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旅と文学
文学の旅(7) 「五足の靴」与謝野鉄幹他4名著

五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。彼等は面の皮も厚く無い、大胆でも無い。而も彼等をして少しく重味あり大量あるが如く見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい『五足の靴』の御陰だ。 

『明星』に拠った人々 『五足の靴』の旅 旅のコース 旅の行程
『五足の靴』を巡る旅十題 旅のメンバー 関係文学碑一覧 関連リンク集

『明星』に拠った若き詩人や歌人たち 

 詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』は、明治時代後期の1900年(明治33)、与謝野寛(鉄幹)の主宰する、新詩社の機関誌として創刊されました。ロマンチシズムを鼓舞して、短歌の革新に貢献したとされています。同人で、この雑誌に拠って活躍したのが若き北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里でした。鉄幹が、まだ学生だった4人を率いて、長期旅行したのが、『五足の靴』の旅で、その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われています。白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。

『五足の靴』の旅

 『五足の靴』は、1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32㎞を徒歩で行く部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せています。尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。

『五足の靴』の旅コース

「五足の靴」の旅コース
1907年(明治40)夏の「五足の靴」の旅
7月28日
 東京を夜行列車で出発
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 車中泊
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7月29日
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 車中泊
   ↓
7月30日
 朝4時半、宮島駅に着き渡船場へ
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 厳島を見学する
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 亀山八幡宮から関門海峡を見る
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 下関「旅館川卯」泊
   ↓
7月31日
 汽車で福岡へ向かう
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 夜、福岡県文学会が催される
   ↓
 福岡「川丈旅館」泊
   ↓
8月1日
 汽車で奈多へ向かう
   ↓
 千代の松原で海水浴
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 柳川へ向かう
   ↓
 柳川「北原白秋宅」泊
   ↓
8月2日
 白州生家の酒蔵を見学する
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 柳川「北原白秋宅」泊
   ↓
8月3日
 雨中、佐賀へ向かい途中から鉄道馬車乗車
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 14時佐賀へ着き、佐賀城跡を一周する
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 佐賀泊
   ↓
8月4日

 鉄道馬車で唐津へ向かう
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 虹ノ松原を散策
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 唐津での文芸会へおもむく
   ↓
 唐津「博多屋」泊
   ↓

8月5日
 汽車で佐世保へ向かう
   ↓
 平戸行き汽船に乗り遅れ、宿泊することに
   ↓
 佐世保「京屋旅館」泊
   ↓
8月6日
 朝10時、佐世保港から平戸行き汽船乗船
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 14時平戸着、下島氏を訪問
   ↓
 亀岡神社、阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸等見学
   ↓
 「米屋」で夕食休憩、夜半の汽船で佐世保へ
   ↓
 佐世保泊
   ↓
8月7日
 汽車で長崎へ向かう
   ↓
 長崎「上野屋旅館」泊 
   ↓
8月8日
 長崎から乗合馬車で茂木へ向かう
   ↓
 茂木港を11時出船、富岡港13時着
   ↓
 富岡泊
   ↓
8月9日
 大江まで約32㎞を徒歩で出発
   ↓
 海沿いの悪路を行き、下津深江で昼食
   ↓
 大江「高砂屋」泊
   ↓
8月10日 
 大江天主堂にガルニエ神父を訪ねる
   ↓
 14時の汽船で牛深港へ向かう
   ↓
 崎津、魚貫に寄港し、16時牛深港へ
   ↓
 牛深「今津屋」泊
   ↓
8月11日
 早朝3時、大門経由際崎行き汽船乗船
   ↓
 際崎港に14時着、三角港まで歩く
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 三角港17時発の汽船で島原港へ
   ↓
 島原泊
   ↓
8月12日
 島原城跡で、キリシタンの歴史を偲ぶ
   ↓
 12時に汽船で長洲港へ向かう
   ↓
 長洲駅から汽車に乗り上熊本駅下車
   ↓
 熊本「研屋旅館支店」泊
   ↓
8月13日

 馬車で阿蘇を目指し、大津で昼食
   ↓
 栃の木過ぎて下車し、徒歩で垂玉へ
   ↓
 垂玉温泉「山口旅館」泊
   ↓
8月14日
 阿蘇中岳登山し、火口を見学する
   ↓
 下山途中案内人が道を間違え迷う
   ↓
 栃木温泉「小山旅館」泊
   ↓
8月15日
 馬車で熊本市内へ戻る
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 水前寺畔の画津湖で、船遊び
   ↓
 熊本「研屋旅館支店」泊
8月16日

