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旅と文学
文学の旅(13) 「大和路・信濃路」堀辰雄著

その藁屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径こみちのかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。 

堀辰雄と軽井沢 『大和路・信濃路』を巡る旅 『大和路・信濃路』を巡る旅八題 探訪マップ 関連リンク集

☆堀辰雄と軽井沢

 堀辰雄と軽井沢との関わりは深く、最初は、第一高校在学中の1923年(大正12)8月に室生犀星と共に来た時ですが、翌年も軽井沢の芥川龍之介のところへ寄っています。その後、東京帝国大学文学部国文科に入学しますが、重い肋膜炎を患い、3ヶ月ほど休学、湯河原で静養し、その後10日ほど軽井沢へ行きました。卒業後は、1930年(昭和5)の7、8月と二度軽井沢に滞在、11月に『聖家族』を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けることになります。しかし、喀血をして自宅療養したものの、病状が好転せず、3ヶ月間、長野県の富士見高原療養所に入院しました。退院後も8月中旬から10月上旬まで軽井沢に滞在して療養しています。その後、矢野綾子と婚約しましたが、信濃追分の油屋旅館に逗留して執筆していた時期もあります。しかし、綾子は結核のために富士見高原療養所で、1935年(昭和10)に死去し、その体験が、代表作である小説『風立ちぬ』のモチーフとなったと言われています。昭和10年代以降は、病気療養をしながらも、執筆活動を続け、1938年(昭和13)には加藤多恵と結婚し、軽井沢に別荘を借りて新居にしました。のちに逗子や鎌倉などを転々としますが、太平洋戦争末期に信州信濃追分に疎開、その地で療養を続けたものの、 1953年(昭和28)に48歳で亡くなります。現在、ゆかりの地である信濃追分に「堀辰雄文学記念館」が開設されています。

☆『大和路・信濃路』の旅

 堀辰雄は、折口信夫から日本の古典文学について教えを受け、王朝文学を題材にした『かげろふの日記』を執筆しましたが、その頃から日本の古代に対する思いを深め、1937年(昭和12)6月から1943年(昭和18)5月にかけて計6回奈良を訪れています。それらの旅行を随筆的にまとめたものを雑誌『婦人公論』に1943年(昭和18)1月から8月まで『大和路・信濃路』として連載しました。それに「樹下」を加え、戦後の1946年(昭和21)に、単行本『花あしび』の中に収録されて刊行されたのです。堀辰雄が大和路や信濃路を歩いた時の感動が伝わってくるような文章で、これを携行して旅した人も少なくないと思われます。

☆『大和路・信濃路』を巡る旅八題

 私は、今までに、『大和路・信濃時』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で心に残った所を8つ紹介します。

(1) 秋篠寺<奈良県奈良市>
 奈良県奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置し、本尊が薬師如来(国指定重要文化財)、開基(創立者)は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされていますが、山号はありません。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もありますが、現在は単立で、伎芸天立像(国指定重要文化財)と鎌倉時代建立の本堂(国宝)で知られています。伎芸天立像(像高206.0cm)は、頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造で、体部は鎌倉時代の木造による補作ですが、よく調和がとれていて、優雅な身のこなしと瞑想的な表情が魅力的で、多くのファンがいます。堀辰雄もこの伎芸天立像に惹かれたようで、感慨深げに述べています。

 午後、秋篠寺にて

 いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。い髪をし、おおどかな御顔だけすっかりにおけになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。
 ・・・・・・・・

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
秋篠寺本堂 秋篠寺南門


(2) 薬師寺<奈良県奈良市>
 飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地に移転されました。南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。堀辰雄が訪れた時は、伽藍も整っておらず、東塔に惹かれて、相輪の水煙に興味を持ったようですが、天女の姿を見ることができたのでしょうか.....。

 ……
 裏山のかげになって、もうここいらだけ真先きに日がかげっている。薬師寺の方へ向ってゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたっている。
 荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪を見上げて、その水煙のなかにかしになって一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。
 それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日にかがやいていた。
 ……

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
薬師寺東塔 薬師寺東塔の水煙


(3) 唐招提寺<奈良県奈良市>
 鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑仁の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。 堀辰雄も何度か足を運んでいるようで、円柱のエンタシスに興味を抱き、感慨深げに印象を語っています。

 もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どおりし、南大門も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら気もちよげに流れている小川にじいっと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。
 それから僕は、東の方、そこいら一帯の田圃ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたっているのが、手にとるように見えるところまで歩いて往ってみた。
 僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考え出しながら、すこし気がいで秋篠川にそうて歩いていたが、急に首をふってそんな考えを払い落し、せっかくこちらに来ていて随分ばかばかしい事だと思いながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくそのしの円柱のかげを歩きまわっていた。それからちょっとその扉の前に立って、このまえ来たときはじめて気がついたいくつかの美しい花文を夕暗のなかに捜して見た。最初はただそこいらが数箇所、何かがげてでもしまった跡のような工合にしか見えないでいたが、じいっと見ているうちに、自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位のかさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。……
 それだけでも僕はよかった。何もしないで、いま、ここにこうしているだけでも、僕は大へん好い事をしているような気がした。だが、こうしている事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまう僕たち人間にとって、いつまでも好いことではあり得ないことも分かっていた。
 僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部にんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
 僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それをいでみた。日なたの匂いまでもそこにはかに残っていた。……
 僕はそうやって何んだか気の遠くなるような数分を過ごしていたが、もうすっかり日が暮れてしまったのに気がつくと、ようやっと金堂から下りた。そうして僕はその、自分の何処かにまだ感ぜられている異様な温かみと匂いを何か貴重なもののようにかかえながら、既に真っ暗になりだしている唐招提寺の門を、いかにもさりげない様子をして立ち出でた。

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
唐招提寺金堂 唐招提寺講堂


(4) 東大寺<奈良県奈良市>
 聖武天皇の命により、奈良時代に創建された寺で、盧舎那仏(奈良の大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂(三月堂)などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂(三月堂)の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。堀辰雄は、特に法華堂(三月堂)の月光菩薩像に魅せられたようで、慈悲深さを印象的に綴っています。

 
三月堂の金堂にて
 月光菩薩像がっこうぼさつぞう。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んといういつくしみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹いちまつの哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
 一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
東大寺法華堂(三月堂) 月光菩薩像


(5) 法隆寺<奈良県生駒郡斑鳩町>
 飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院です。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされています。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、38件もの国宝と151件の国の重要文化財があるのです。また、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。堀辰雄は、金堂壁画の模写事業を見学し、とても興味を持ったようで、その印象を綴っています。

 
十月二十四日、夕方
 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえずしげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしている蓮華に見入っていると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。
 僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんのの上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかりげている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりそのに模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いているうちに一と月ぐらいはいつのまにか立ってしまうこともあるという。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは絵筆を動かしている。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼をいって、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をこうやって必死になってその儘に残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
法隆寺中門と五重塔 法隆寺金堂


(6) 菖蒲池古墳<奈良県橿原市>
 奈良県橿原市の南東部、明日香村との境界に近い尾根筋南斜面に位置する古墳で、飛鳥時代の7世紀中頃に築造されたと考えられています。藤原京中軸線の南延長上に、天武・持統天皇陵と同じようにに位置することから皇族が被葬者と思われ、2基の家形石棺が特異なことなどから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定されました。また、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになったのです。 墳丘は、封土の流出や後世の改変によって、横穴式石室の天井が露出していますが、玄室内には南北に2基の凝灰岩製家形石棺を安置されていました。現在は、石室前面の覆屋と扉を設置するなどの整備が行われ、玄室内は柵越しですが、石棺を見学することが可能です。堀辰雄も2回は訪れているようで、古代人の埋葬について興味を持ち、多くを語っています。

