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旅と文学
文学の旅(13) 「津軽」太宰治著

或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。 

太宰治の文学 『津軽』の旅 関係地 『津軽』を巡る旅六題 文学碑 関連リンク集


☆太宰治の文学

 本名は津島修治といい、1909年(明治42)青森県金木村(現在の五所川原市金木町)の県下有数の大地主津島家の六男として生まれました。県立青森中学校(現在の県立青森高等学校)から、官立弘前高等学校に学びましたが、高校在学中から、プロレタリア文学に興味を持って、同人誌に作品を掲載することになります。卒業後は、東京帝国大学文学部仏文学科に入学しましたが、あまり授業にも出ず、井伏鱒二に弟子入りし、在学中に、人妻と入水自殺を図ったりして、大学は辞めることになりました。その後、同人誌『海豹』に参加し、1935年(昭和10)、「逆行」を『文藝』に発表して、第1回芥川賞候補となって注目されます。それからも、自殺未遂したりしますが、1939年(昭和14)石原美知子と結婚して安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編小説を発表しました。戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を続け、戦後は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などを書いて無頼派などと呼ばれて脚光を浴びますが、1948年(昭和23)40歳の若さで、玉川上水にて入水自殺しました。

☆『津軽』の旅

 小説『津軽』は、1944年(昭和19)、小山書店より「新風土記叢書」の第7編として刊行されたものです。太宰治は、小山書店からの依頼を受け、1944年5月12日から6月5日にかけて取材のため津軽地方を旅行しました。それをもとに書かれているので、津軽地方の地理や人々を描いた紀行文のような感じですが、自伝的小説とみなされています。しかし、津軽半島が舞台となっていて、竜飛崎、十三湖、深浦、弘前、蟹田、小泊、五所川原などの実際の地名や風景、寺院、旅館等が登場し、旅の情景を彷彿とさせるものになっています。そのような場所を巡って、小説の情景を思い浮かべてみるのも楽しいかと思います。

1944年(昭和19)の太宰治「津軽」の旅の行程
5月12日
 
上野発の夜行列車で青森へ
   

 車中泊
   

5月13日
 青森駅で外崎貞次郎君が出迎え
   

 下山清次さん宅で接待を受ける
   

 蟹田の中村貞次郎君宅泊(~16日)
   

5月17日
 
バスで今別へ
   ↓
 松尾清輝さん宅で歓待を受ける

   

 
午後、本覚寺へ行く
   

 徒歩で三厩へ

   

 丸山旅館泊
   

5月18日

 松尾清輝さんと別れ義経寺へ
   

 
徒歩で竜飛へ
   

 
奥谷旅館泊
   

5月19日

 徒歩で三厩へ
   

 
バスで蟹田へ
   

 
蟹田の中村貞次郎君宅泊(~20日?)
   

5月21日
 海路青森へ
   ↓
 列車を乗り継いで金木へ

   

 
金木の生家泊
   

5月22日
 雨の庭をひとりで眺めて歩く
   

 
金木の生家泊
   

5月23日
 4人で高流山へピクニックへ
   

 修錬農場へ立ち寄る
   

 金木の生家泊
   
↓ 
5月24日
 6人で鹿の子川溜池へピクニックへ

   

 
金木の生家泊
   

 5月25日
 
五能線で父の生家木造へ
   

 深浦へ

   

 秋田屋旅館泊
   

5月26日
 鯵ヶ沢へ
   

 五所川原へ
   

 叔母きゑ宅泊
   

5月27日
 
津軽鉄道で中里へ
   

 
バスで小泊へ
   

 タケと再開

   

 小泊の越野タケ宅
   

5月28日

 蟹田へ
   
 蟹田の中村貞次郎君宅泊(~?日)
   

6月4日

 海路青森へ

   ↓
 青森発の夜行列車で上のへ

   

 車中泊
   

6月5日
 東京へ戻る

☆『津軽』の旅の関係地

『津軽』の旅の関係地

☆『津軽』を巡る旅六題

 私は、今までに『津軽』の関係地を訪ね、何度か旅に出ていますが、その中で心に残った所を6つ紹介します。

(1) 金木<青森県五所川原市>
 太宰治の小説『津軽』は津軽半島を舞台としていますが、その中心金木町には太宰治の生家が太宰治記念館「斜陽館」として残され、資料館となっていて、見学することができます。この建物は、階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の入母屋作りの豪邸で、明治の大地主、津島源右衛門(太宰治の父)の手で1907年(明治40)に建設されたとのことです。材木は、米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、当時のお金で工事費約4万円という大金がかかったそうです。館内には、太宰治が着用していた二重廻し、羽織袴や執筆した初版本、原稿、川端康成、兄文治への書簡など約600点の資料が展示されています。小説『津軽』の中でもこの生家に4泊し、いろいろと書かれています。