 汽車で三池へ向かい三池炭坑見学
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 柳川「北原白秋宅」泊
   ↓
8月17日
 柳川で船下りなどして遊ぶ
   ↓
 柳川「北原白秋宅」泊
   ↓
8月18日
 白州を残し、汽車で九州を出る
   ↓
 徳山「徳応寺」泊
   ↓
8月19日
 汽車で京都へ向かう
   ↓
 京都「お愛さん」泊
   ↓

☆『五足の靴』を巡る旅十題

 私は、学生時代から『五足の靴』を巡る旅に何度か出ていますが、その中で特に心に残った所を10ヶ所、順に紹介します。

(1) 厳島神社<広島県廿日市市>
 「五足の靴」の一行は、夜行列車で朝四時半に宮島駅に着き、汽船で厳島に渡りました。厳島神社に詣で、島内を散策してから、宮島駅へ戻り、その日の内に汽車で下関へ向かっています。この厳島神社は、平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。平家一門の権勢最盛期を象徴する建造物で、平家の栄華の一端を見る思いがします。有名な、舞楽が始まったのもこの時代からといわれています。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるように見えるのです。全国に約500社ある厳島神社の総本社で、ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。また、ここに収められている「平家納経」は1164年(長寛2)厳島神社に平清盛が奉納した全32巻の経典で、それに清盛の願文を加えた33巻が完在し、国宝となっています。それらは、宝物館で見ることができます。

 (1) 厳島

 安芸の宮島駅へ着いたのは、午前四時半、まだ日が上がらぬ。直ぐ船の乗場へ出る。水盤のように平かな海峡だ。紺青色の島に藍色の霧が流れる、空にも水にも流れる。下ノ関丸は五六十噸ばかりの綺麗な汽船だ。吼えるように汽笛を鳴らして錨を抜く。十五分間で厳島に着いた。まだ静かに眠っている山裾に島の人は既に起きている。霧に濡れた朱塗の大廊下を履のままで歩むのは好い心持だ。潮の退いているのは少し口惜しい。拝殿に立塞がって拝む。赤地の錦の旗をつけた矛や、箙にさした矢や、大弓やが両側に飾ってある。御簾は新しいのが明るく、燈籠は物寂びたのが奥ゆかしい。誰かが平家の話を仕出す、重盛が参籠したのはまだ三日以前の事に過ぎぬ、この三日の間に平家も滅び源氏も滅び、北条、足利、徳川も滅び、而して僕らが今日ここに来たのだと思う。社殿の後ろから紅葉谷に上る。霧は益々深い。岩惣の二階座敷は戸を明け放して、蚊帳越しにまだ幾組かの避暑客が寝ている。蚊帳の萌黄色が山の朝景色に調和して涼しい。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
厳島神社の鳥居 厳島神社の客社祓殿


(2) 北原白秋記念館<福岡県柳川市>
 北原白秋の生家が復元され、記念館となっていますが、一行はこの旅で、二度訪れて泊まっています。白秋の父の代には、柳川地方でも有力な造り酒屋で、当時の北原家屋敷は、一町三反という広大な敷地を有し、母屋との間には、流れのきれいな掘割りがあったとのことです。しかし、1901年(明治34)の沖端大火災で大半を焼失してしまいました。その後、1969年(昭和44)に復元され、1989年(平成元)には母屋に附属していた隠居部屋も復元され、公開されています。現在、この生家内には白秋の著書や遺品、さらには柳川の風物にゆかりの深い資料が数多く展示されています。 偉大な詩人白秋の業績とその交友関係を知る上では貴重な施設で、なまこ壁の建物が美しく、川下りと共に楽しむと情緒が増します。また、川下り乗船場にある「松月文人館」の敷地内に五足の靴ゆかりの碑が立てられています。

 (5) 潮

 築後の柳河まで来た。海を控えて水田と川との多い土地だ。北原氏に宿る。即ち我らが一人なるH生の家だ。H生の一家は東京から客人を連れて長男が帰るというので、室内の装飾やら、寝具の新調やら、非常の騒ぎをして款待準備が頗る整頓して居る。それで我らに面会のため他郡から出掛けて泊り込む者もあるので、台所では、祭礼の日のような混雑だ。裏の幾十間と続く酒蔵では、多くの倉男が眠たげな調子で唄いながら、渋を採るため青柿を呑気に臼で舂く。宛ら母屋の騒ぎとは別世界だ。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
北原白秋記念館(福岡県柳川市) 五足の靴ゆかりの碑(福岡県柳川市)