古墳

 ……
 そうです、そのときはまず畝傍山の松林の中を歩きまわり、久米寺に出、それからや五条野などの古びた村を過ぎ、小さな池(それが菖蒲池か)のあった丘のうえの林の中を無理に抜けて、その南側の中腹にある古墳のほうへ出たのでしたね。――古代の遺物である、筋のいい古墳というものを見たのは僕にはそれがはじめてでした。丘の中腹に大きな石で囲った深い横穴があり、無慙にもこわされた入口(いまは金網がはってある……)からのぞいてみると、その奥の方に石棺らしいものが二つ並んで見えていました。その石棺もひどく荒らされていて、奥の方のにはまだ石のがどうやら原形を留めたまま残っていますが、手前にある方は蓋など見るかげもなくされていました。
 この古墳のように、夫婦をともに葬ったのか、一つの石廓のなかに二つの石棺を並べてあるのは比較的に珍らしいこと、すっかり荒らされている現在の状態でも分かるように、これらの石棺はかなり精妙に古代の家屋を模してつくられているが、それはずっと後期になって現われた様式であること、それからこの石棺の内部は乾漆になっていたこと、そして一めんに朱で塗られてあったと見え、いまでもまだところどころに朱の色が鮮やかに残っているそうであること、――そういう細かいことまでよく調べて来たものだと君の説明を聞いて僕は感心しながらも、さりげなさそうな顔つきをしてその中をのぞいていました。その玄室の奥ぶかくから漂ってくる一種の湿め湿めとした気とともに、原始人らしい死の観念がそのあたりからいまだに消え失せずにいるようで、僕はだんだん異様な身ぶるいさえ感じ出していました。――やっとその古墳のそばを離れて、その草ふかい丘をずんずん下りてゆくと、すぐもう麦畑の向うに、橘寺のほうに往くらしい白い道がまぶしいほど日にかがやきながら見え出しました。僕たちはそれからしばらく黙りあって、その道を橘寺のほうへ歩いてゆきました。……
 そうやって君と一しょにはじめて見たその菖蒲池古墳、――そのときはなんだかんだ、古墳らしい印象を受けただけのように思っていましたが、だんだん月日が立って何かの折にそれを思い出したりしているうちに、そのいかにもさりげなさそうに一ぺん見たきりの古墳が、どういうものか、僕の心のうちにいつも一つの場所を占めているようになって来ました。――いわば、それは僕にとっては古代人の死に対する観念をひとつの形象にして表わしてくれているようなところがあるのでありましょう。いつごろからそういう古代人の死の考えかたなどに僕が心を潜めるようになったかと云いますと、それは万葉集などをひらいて見るごとに、そこにいくつとなく見出される挽歌の云うに云われない美しさに胸をしめつけられることの多いがためでした。このごろようやくそういう挽歌の美しさがどういうところから来ているかが分かりかけて来たような気がします。
 先ず、古代人の死に対する考えかたを知るために、あの菖蒲池古墳についてかんがえて見ます。あの古墳に見られるごとき古代の家屋をいかにも真似たような石棺様式、――それはそのなかに安置せらるべき死者が、死後もなおずっとそこで生前とほとんど同様の生活をいとなむものと考えた原始的な他界信仰のあらわれ、或いはその信仰の継続でありましょう。しかし、僕たちが見たその古墳のように、その切妻形の屋根といい、浅く彫上げてある柱といい、いかにもその家屋の真似が精妙になってきだすのと前後して、突然、そういう立派な古墳というものがこの世から姿を消してしまうことになったのです。これはなかなか面白い現象のようです。勿論、それには他からの原因もいろいろあったでしょう。だが、そういう現象を内面的に考えてみても考えられないことはない。つまり、そういう精妙な古墳をつくるほど頭脳の進んで来た古代人は、それと同時にまた、もはや前代の人々のもっていたような素朴な他界信仰からも完全にぬけ出してきたのです。――一方、火葬や風葬などというものが流行ってきて、彼等のあいだには死というものに対する考えかたがぐっと変って来ました。それがどういう段階をなして変っていったかということが、万葉集などを見ているとよく分かるような気もちがします。……

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
菖蒲池古墳の石標 菖蒲池古墳の石棺


(7) 野辺山駅<長野県南佐久郡南牧村>
 JR小海線の長野県の南端に位置する駅で、標高が1,345.67mで、JRグループの駅及び日本の普通鉄道の駅としては日本最高所に位置しています。隣りの清里駅間には、JRグループの最高標高地点 (1,375m) があり、高原ムードの漂う場所なのです。現在では、夏の避暑地となり、別荘なども建っていて、観光客も多いのですが、堀辰雄が訪れた時代は、そんな状況ではなく、狩猟に来た人々の様子を描写しています。