 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の叔母がゐる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕つてゐたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』序編 太宰治著より
太宰治の生家「斜陽館」 津軽鉄道金木駅


(2) 浅虫温泉<青森県青森市>
 東北の温泉旅行の途中、下北半島の温泉巡りを終えた後で、浅虫温泉に泊まることにしました。ここは、青森市の奥座敷として知られている温泉で、開湯は平安時代といわれ、20数軒の宿が軒を連ねています。昔は温泉で麻を蒸していたことから「麻蒸」と呼ばれましたが、現在は火難を嫌って、燃えてしまう「麻」を変えて「浅虫」になったとか。海岸沿いに位置し、海釣公園や水族館もあり、夏場も観光客でにぎわっているといいます。かの青森県が生んだ小説家太宰治著の『思い出』という小説の中で、母と末の姉が浅虫温泉で湯治していて、そこに寝泊まりしながら受験勉強をしたことが綴られています。また、小説『津軽』の中にも登場し、浅虫は若き日の忘れられない思い出の地であるとともに、どこかすれているような印象のある温泉地だとも語られています。そんな温泉街に、期待と不安を持って入っていったのですが、目指す宿が見つかりません。温泉街を2度通り過ぎ、やっと人に聞いて、駅裏の方に今日の宿「ホテル萩乃」を発見しました。鉄筋コンクリート4階建て20室のこぢんまりとした和風旅館ですが、女将の応対はとてもていねいで、館内もきれいにしてあります。第一印象の良い宿に、はずれは少ないので、今日は期待できそうな感じがしました。宿のパンフレットをもらったら、浅虫はねぶた発祥の里だと書いてありましたが、学生時代に浅虫のユースホステルに泊まったときのことを思い出しました。ちょうど浅虫のねぶた祭をやっていて、夜同宿者達と出かけ、いっしょにはねた(ねぶたを踊ることをこう呼びます)のです。浴室には、ねぶたをはねている踊り手の壁画があり、無色透明、無味無臭の湯に浸かりながら、昔のことを回想していました。上がってから、ほどなくして部屋での夕食となりましたが、合鴨とほたての鍋、アワビの酢の物、キノコ、新鮮な刺身、茶碗蒸し、そして、デザートにメロンまで出てきて、この宿泊料金にしてはずいぶん豪華です。冷やでお酒を2合ほどたのんで、おいしく飲み食いしました。後は、テレビを見ながら、翌日の旅程を考えて寝てしまいましたが...。

 いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言つてやりたいところでもあらうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言へない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでゐて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであらうか。自分の故郷の温泉であるから、思ひ切つて悪口を言ふのであるが、田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊つた事はないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さいでものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいかといふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思ひ出の温泉地を汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつたといふだけの話なのである。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』序編 太宰治著より


(3) 大鰐温泉<青森県南津軽郡大鰐町>
 弘南鉄道の電車に揺られて、弘前から大鰐に向かいましたが、沿線は一面の銀世界です。大鰐温泉は約800年前に発見されたと伝えられ、江戸時代は津軽藩の湯治場ともなり、藩主も入浴したと聞きます。駅を降りると昼間でもさすがに寒く、一番近い共同湯を教えてもらって、滑らないように気をつけて歩いていきましたが、スキーを積んだ車が次々追い越していきます。平川を相生橋で渡ったところにある共同浴場“若松会館”までは7分ほどで着きました。昔ながらの銭湯のような造りで、地元の浴客が数人入っています。外気で冷やされてきたために、湯が熱く感じられすぐには入れなくて、何杯も掛け湯をしました。地元の人の会話は純粋の津軽弁で何を言っているのかよくわかりません。よく耳を澄ませて聞き取ろうとするのですが、理解できないのです。しかし、そんな会話を聞いていると「あーあ、津軽に来たんだなあ」と旅情をかき立てられるから不思議なものです。厳冬の季節にみちのくの共同湯に浸かっているというのは、とても良いと悦に入りました。上がってから、寒さをこらえて温泉街を一巡りしてみることにしました。近代的な建物もありますが、まだまだ昔ながらの湯治場の風情を残しています。太宰治が小説『津軽』の中で「昔の津 軽人の生活が根強く残っているに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思われぬ。」と書いているように、古来からの湯治が残され、共同湯の周辺には自炊専門の客舎という宿が建っています。外湯も8ヶ所を数え、時間があれば全部巡ってみたいと思いました。スキー場の方には近代的なホテルやペンションもあるとのことで、新旧両面を持った温泉地として発展しているようですが、今の様子を太宰治はどう思うでしょうか?