(3) 唐津<佐賀県唐津市>
 一行は、佐賀から唐津に来て、近松寺での文芸同好会に出席し、その後、鏡山(領巾振山)に登り、万葉の佐用姫に思いを馳せ、虹ノ松原散策しています。夜に、唐津の刀町の「中住屋」での懇親会に参加し、唐津駅前の「博多屋」に泊まりました。一行が泊まった「博多屋」はもうありませんが、近くの駅前広場に、木下杢太郎の詩「はためき」を刻んだ五足の靴文学碑が立っています。また、鏡山に登れば一行と同じように佐用姫を偲ぶこともできると思います。

 (7) 領巾振山

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松原を突切ると領巾振山が見える。さほど高くない平い山である。天平の頃山上憶良が肥前の国司として不平で堪らず、この辺をぶらぶら歩いたのだと思うと非常に面白い。迂廻して山の背面から登る。午後四時頃の日が斜にかんと照りつける。喘ぎ喘ぎ急阪を登ること暫くにして顧れば眼界頓に開け松浦川の流が絹のように光る。前には領巾振山が緑の肌に衣も掩わず横わり伏す。最も左峰の山頂に松が見える、そこで佐用姫が領巾を振ったのである。まだまだ高い。少して再び登る。薄紫の撫子がすくすく咲いていてそのかみの美わしき少女を忍べとという。優しいことである。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
JR唐津駅前の五足の靴文学碑(佐賀県唐津市) JR唐津駅(佐賀県唐津市)


(4) 佐世保<長崎県佐世保市>
 一行は唐津を朝に立って、呼子、名護屋を経由して佐世保駅へ降り立ちましたが、平戸行きの船が出た後だったので、下京町の「京屋旅館」に泊まることになります。そして、夕方街を散策し、夜店の風景に興味を持って、与謝野鉄幹が即興で詩を作ったのです。現在では、一行が泊まった旧京屋旅館前の下京町京町児童公園内に五足の靴文学碑が立ち、一行が訪れた夜店があった夜店公園内に、与謝野鉄幹の「夜店の詩」を刻んだ五足の靴文学碑があります。

 (8) 佐世保

 汽車から降りた五人は、予期に反して、この街の汚いのと淋しいのに驚きながら、平戸行きの汽船を尋ねて、海岸の方へ足を運んだ。石の橋を渡って直ぐの回漕店で聞いて見ると、若い者は港の彼方を眺めて、『ああ、最早出てしまいました。』という。五人は仕方なしに、明日の船を待って宿屋に投じた。
 佐世保は思いの外不格好な街である。一点ぽったりと落ちた墨が、次第に左右に広がって行くように、一軒の家が次第に膨らんで往ってこの街を形造ったのであろう、ただ徒らに細長い、真直な大通が一筋、拳骨のように中央に横わって、肋骨とばかりの数多の横町を走らせている。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
旧京屋旅館前の五足の靴文学碑(長崎県佐世保市) 夜店公園内の五足の靴文学碑(長崎県佐世保市)


(5) 平戸<長崎県平戸市>
 一行は佐世保より汽船で午後2時頃港に入り、下島氏を訪問し、その案内で港町を散策しています。亀岡神社、阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、阿蘭陀灯台などを見て夜半には佐世保行きの汽船に乗りました。ここは、1641年(寛永18)に長崎の出島に移るまで、オランダ商館のあった所で、今でも異国情緒の残る町並みです。

 (9) 平戸

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 下島氏に嚮導せられて亀岡神社に登った。鯨の骨だというものがあったが、別に意を引くに足るものではない。それから「阿蘭陀塀」というものを見た。当時の蘭人が築いたものだそうだ。礎石をセメントで繋いだというが、どうも漆喰らしいとその道に深いB生が言った。漆喰だとすると、三百年後の今、多少吟味する価値があるそうだ。それからまた阿蘭陀井戸だの、阿蘭陀燈台だのを見た。後者は海に突き出た一角に昔築いた石垣が乱れているばかりだけれどもこれの夕陽が燦然とあたる時には、大いに画家の眼を喜ばしむるに足るものがある。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
復興された現在の平戸城(長崎県平戸市) 平戸の異国情緒の残る町並み(長崎県平戸市)


