に行ってみましたが、住宅街の一角となっていて、句碑「世の人の見付ぬ花や軒の栗」の前で、当時を偲んでみました。次に、十念寺へと向かいましたが、この境内には有名な「風流の初やおくの田植うた」の句碑があります。その後は、「須賀川歴史博物館」にも立ち寄って、古代からの須賀川の歴史を学びました。そこで、時雨塚の場所を教えてもらったのですが、個人の所有地となっていて、柵の外から碑を眺めるだけしか出なかったのが残念です。いくつかの「おくの細道」縁の地を訪ね、古に思いを馳せることができてとても満足でした。
『世の人の 見付ぬ花や 軒の栗』『風流の 初やおくの 田植うた』
<須賀川>
とかくして越え行くままに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼といふ所を行くに、今日は空曇て物影うつらず。
須賀川の駅に等窮といふものを尋ねて、四、五日とどめらる。まず白河の関いかにこえつるやと問う。「長途のくるしみ、身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の 初やおくの 田植うた
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて、三巻となしぬ。
この宿のかたわらに、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚えられてものに書き付はべる。其詞、
栗といふ文字は西の木と書きて
西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生
杖にも柱にもこの木を用いたまふとかや。
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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「芭蕉記念館」(福島県須賀川市) |
可伸庵跡・軒の栗 |
(7) 医王寺<福島県福島市>
医王寺境内を散策しましたが、ここは、826年(天長3)の開基という古寺、NHKの大河ドラマで注目された「義経」ゆかりの地で、義経に従って、討ち死にした佐藤継信、忠信他一族の墓があることで知られています。松尾芭蕉も『おくの細道』の旅で、立ち寄って落涙したところで、境内には、「笈も太刀も 五月に飾れ 紙のぼり」の芭蕉句碑が立てられ、宝物殿には、その笈が展示されていました。訪れた時には、梅や椿もきれいに咲いていて、ここでも、いろいろと撮影しました。
『笈も太刀も 五月に飾れ 紙のぼり』
<佐藤庄司の旧跡>
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとヾめて什物とす。
笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟
五月朔日の事也。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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医王寺本堂(福島県福島市) |
芭蕉の「笈も太刀も...」句碑 |
(8) 平泉<岩手県平泉町>
「おくの細道」の旅はそれまでも源義経を忍ぶ場所に立ち寄っていますが、終焉の地である高館に至って絶唱しています。また、中尊寺には、芭蕉も参拝した国宝に指定されている金色堂が残されています。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』 『五月雨の 降りのこしてや 光堂』
<平泉>
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や 兵どもが 夢の跡
卯の花に 兼房みゆる 白毛かな 曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の 降のこしてや 光堂
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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平泉中尊寺の金色堂(岩手県平泉町) |
高館の義経堂 |
(9) 堺田の封人の家<山形県最上町>
松尾芭蕉が奥の細道の旅で宿泊した中で、唯一現存する民家(旧有路家)で、山形県最上郡最上町にあり、江戸時代中期に建てられた、当時の庄屋の家です。1689年(元禄2)5月15日(新暦では7月1日)に、俳聖松尾芭蕉は門人の曾良と共に、2泊した「封人の家」として有名になりました。この建物は、茅葺の寄棟造りで、南面に切妻破風が付き、桁行25.5m、梁間11.2mある大型民家で、役宅でもあり、問屋や旅館としての機能も備えていたと考えられています。江戸中期大型民家の遺構としても、大変貴重なので、1969年(昭和44)に、国の重要文化財に指定されました。その後、1971年(昭和46)から2年かけて解体復元修理が行われ、建築当初の姿に復原されたものです。現在は、最上町所有の建造物となり、一般公開されていて、内部には、関係する資料も展示されてきました。また、家の前に、松尾芭蕉が止まった時に詠んだ句碑「蚤虱 馬の尿する 枕もと」が立っています。
『蚤虱 馬の尿する 枕もと』
<尿前の関>
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱 馬の尿する 枕もと
あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじ云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠のなか踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこ云やう、「此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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(10) 尾花沢<山形県尾花沢市>
まず尾花沢市街へと入って、「芭蕉・清風歴史資料館」に立ち寄りました。ここは、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で、10泊したところで、関連する史跡がいろいろと残されているとのことで、興味深く見学しました。
『涼しさを わが宿にして ねまるなり』
<尾花沢>
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
涼しさを 我宿にして ねまる也
這出よ かひやが下の ひきの声
まゆはきを 俤にして 紅粉の花
蚕飼する 人は古代の すがた哉 曾良
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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「芭蕉・清風歴史資料館」(山形県尾花沢市) |
芭蕉像 |
(11) 立石寺<山形県山形市>
まず、門前の食堂の駐車場に車を駐めて、階段を上って、根本中堂、宝物館と巡ってから、奥の院へと登り始めました。ここも、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で立ち寄ったことで知られ、別名山寺と呼ばれています。山上の堂塔への坂道はとてもきつく岩を登っていく感じですが、眺望は最高です。途中、芭蕉の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の句にちなんだ「せみ塚」があり、夏ならば、蝉しぐれが聞こえ、その境地がわかるようなところです。しかし、奥の院は山の上にあるため約1,000もの階段を登らなくてはならなくて、大変なのです。昔来たときには、胎内くぐりという、岩の洞窟を潜っていくコースもあって面白かったものの、落石の危険があると言うことで、現在は閉鎖されています。なんとか階段を登り切って、奥の院へと至ったのですが、ほんとうに息が切れました。しかし、上から見た景色はすばらしく、開山堂へも行って、何度も何度もカメラのシャッターを切りました。