 津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡つてゐるやうである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにほひが幽かに残つてゐた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行つたが、浅虫ほど鮮明な思ひ出は残つてゐない。けれども、浅虫のかずかずの思ひ出は、鮮やかであると同時に、その思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へないのに較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しい。海と山の差異であらうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のやうに都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがするであらうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まづ、私にとつてたのみの綱である。また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関といふところがあつて、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがつてこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残つてゐるに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思はれぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなほ天守閣をそつくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇つてゐる事である。この弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔ひするなどの事はあるまいと私は思ひ込んでゐたいのである。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』序編 太宰治著より

共同浴場“若松会館”の外観 平川沿いの大鰐温泉街


(4) 弘前城<青森県弘前市>
 ここは、小説『津軽』の序章に登場し、太宰治が高校生の時に城跡から岩木山や城下町を眺望した時の感想を書いていて、とても興味深いのです。この城には、天守(御三階櫓)と三基の三重櫓、五棟の櫓門が残っています。建物はそれほど大きなものでは有りませんが、一の丸、二の丸、三の丸のほぼ全域が公園として残されているのが特徴です。春になると桜の花が咲き誇り、素晴らしいものです。この城は、関東以北では、唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されました。本来は1611年(慶長16)、津軽信枚公が完成させた5層天守が聳えていたのですが、2代信牧公のとき1627年(寛永4)の落雷で焼失しました。現存天守閣の特徴は、見る方向によって姿が異なり、二の丸から見える東面、南面にだけ千鳥破風を飾り、本丸から見える北面、西面は銅扉の連窓としていることです。また、城跡には他に3基の櫓と大手門はじめ5棟の櫓門が残り、国の重要文化財に指定されています。石垣、土塁、堀なども残っていて、往時の状況を彷彿とさせる城跡です。古を感じさせる城跡を訪れて、小説『津軽』の場面を思い浮かべてみるのも良いかと思います。

 あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。とは言つても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持つてゐるから稀代の名城なのだ、といまになつては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、さうして白壁の天守閣が無言で立つてゐるとしたら、その城は必ず天下の名城にちがひない。さうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失ふ事は無いであらうと、ちかごろの言葉で言へば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』序編 太宰治著より
弘前城天守閣 弘前城追手門


(5) 千畳敷海岸<青森県西津軽郡深浦町>
 ここは、1792年(寛政4)の地震で隆起したと伝えられる海岸段丘面で、物珍しがった津軽藩の殿様が、そこに千畳畳を敷かせ大宴会を開いたとされることからこの名が付いたそうです。江戸時代には、殿様専用の避暑地で一般庶民は近づけなかったとのことです。太宰治も小説『津軽』の中で景勝地として書いていますが、辛口の表現になっています。

 木造から、五能線に依つて約三十分くらゐで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と称するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗はれてゐる、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、さうもなるのだらうが、外ヶ浜北端の海浜のやうな異様な物凄さは無く、謂はば全国到るところにある普通の「風景」になつてしまつてゐて、津軽独得の佶屈とでもいふやうな他国の者にとつて特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけてゐるのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまつてゐるのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であつたのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したといふやうな記録もあると言つてゐる。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言ふのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないやうな気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるやうな気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持つてゐない。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』五 西海岸 太宰治著より
千畳敷海岸(青森県深浦町)


(6) 小泊<青森県北津軽郡中泊町>
 太宰治は、小泊村(現在の中泊町小泊)を訪ね、かつて自らの子守りをしてもらった、越野タケを探し当て、運動会が行われていた場所で再開を果たします。小説『津軽』では、それがクライマックスとして描かれていて、とても印象的なのです。現在では、運動会の行われた校庭を見下ろす場所に、小泊村が再会公園を造り、小説「津軽」の像と太宰治文学碑を1989年(平成元)年に建立しました。さらに、再会公園に、小説『津軽』の像に隣接して「小説『津軽』の像記念館」が建設され、1996年(平成8)4月開館しています。館内には、小説「津軽」の誕生から、小説「津軽」のたどった足跡、越野タケと太宰治の年譜、写真、思い出の品をパネルなどで解説し、映像音声コーナーとして、太宰の合成音声、長女園子さんの映像や音声を自由に選択できるコーナーもあります。小説『津軽』の足跡を訪ねるにははずせない施設になっています。