(6) 五足の靴文学遊歩道<熊本県天草市>
 一行は、富岡を朝立って、大江まで約32㎞を徒歩で歩きました。海沿いの悪路を行き、下津深江(現在の下田温泉付近)で昼食休憩を取り、道に迷いながらも夜中に大江にたどり着きました。海の眺望は良かったようですが、苦労した様子が「五足の靴」に描かれています。現在では、一行が歩いた道の一部が、五足の靴文学遊歩道として整備されています。下田温泉から南の方へ下田南まで3.2kmの間で、途中には、数箇所の展望所(休憩所)がありますが、山道なので全行程歩くと2時間近くかかります。天草町下田温泉の海岸道路と本渡への県道24号線との三叉路に駐車場あがり、その脇に「五足の靴」記念碑が立っています。これには、「五足の靴」研究家の濱名志松先生の短歌「寛白秋 勇杢太郎 萬里らが たどりし径ぞ 五足の靴で」が刻まれています。

 (11) 蛇と蟇

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 暫く行くと道は山へ登る、羊歯が青々と一面に繁って暖き南の国の香を送る。脚下の白い波をたどると水平線が大分高まって居る。杉の木立が黒ずんで山麓を飾る、その間から紺碧の海が見え、涼しい風が吹く。汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す、勝は常に喉に帰した。山の方が道は楽である。峠を越す事二つ三つにして下津深江といふ湯の出る港へ着いた。午後二時。先着のK生M生が待って居た。農事講習会の災する処となって茶屋も宿屋も断られ、大いに困って此処へ頼んだといふ、瀟洒なる物売る家の二階に通る。老主人来る、頗る慇懃である。一体この辺の言葉はとんと素人には分らぬ、それかあらぬか、老人は気を利かして一切土語を語らぬ。「君達は」と口を開いた、これは最上の敬称代名詞の積りと見える。「いづ方へ参られまするか。」又言ふ「道は甚だ険道でありまするとは雖も。」又言ふ「必ず似て参られまする、は、は。」その代わりよく分った。梅干しも奈良漬も皆甘かった。一睡して、大江迄もう四里、訳はないと、三時を過ぐる幾分に出かけた。

紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
五足の靴文学遊歩道(熊本県天草市) 「五足の靴」記念碑(熊本県天草市)


(7) 大江天主堂<熊本県天草市>
 紀行文全体のクライマックスで、大江天主堂は建て変わりましたが丘の上にそびえ、周辺には、一行が訪ねたガルニエ神父の墓や胸像が建てられています。天主堂の脇には吉井勇の歌碑があり、この旅を回想して、「白州とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿」と刻まれています。現在では、天主堂に隣接して「天草ロザリオ館」が建てられ、天草の苦難に満ちたキリシタンの歴史を学ぶことができると共に「五足の靴」についての展示もあります。この前には、平野万里の歌碑や木下杢太郎の詩碑もあります。

 (13) 大江村

 昨日の疲労で今朝は飽くまで寝て、夫れから此地の天主教会を訪ねに出掛けた。所謂「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此村にゐるさうで天草言葉が却々巧い。茂助善か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇ろに勧められた。又予等が乞ふに任せて、昔の信徒が秘蔵した聖像を彫むだ小形のメダル、十字架の類を見せて呉れた。夫れに附いてゐた説明の札には、「このさんたくるすは、三百年まへより大江村のきりしたんのうちに、忍びかくして守りつたへたる貴きみくるすなり。これは野中に見出でたり。」云々と書いてあった。此種類のものは上野の博物館にあったやうに覚えてゐるが、却々面白い意匠のものがある。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
大江天主堂(熊本県天草市) ガルニエ神父の胸像(熊本県天草市)
大江天主堂前の五足の靴関係碑(熊本県天草市)   天草ロザリオ館(熊本県天草市)


(8) 島原城跡<長崎県島原市>
 1637~38年の天草の乱で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦い、一揆勢が全滅しました。乱の頃の城主は松倉氏で、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への酷税があり、やむにやまれず民衆が立ち上がったものでした。一行はこの旅の目的の一つでもある重要なキリシタン史遺跡として、その歴史を偲んでいます。現在は、本丸跡に五重の天守閣が再建され、有明海の眺望がすばらしいのですが、当時は石垣と堀が残されているだけでした。一揆勢の首領天草四郎時貞がここで最期を遂げたかのように書かれていますが、それは、もっと南の南有馬町にある原城跡の間違いで、原城跡には、現在、天草四郎の像が立っています。