『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』
<立石寺>
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや 岩にしみ入 蝉の声
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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立石寺の開山堂(山形県山形市) |
立石寺のせみ塚 |
(12) 象潟<秋田県にかほ市>
松尾芭蕉の旅した頃は松島と並び賞される裏日本の景勝地でした。その後、1804年(文化元)の地震で隆起し、島々は陸地と化してしまい、今では、水田の中の小山となっていますが、往時を忍ぶことができます。当時は、島にあって芭蕉が立ち寄った蚶満寺には、句碑が残されています。
『象潟や 雨に西施が ねぶの花』
<象潟>
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風眞砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫索して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此所に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し
祭礼
象潟や 料理何食う 神祭 曾良
蜑の家や 戸板を敷きて 夕涼み 低耳
岩上にみさごの巣を見る
波越えぬ 契ありてや みさごの巣 曾良
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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象潟の蚶満寺山門(秋田県にかほ市) |
蚶満寺の芭蕉句碑 |
(13) 願念寺<石川県金沢市>
この寺の創建は慶長年間(1596〜1615年)と伝えられていますが、当初は現在の片町付近にあり、1659年(万治2)現在地に移ってきたとのことです。松尾芭蕉の弟子、小杉一笑の菩提寺で、「おくの細道」の旅で金沢入りした芭蕉は、一笑が前年に36歳の若さで死去したことを知り、慟哭します。そして、この寺で催された追悼会で「塚も動け 我泣く声は 秋の風」と、その悲しみを詠んだのです。境内には、一笑の辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」
が刻まれた一笑塚や芭蕉の句碑があります。
『塚も動け 我泣く声は 秋の風』
<金沢>
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け 我泣声は 秋の風
ある草庵にいざなはれて
秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
途中吟
あかあかと 日は難面も あきの風
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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願念寺の一笑塚(石川県金沢市) |
芭蕉の「塚も動け...」句碑 |
(14) 多太神社<石川県小松市>
この神社は、503年(武烈天皇5)の時に創建されたと伝えられ、延喜式内社として登録されている古く由緒ある神社です。社宝になっている兜は、1183年(寿永2)源平の合戦に華々しく散った、平家の老将斎藤実盛の着用したもので、木曾義仲が奉献し、現在は国の重要文化財に指定されています。そして、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅の途次に三人で詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げているのです。境内には、芭蕉の「むざんやな 兜の下の きりぎりす」の句碑が立ち、宝物館には斉藤実盛の兜があります。
『むざんやな 兜の下の きりぎりす』
<小松>
小松と云所にて
しほらしき 名や小松吹 萩すゝき
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。眞盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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多太神社(石川県小松市) |
芭蕉の「むざんやな...」句碑 |
(15) 那谷寺<石川県小松市>
那谷寺は、奈良時代の717年(養老元)泰澄法師の開基によるという高野山真言宗別格本山で、寺域も広く、木も鬱蒼と茂っています。特に、奇岩がそそり立った遊仙境はみごとです。安土桃山時代から江戸時代前期に建てられた本堂(大悲閣)、書院及び庫裏、三重塔、護摩堂、
鐘楼が残っていて、国の重要文化財に指定されていますが、いずれも芭蕉が「おくの細道」の旅で立ち寄った時には、建っていたものです。奇岩といい、建物といい松尾芭蕉と同じものを見ているのだと思うと感激します。特に苔むした句碑「石山の
石より白し 秋の風」の前に立つと感極まるのです。
『石山の 石より白し 秋の風』
<那谷>
山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
石山の 石より白し 秋の風
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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那谷寺の奇岩遊仙境(石川県小松市) |
芭蕉の「石山の...」句碑 |
(16) 山中温泉<石川県加賀市>
ここの泉屋に松尾芭蕉は「おくの細道」の旅の途中、9日間の温泉逗留をしました。芭蕉は薬師堂を詣で、温泉につかり、周辺を散策して、風光明媚な景色を楽しんだといわれています。大聖寺川の渓谷沿いには「鶴仙渓遊歩道」が整備され、「黒谷橋」のたもとには、ひなびた風情の「芭蕉堂」があり、中には木製芭蕉座像が安置されています。また、温泉街の中に「芭蕉の館」がありますが、松尾芭蕉が滞在した泉屋に隣接した扇屋別荘を改築したもので、芭蕉関係資料など、多くの俳諧資料を公開する資料館となっています。
『山中や 菊は手折らじ 湯のにほい』
<山中>
温泉に浴す。其功有明に次と云。
山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来たりし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
行き行きてたふれ伏とも萩の原 曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
今日よりや 書付消さん 笠の露
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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奥の細道三百年祭記念碑(石川県加賀市) |
芭蕉堂(石川県加賀市) |
(17) 全昌寺<石川県加賀市>