 おなかをおさへながら、とつとと私の先に立つて歩く。また畦道をとほり、砂丘に出て、学校の裏へまはり、運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。
 たけの頬は、やつぱり赤くて、さうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちやんとある。髪には白髪もまじつてゐるが、でも、いま私のわきにきちんと坐つてゐるたけは、私の幼い頃の思ひ出のたけと、少しも変つてゐない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられたのであるが、けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふ事である。そのせゐもあつたのかも知れないが、たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしつかりしてゐる。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。
 ・・・・・・・・

小説『津軽』五 西海岸 太宰治著より
小説「津軽」の像  小説「津軽」の像記念館
太宰治文学碑   再会公園

この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『津軽』(太宰治著)が、新潮文庫<420円>から出版されています。

☆『津軽』関係文学碑・像一覧

所在地 位置 名称 碑文 建立日
青森県外ヶ浜町蟹田小国東 観瀾山公園内  太宰治文学碑 かれは
人を㐂ばせるのが
何よりも
好きであった!

         正義と微笑より  佐藤春夫  
1956年8月6日
青森県外ヶ浜町蟹田  JR蟹田駅  太宰治文学碑  蟹田ってのは風の町だね
 (小説「津軽」の一説)
1988年3月13日
青森県外ヶ浜町三厩龍浜  「龍飛館」付近  太宰治文学碑 ここは本州の袋小路だ。讀者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである。
(小説「津軽」の一説)
1975年10月9日 
青森県中泊町小泊字砂山 再開公園内 太宰治文学碑 たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動會を見て、胸中に一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持のことを言ふのであらうか。…しばらく経つてたけは、まっすぐ運動會を見ながら、肩に波を打たせて深い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。
(小説「津軽」の一説)
1989年10月8日
青森県中泊町小泊字砂山 再開公園内 小説『津軽』の像 1989年10月8日
青森県中泊町小泊字折戸 折戸公園 太宰とたけの再会の道文学碑① 私は小泊港に着いた。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、築港だけは、村に不似合なくらい立派である
(小説「津軽」の一説) 
1999年7月29日
青森県中泊町小泊 ライオン岩展望所広場  太宰とたけの再会の道文学碑②  中古の頃から他国の船舶の出入りがあり、蝦夷通い船が、東風を避ける時には必ずこの港に仮泊する事になつていたという。
(小説「津軽」の一説)  
1999年9月29日
青森県中泊町小泊字小泊  お菓子のきむら隣  太宰とたけの再会の道文学碑③  津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。私の一生は、その人に依って確定されたといってもいいかも知れない。
(小説「津軽」の一説)  
1999年11月22日
青森県中泊町小泊字浜野  診療所跡地  太宰とたけの再会の道文学碑④  「ごめん下さい、ごめん下さい。」「はい。」と奥から返事があつて、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。
(小説「津軽」の一説)  
2000年5月27日
青森県中泊町小泊字砂山  ふれあい運動場 太宰とたけの再会の道文学碑⑤   掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。「修治だ」私は笑つて帽子をとつた、「あらあ」それだけだつた。
(小説「津軽」の一説) 
2000年5月27日
青森県中泊町小泊字砂山  竜神様  太宰とたけの再会の道文学碑⑥   小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ。
(小説「津軽」の一説) 
2000年5月27日
青森県五所川原市金木町芦野 芦野公園内 太宰治文学碑

撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
(太宰が生涯愛したヴェルレーヌの詩)

1965年5月3日
青森県五所川原市金木町芦野 芦野公園内  太宰治像    2009年6月19日
青森県五所川原市金木町朝日山  雲祥寺 太宰治文学碑   
汝を愛し
汝を憎む
            太宰治
 2008年9月5日
青森県弘前市文京町 弘前大学文京町キャンパス 太宰治文学碑 私には、また別の専門科目があるのだ世人は仮にその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追求した。
(小説「津軽」の一説)
2009年6月6日
青森県深浦町北金ヶ沢字榊原 千畳敷 太宰治文学碑 ……木造から、五能線に依って約三十分くらゐで鳴澤、鰺ヶ澤を過ぎ、その邊では津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の餘波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この邊の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海濱に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と稱するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃を見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。この邊の海岸には奇岩削立し、怒涛にその脚を絶えず洗はれてゐる。と、まあ……
(小説「津軽」の一説)
1993年7月30日


☆『津軽』関連リンク集

◇太宰ミュージアム 太宰治についての総合的なWebサイトです。
◇太宰治と歩く現代の「津軽」の旅 青森県東青地域県民局地域連携部発行の冊子で、PDF版です。小説「津軽」の足跡を尋ねて歩くにはうってつけです。
◇Wikipediaの「津軽」(小説) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「津軽」(小説)のページです。
◇青空文庫『津軽』 青空文庫にある『津軽』の図書カードで、このサイトで全文をダウンロードしたり読んだり出来ます。
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