 (15) 有馬城跡

 翌日朝飯を終へてから有馬城の故趾を観にゆく。島原の市街は存外に大きく、較都会の観を呈している。街の両側には清水が流れて川底が見え透く程澄んでゐるが、之が飲料水だと聞くと折角の快感が害はれる。川の中、店の前、車の上、全町到る所に西瓜の多いのには驚かざるを得ぬ。
 有馬城は可也大きかつたらしい。旧記には原城、丙城の二箇所に分れてゐたやうに書いてある。今城跡は荒れて悉く桑畑に成つてゐる。畠の中には随所に石垣が残つて、例の不恰好な中学校、小学校、監獄分監などが其間に立つてゐる。城の石垣には一面に灌木が生ひ繁つて、濠には蓮の花が藤色の台湾藻の花と雑つてゐる。多くは水涸れて里芋が植ゑてある。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹他著より
再建された現在の島原城跡(長崎県島原市)


(9) 垂玉温泉<熊本県阿蘇郡南阿蘇村>
 一行は、1907年(明治40)8月14日に阿蘇登山の道すがら、ここに宿泊したのです。熊本から馬車で長時間揺られ、外輪山をくぐって、栃木温泉の辺りからは徒歩で1里余り山道を登ってきたとあります。その山中に石垣を積み重ね、城塞のように築かれた「山口旅館」に一行は、感嘆の声を上げたのです。私も、この旅館に宿泊したくて電話を入れたのですが、連休前で部屋は空いていないとのことで、やむなく、日帰り入浴する事にしました。玄関で案内を乞い、入浴料を払って聞くと、混浴露天風呂「滝の湯」、茅葺きの男女別露天風呂「かじかの湯」、そして男女別の内湯「天の湯」と3ヶ所の湯が楽しめるとのことでした。まずは、「滝の湯」からと旅館前の赤い橋を渡ろうとすると眼前に見事な二筋の滝が渓谷に落ち込み、その一つの滝壺付近に「滝の湯」が見えました。これはすごいロケーションだと、楽しみにして露天風呂へと急ぎました。脱衣場は男女別に分かれ、石段を下って、一つの岩風呂へと続いています。その前に、金龍の滝が轟々と音を立てて流下していて、ものすごい迫力です。先客は、男性の外人客一人、あまりの迫力に裸で岩を登って、その勇姿に見とれています。私は、清掃後のためか、湯量が少ない中、寝そべって体を浸しながら、目をつむって滝音を楽しんだり、岩を登って目でその迫真力を確かめたりと、じっくり露天風呂を楽しみました。上がってからは、再び旅館に戻り、内湯の「天の湯」へ、ここも窓越しの眺望が良く、暖まって体を洗いました。その後は、茅葺き屋根のある露天風呂「かじかの湯」へ、木造りの湯船は肌触りが良く、硫黄泉が心地よく体に染み、かやぶき屋根ともマッチしてなかなかの風情です。のんびり入っていたかったのですが、3度目の湯で、体も少々ふやけ気味、適当なところで切り上げて、旅館を後にしました。『五足の靴』一行もたいへん気に入ったようですが、私も満足し、この次はぜひ宿泊して楽しみたいと思って、山を下っていきました。

 (18) 阿蘇登山

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くるりと道が廻ると、忽然として山塞が顕れた、あれは何だ、あれが湯ですと小い女がぷつきらぼうにいふ。後に滝の音面白き山を負ひ、右に切つ立ての岡を控へ左の谷川を流し、前はからりと明るく群山を見下し、遙に有明の海が水平線に光る。高く堅固な石垣の具合、黒く厳しい山門の様子、古めいた家の作り、辺の要害といひ如何見ても城廓である、天が下を震はせた昔の豪族の本陣らしい所に、一味の優しさを加へた趣がある。これが垂玉の湯である、名もいゝが、実に大に気に入つた。石の階段を登り、大手の門を潜ると、正面に二階建の長い御長屋がある。絵に見る遊廓の様で、唯古色蒼然たるを異にしてゐる。左右に鶴翼を張つて、同じく二階建の楼閣がある。山を切つて広く平にならした運動場の様な庭も面白い。一体に規模の大きいのが気持がいい。湯も亦極めて大きい、三条の滝となつて石もて畳める湯漕に落ちる、色は無いが、細く白い澱が魚の子の様に全体に浮遊して居る。硫化水素の臭ひが鼻を刺す。一浴して廊に出づれは、そこら灰だらけである、踏むとざらざらする。むくむくと火口を出で一度空を渡つて落ちて来た地心の砕けであると思ふと、気持の悪い中にも唯の埃と違つて面白い処がある。遠く海に沈みゆく夕日を眺め、更に眼を転ずれは大空を筋違に灰色の烟が通る、新月が出て居る、山で見る星の光りは極めて爽かで美しい、水の音が聞える。今は浴客が満ちて居るが、秋など唯一人こんな所へぶらりと宿ったら如何だらうと思つた。明日は天気がよさそうだ。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹著より
垂玉温泉「山口旅館」(熊本県南阿蘇村)  山口旅館前の「五足の靴」碑