ここは、下寺院群にあり、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の菩提寺で曹洞宗のお寺で、五百羅漢で有名です。そして、「おくの細道」の行脚の折り、芭蕉と曽良が一泊し、二人が宿泊した部屋が復元されています。境内には句碑がいくつかあり、「はせを塚」と「曾良の句碑」は、大聖寺の俳人二宮本圭らによって、建立されたと言われています。また、本堂には杉風作のにっこり微笑んだ芭蕉木像が有ります。
『庭掃いて いでばや寺に ちる柳』
『終夜 秋風きくや うらの山』曽良
<全昌寺>
大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
終宵 秋風聞や うらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、
庭掃て 出ばや寺に 散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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全昌寺(石川県加賀市) |
芭蕉塚と曽良句碑(石川県加賀市) |
(18) 天龍寺<福井県永平寺町>
ここは、1653年(承応2)に松岡藩主松平昌勝により祖母の菩提寺として建立されたお寺で、歴代藩主、側室の墓所があります。そして、松尾芭蕉に金沢から随行した立花北枝とこの寺で一泊したあと、別離があったところです。境内には、芭蕉と北枝の別れの銅像、芭蕉句碑「物書て 扇引さく 余波哉」、1844年(天保15)建立の芭蕉塚があります。
『物書て 扇引さく 余波哉』
<天龍寺・永平寺>
丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別れに望みて、
物書て 扇引さく 余波哉
五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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芭蕉と北枝の別れの銅像(福井県永平寺町) |
芭蕉塚(福井県永平寺町) |
(19) 佐内公園<福井県福井市>
ここは、芭蕉が「おくの細道」の旅で2泊した洞哉宅跡で、それを示す碑と「明月の 見所問ん 旅寝せむ」の句碑が並んで立っていました。その後二人は、連れだって敦賀に向かっています。公園内には、橋下佐内の銅像と啓発録の碑、橋下佐内の墓もありました。
『明月の 見所問ん 旅寝せむ』
<福井>
福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来たりて予を尋。遥十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、將死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木ヾに戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものゝかたに行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とうかれ立。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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芭蕉宿泊地洞哉宅跡(福井県福井市) |
芭蕉の「明月の...」句碑 |
(20) 気比神宮<福井県敦賀市>
ここでは、芭蕉は夜に参詣し、遊行上人の足跡を偲んでいます。この神社は、越前の一宮で、今でも森に囲まれ、荘厳な感じがします。芭蕉の句碑「なみだしくや 遊行の持てる 砂の露」(「おくの細道」掲載の句の初案)と芭蕉翁月五句の碑、芭蕉像が立ち並んでありました。
『月清し 遊行の持てる 砂の上』『名月や 北国日和 定めなき』
<敦賀>
漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かえるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。 その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたへず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍る」と、亭主のかたりける。
月清し 遊行のもてる 砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
名月や 北国日和 定なき
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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気比神宮(福井県敦賀市) |
芭蕉の「なみだしくや...」句碑 |
(21) 種の浜<福井県敦賀市>
ここでは、色浜集落にある本隆寺に立ち寄りました。ここは、松尾芭蕉が『おくの細道』の旅で、「ますほの小貝」を拾わんと立ち寄ったところなのです。現在では、小さなお堂と句碑「小萩ちれ
ますほの小貝 小盃」と「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」があるだけなのですが...。
『小萩ちれ ますほの小貝 小盃』『寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋』
<種の浜>
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。 浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋
波の間や 小貝にまじる 萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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本隆寺(福井県敦賀市) |
芭蕉の「寂しさや...」句碑 |
(22) 大垣のむすびの地<岐阜県大垣市>)
松尾芭蕉が「おくの細道」の旅を終えた場所で、芭蕉像や記念碑、蛤塚などのたくさんの句碑が立ち並んでいます。この水門川の舟町港から多くの門人に見送られて、谷木因らと共に伊勢に向かったのでした。舟町港跡には、住吉灯台、河岸、船などが残されていて往時を偲べますし、近くに、「奥の細道むすびの地記念館」もあり、見学できます。
『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』
<大垣>
路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より |
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奥の細道むすびの地(岐阜県大垣市) |
水門川の舟町港 |
この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『奥の細道』(松尾芭蕉著)が岩波文庫<842円>、角川文庫<778円>他から出版されています。 |
☆『奥の細道』関連リンク集
◇奥の細道をゆく |
「奥の細道」を旅したい人は、その様子がよくわかります。芭蕉ファンは必見です。 |
◇奥の細道二人旅 |
「奥の細道」を夫婦で旅された方の丁寧な解説と紀行文です。 |
◇松尾芭蕉の旅 おくの細道 |
『おくの細道』のデータベースです。テキスト全文と地図、芭蕉年表などがあります。 |
◇奥の細道歩き旅 |
尺取虫さんが、奥の細道全行程を歩いた記録です。「奥の細道」の足跡を訪ねるのには、とても参考になります。 |