 やがて、野辺山駅に着いた。白い、小さな、瀟洒とした建物で――いや、もうそんなことはどうでもいいことにしよう。――それよりか、僕はその小さな駅に下りかけて、横書きの「野辺山」という三文字が目に飛びこんできた途端に、なにかおもわずはっとした。いままではさほどにも思っていなかった「野辺山」という土地の名がいかにも美しい。まあ何んという素樸そぼくな呼びかたで、いい味があるのだろう。そうして此処まで来て、その三文字をなにげなく口にするとき、はじめてそのいい味の分かるような、それほどこの土地の一部になりきってしまっている純粋な名なんだなとおもった。……
 その高原の駅に下りたのは僕たちのほかには、二人づれの猟師が一組あるきり。――その猟師たちは駅員と一しょになってに入れられてきた猟犬をとり出しにかかっていた。
 そこで僕たちは二人きりで駅のそとに出たが、其処はいちめんの泥濘だった。駅の附近には、一棟の舎宅らしいもののほか、二軒ばかり休み茶屋みたいなものがあったが、どちらも戸を閉ざしていた、――そんなところで一休みして、簡単に腹でもこしらえながら、それからどこをどう歩くか考えてみるつもりだった。そこへいってみれば、大体どうすればいいかがひとりでに分かってくるだろう位に、僕はいつもの流儀で高をっていた。
 だが、すぐ目のさきに赤岳だの横岳だのがけざやかに見えていながら、この泥濘の道ではどうしようもない。せっかくの野辺山が原もいい気もちになって歩きまわるわけにゆきそうもない。それに、もうひる近い。なんとか腹をこしらえないことには。……
「あそこに何か為事しごとをしている人たちが見えるな。あの人たちに訊いたら、すこしはこのへんの様子が分かるかもしれない。」
 僕はM君にそう言い、ひどい泥濘の中にはいり込まないように、道のへりのほうを歩きながら、旧街道らしいものの傍らで、二人の法被はっぴすがたの男がせっせと為事をしている方へ近づいていった。
 が、だんだんそっちへ近づいていって見ると、その男たちが何か荒ら荒らしい手つきで皮をいているのは兎であるのが分かってきた。そうしてまだ生ま生ましいような皮がいくつももう板に拡げて張りつけられてあるのが見え、皮をがされた肉の塊りが道ばたまでころがり出していた。
「こいつはかなわないや。一番の苦が手だ。もう一ぺん駅までひっかえして、いてみよう。」

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
現在の野辺山駅 JR最高地点付近の風景


(8) 浄瑠璃寺<京都府木津川市>
 京都府木津川市にある真言律宗の寺院で、本尊は九体阿弥陀如来(国宝)と薬師如来(国指定重要文化財)で、1047年(永承2)に義明上人により開基されたと伝えられています。平安時代後期建立の本堂と三重塔(いずれも国宝)が残り、平安時代の寺院の雰囲気を今に伝えているのです。緑豊かな境内は、梵字の阿字をかたどった池を中心にした浄土式庭園で、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した極楽世界を表現しているとのことです。とても貴重なものなので、1985年(昭和60)に国の特別名勝になっています。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』は、名文として知られ、教科書にも掲載され、知るところの多い一文です。

浄瑠璃寺の春

 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へいたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりをったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔のついた九輪だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥のきごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」
「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。

随筆『大和路・信濃路』 堀辰雄著より
浄瑠璃寺本堂 浄瑠璃寺庭園と三重塔
「大和路・信濃路」探訪マップ

この作品を読んでみたい方は、簡単に手に入るものとして、現在、『大和路・信濃路』が、新潮文庫<432円>から出版されています。


☆『大和路・信濃路』関連リンク集

堀辰雄文学記念館 堀辰雄文学記念館(長野県軽井沢町)の公式ホームページです。
◇奈良市観光協会 奈良市観光協会の公式ホームページで、奈良市内の寺社巡りに便利です。
◇青空文庫『大和路・信濃路』 青空文庫にある『大和路・信濃路』の図書カードで、このサイトで全文をダウンロードしたり読んだり出来ます。
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