(10) 阿蘇山噴火口<熊本県阿蘇郡南阿蘇村>
 一行は、8月15日朝、垂玉温泉「山口旅館」を立って、歩いて草千里が浜を通って、阿蘇神社の付近にある茶店で中食を取りました。その後、阿蘇中岳の噴火口に登り、噴煙の立ち上るのを間近に見て、感動してその様子を書いています。しかし、下山するときに案内人が迷って、時間がかかり苦労したようです。その日は、栃木温泉「小山旅館」に泊まりました。私も何度か阿蘇中岳の噴火口に行っていますが、自然の驚異に感動しました。また、草千里が浜の雄大な光景にも心奪われるのです。

 (19) 噴火口

 第二日は垂玉の温泉から噴火口を見に登つた。此路は殆ど二里許り、別に珍しいものも無かつたが、蒼茫たる高原に馬と牛とが自由に駆け廻つてゐる様は快い眺めであった。路は分りよいさうだが予等は念の為め仮に「六蔵」と名付けた案内者を頼んだ。此六蔵先生には後に酷い目に合されたが、登りは先々無事で、千里が浜を通つて阿蘇本社の所在地に出、そこの茶店で中食して後、終に絶頂に達した。
 まだ噴火口の見えないうちから、既に褐色の煙は濛々と空を横ぎつて、為めに日の色は紫で、砂は気味悪い黄色を呈してゐた。火口に近くに随つて硫黄の香は犇々と逼つてくる。噴火口が見えるや否や、予等が心は猛獣の如くに荒くなつた。口を閉して皆黙々として驚駭の目を瞠るのである。底を知らぬ不可思議なる大きな壺の口からは、灰色の煙がもくもくと洶き、渦き、廻り、淀んで、空高く斜めに流れてゆく。其様が如何にも自覚と目的とが有るやうである。固より轟々たる物音は分秒の休みなく喚いてゐる、併し惘然たる凝視の間に予等は稍此光景に狎れた。そして愈々近く火口に歩み寄りて、終には巨石を此内に投時て其反応を検めようとした。果は此有名なる自然現象が、予等の驚嘆を喚起すること、大いなる工場に及ばないことを笑つたそして顧みると、三人の女学生めいた蓮葉の女達は、亦火口を瞰望してきやつきやつと笑つてゐる。平気なものだ。案内者六蔵は火口を目がけて七尺許りの金剛杖を投げる、と直ぐ高く噴出されて十五六間あなたへかちりと音がして落ちた。径五六寸の石は投込んでも底までは届かずに噴き出して了うさうだ。三人の女連は扇を投げ入れた、是は一寸面白いとK生が喜ぶ。昔の人は心から自然力に驚嘆した。火を崇め、山を祭つた。其子孫なる今人は亦惰性的に自然を恐れてゐる。昔よりは衰へたが、併し今尚盛んな想像力で而かも現代の物質的文明から経験し得た諸々の写象を基として、外形的に巨大なものを自然から予期してゐる。そこで山に登る。登つてみれば、彼等の耳目に触れるものは、其日常見聞する所のものから、さう大して優れてはゐない。そこで彼等は失望する。彼等は経験こそ多けれ、其精神は昔の人程大きくないのだ。「崇高」は外に無くて、内に在る。昔の人は僅少な自然動にでも、全心を燃やす可き大いなる火縄を得ることが出来たのだが、それが彼等には出来ないのだ。自分は山を下リ乍らつくづく現代と自分とを咀つた。そして変な情動から駈け出したら、石に躓いて、倒れて、したたか助骨を打つた。
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紀行文『五足の靴』 与謝野鉄幹著より
阿蘇の草千里が浜(熊本県南阿蘇村) 阿蘇中岳火口 

*与謝野 寛(鉄幹) <よさの ひろし>

  1873年(明治6)、京都に生まれました。1892年(明治25)に上京し、落合直文 の弟子となり、「浅香社」という結社を落合を中心にうち立てて、新しい和歌を提唱しました。1899年(明治32)には東京新詩社を創立、ここを母体としてまだ27歳の若さで、1900年(明治33)に『明星』を創刊することになります。 さらに翌1901年、新詩社社友となって『明星』に短歌を発表していた当時23歳の晶子を妻としました。新派和歌運動に貢献し、口語詩を主張しました。 1905年(明治38)には「鉄幹」の号を使わなくなり、その後1919年 (大正8) から1932年 (昭和7) まで13年間、慶応義塾大学の教授もつとめました。「五足の靴」の旅をしたのは、鉄幹34歳、新詩社を中心に幅広い活動をしている頃のことです。代表作は、詩歌集「東西南北」、「天地玄黄」、歌集「相聞」などです。1935年(昭和10)に、63歳で没しています。

*北原 白秋 <きたはら はくしゅう>

 本名は、北原隆吉といい、1885年(明治18)、福岡県柳川市の旧家に生まれ育ちました。早稲田大学英文科に進みましたが中退しました。その後、上京して『明星』に加わり、新進詩人として活躍しました。1908年(明治41)「パンの会」設立に参加しています。「パンの会」とは新芸術運動の会で、「五足の靴」旅行に参加した3人(北原白秋、木下杢太郎、吉井勇) などが、『方寸』という美術工芸雑誌を出していた画家たち(石井柏亭、森田恒友、山本鼎 (かなえ) など) と合同して始めたものでした。「五足の靴」の旅は、この「パンの会」の設立にも大きな影響を与えたのです。代表作は、詩集「邪宗門」、歌集「桐の花」、長歌集「天真名井」などですが、童謡などの作詞家としても、多くの作品を残しました。1942年(昭和17)に、57歳で没しています。       

*木下 杢太郎 <きのした もくたろう>

 本名は、太田政雄といい、1885年(明治18)、白秋と同じ年に、静岡県伊東市に生まれました。東京大学医学部卒業、医学博士で、ドイツ留学後、母校の教授も務めています。文学の方では、新詩社に加わり、『明星』『スバル』などに、耽美的な作品を発表しました。代表作は、詩集「食後の唄」、戯曲「和泉屋染物店」などですが、木下作品には「異国情調」と評されるものが多くあります。その底流には、若き日の「五足の靴」の旅で天草を旅した影響があるといわれています。1945年(昭和20)に、61歳で没しました。

*吉井 勇 <よしい いさむ>

 1884年(明治19)鹿児島藩士吉井友実の孫として伯爵家に生まれ、白秋と杢太郎の一つ後輩になります。早稲田大学政治経済科を中退し、新詩社には1905年(明治38)、19歳で入りました。その2年後に「五足の靴」の旅をすることになったのです。『明星』を代表する歌人として知られましたが、1907年(明治40)新詩社から脱退し、白秋たちと翌1908年「パンの会」を結成しました。1909年には『スバル』創刊に参加し、中心的な役割を果たします。代表作は、歌集「酒ほがひ」、「祇園歌集」、戯曲「午後三時」、小説集「蝦蟆鉄拐」などです。1960年(昭和35)に、75歳で没しています。

*平野 万里 <ひらの ばんり>

 本名は、平野久保(ひさやす)といい、1885年(明治18)、白秋や杢太郎と同じ年、埼玉県北足立郡大門町(現在のさいたま市緑区)に生まれました。1890年(明治23)一家で上京し、駒本尋常高等小学校を経て、郁文館中学に入学したのです。1901年(明治34)頃には新詩社に入り、与謝野寛(鉄幹)に師事、旧制第一高校から東京帝国大学工科大学応用化学科へ進みましたが、文芸誌「明星」に短歌・詩・翻訳などを発表するようになり、在学中に「五足の靴」の旅にもいっしょに行くことになりました。同年、歌集『わかき日』を刊行、翌年大学卒業後は、横浜の会社に就職し、1910年(明治43)からは満鉄中央試験所の技師として大連に赴任したのです。その後、約3年間のドイツ留学も経験し、帰国後は農商務省技師となって、1938年(昭和13)に退官するまで勤めました。その間、作歌を中断した時期もありますが、のちの『明星』の主要なる歌人として活躍したのです。途中『明星』を離れた者が少なくない中で、終生『明星』の歌風を守りましたが、1947年(昭和22)2月10日に61歳で没しました。


この作品を読んでみたい方は、現在、岩波文庫から『五足の靴』<460円+税>が出版されています。また、『五足の靴と熊本・天草』(濱名志松著)が、国書刊行会<1,500円>から 出版されていて、そこに全文が収録されています。

☆『五足の靴』関係文学碑一覧

所在地 碑の位置 碑名 碑文 建立日
福岡県福岡市博多区中州3-1-18 川丈旅館前 「五足の靴」文学碑 吉井勇の歌<旅籠屋の/名を川丈と/いひしこと/ふとおもひ出て/むかし恋しむ>が上に彫られ、下に解説が刻まれている 1966年7月31日
福岡県柳川市三橋町高畑333 松月文人館の敷地内 五足の靴ゆかりの碑  五足の靴と「松月」とのゆかりについて説明 1977年7月 
福岡県大牟田市岬町1-3  諏訪公園内  「五足の靴」文学碑 「今日は一千尺の地下に入って親しく埋もれたる太古の熱に触れようとする。大牟田は平地である。表面はただの田だ。稲が青々と繁って田の先の中に生存を嬉んでいる。裏面は即ち炭坑だ・・・・・。一行は白仁、稲田二氏によりて坑内を見るべく案内された。」  2011年6月 
佐賀県唐津市 JR唐津駅前 「五足の靴」記念碑 木下杢太郎の詩「はためき」<はためくは何ぞ/あな、おぞ/渡海船今し出づとて/帆捲くなり/唐津の殿の/いとわかきあえかの姫/髪に塗る伽羅を買ふべく>の全文 1999年10月31日
長崎県佐世保市下京町 旧京屋旅館前の下京町京町児童公園内 五足の靴文学碑 「五足の靴文学碑」 1978年8月
長崎県佐世保市下京町 夜店公園内 「五足の靴文学碑」 与謝野鉄幹の詩「夜店の詩」 1983年3月
長崎県長崎市樺島町9-16 西日本新聞長崎総支局下 「五足の靴碑」 「五足の靴碑」 1970年4月1日
熊本県天草市大江1782 大江天主堂前 吉井勇歌碑 吉井勇の歌<白秋と/ともに泊りし/天草の/大江の宿は/伴天連の宿> 1952年5月27日
熊本県天草市大江1782  大江天主堂前  吉井勇歌碑  吉井勇の歌<ともにゆきし/友みなあらず/我一人/老いてまた踏む/天草の島> 2001年6月17日 
熊本県天草市大江  天草ロザリオ館前  平野萬里歌碑 平野萬里の歌<赤葡萄/たわわにみのり/風かをる/南の島を/けふもさまよう>  2006年新春 
熊本県天草市大江  天草ロザリオ館前 木下杢太郎詩碑  木下杢太郎の詩「 あまくさ」<天草高来の民こそは 耶蘇の外法を伝えぬれ/港に入れる、やあら、いよ、勇魚追いこしみやびとは/さみどりの胸いとかたき 無花果樹島の 少女らに/あらら、キリシタン伴天連の 恋の秘法ぞ伝えぬる>  2004年7月24日 
熊本県天草市本渡  天草キリシタン館前  北原白秋詩碑 北原白秋の詩天草雑歌「ただ秘めよ」  1967年4月23日 
熊本県天草市 下田温泉の海岸道路 「五足の靴」記念碑 「五足の靴」研究家の濱名志松の歌<寛白秋/勇杢太郎/萬里らが/たどりし径ぞ/五足の靴で> 2001年10月21日
熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽2331 垂玉温泉「山口旅館」前 五足の靴碑 垂玉の湯 五足の靴碑 南阿蘇史談会

☆『五足の靴』関連リンク集

◇北原白秋記念館 「五足の靴」一行が2度宿泊した北原白州生家のある柳川市の北原白秋記念館公式ホームページです。
◇熊本文学散歩 熊本文学散歩の1ページとして「五足の靴」のことが掲載されています。(熊本国府高校パソコン同好会作成)
◇紀行文「五足の靴」抜粋 熊本国府高校パソコン同好会で作成した「五足の靴」原文の抜粋で、熊本県関係の部分が載っています。
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