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文学の旅(14) 「新版 放浪記」林芙美子著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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私は、今までに『放浪記』の足跡を訪ねる旅に何度か出ていますが、その中で心に残った所を7つ紹介します。
(1) 下関<山口県下関市>
林芙美子は、1903年(明治36)に下関市田中町の五穀神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと言われています。この五穀神社に、林芙美子生誕地の碑があります。自叙伝でもある「放浪記」にも下関のことが書かれており、第一学年から第四学年まで在籍していた名池小学校の資料室には彼女の学籍簿が展示されています。また、亀山八幡宮には、林芙美子文学碑があり、「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んであり、その脇の銅板には、「……私が生まれたのはその下関の町である」と「放浪記」の冒頭の部分が書いてあります。
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(2) 古里温泉<鹿児島県鹿児島市>
多目的広場を備えた古里公園内には、小説「放浪記」「浮雲」などの名作を残した女流作家・林芙美子の文学碑があります。林芙美子の母親林キクは桜島の出身で、兄の経営する古里温泉を手伝っているとき知り合った泊り客(行商人)の宮田麻太郎との間にできたのが林芙美子で、本籍地もここになっています。その後、11歳の時に芙美子が本籍地に預けられ、当地で一時期を過ごしました。この母の出身地である古里町に、林芙美子の幼少期と大人の和服姿の銅像2体と「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んだ文学碑が建てられています。
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林芙美子幼少期の銅像(鹿児島県鹿児島市) | 林芙美子文学碑(鹿児島県鹿児島市) |
(3) 直方<福岡県直方市>
作家の林芙美子は、12歳のころ直方の旧大正町の木賃宿「大正町の馬屋」に泊まり両親と行商を行いました。小説『新版 放浪記』の冒頭部分に、下記のように「直方の炭坑町」が描かれており、12歳のころの直方時代が林芙美子文学の原点になった、ともいわれています。また、「このころの思い出は一生忘れることはできない」とも記されています。現在、商店街の北側に位置する須崎町公園には、「放浪記」文学碑があり、「私は古里を持たない 旅が古里であった」と刻まれています。また、山部の西徳寺には林芙美子滞在地記念文学碑もあります。
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(4) 尾道<広島県尾道市>
1916年(大正5)5月に、林芙美子は尾道に両親とともに降り立ちました。そして、しばらく落ち着くことになり、翌年、市立尾道小学校(現在の尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業できたのです。1918年(大正9)、文学の才能を見出した教員の勧めで、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ進みました。夜間や休日は働きながら、図書室の本を読み耽けったとのことです。教諭も文才を延ばすように努め、友人にも恵まれ、18歳頃から、地方新聞に詩や短歌を投稿しました。1922年(大正13)、女学校卒業直後、上京するまで尾道にとどまり、故郷としての印象を深く刻ませ、後年もしばしば「帰郷」することになります。小説『新版
放浪記』の中にも、主人公が居住した地として登場し、尾道の町並みや千光寺のことが詳しく書かれています。以前市内には、文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開した施設があり、内部に、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしていましたが、2020年3月末で閉館しました。千光寺公園の文学のこみちには、下記の「放浪記」の一説を刻んだ石碑が立っていますし、本通り商店街入口には、和服姿でかがんだ林芙美子像もあります。また、像の近くの商店街に「おのみち林芙美子記念館」があり、その奥には芙美子が14歳の頃暮らした旧居が残されていて見学できます。
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閉館となった尾道文学記念室(広島県尾道市) | 林芙美子碑(広島県尾道市) |
(5) 東京<東京都>
1922年(大正11)に上京して以来、事務員・露天商・女工・女給などの職を転々とし、多くの苦労を重ねてきた林芙美子は、1930年(昭和5)に落合の地(現在の東京都新宿区)に移り住み、1939年(昭和14)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。そして、1941年(昭和16)8月から1951年(昭和26年)6月28日に死去するまで住んでいたのです。現在、この家は改築・整備され、「新宿区立林芙美子記念館」として公開されています。旧家部分の立ち入りは不可ですが、生前林芙美子が生活していた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先から見ることができます。画家であった夫の林緑敏の旧アトリエは、展示室となっていて、そこは見学できます。また、そこから徒歩20分ほどの万昌院功運寺に林芙美子の墓があります。
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新宿区立林芙美子記念館(林芙美子旧居) | 林芙美子の墓(功運寺) |
(6) 因島<広島県尾道市>
ここは、林芙美子の初恋の相手岡野軍一の生まれ故郷です。林芙美子が、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)6年生の頃、当時忠海中学の生徒だった岡野軍一と出会い、付き合うようになりました。岡野軍一が、明治大学商科進学のため上京すると、林芙美子も同じく、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)卒業と共に、恋人を追って上京したのです。そして、雑司が谷で一年ほどいっしょに暮したものの、大学を卒業した岡野軍一は故郷に戻り、日立造船所因島工場に勤めました。しかし、岡野軍一は家族の反対で芙美子との婚約を解消することとなったそうです。そういうわけで因島は、芙美子の恋人岡野軍一の故郷として度々訪れ、小説『新版
放浪記』の中にも、下記のように舞台として登場しています。たまたまあった、造船所のストライキの様子を詩にして挿入していますが、とても印象的です。また、因島公園には、林芙美子の文学碑が建てられ、「海を見て
島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い」と刻まれています。
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(7) 直江津<新潟県上越市>
林芙美子は、1924年(大正13)頃に、東京の上野駅から信越本線経由で直江津駅に降り立ったとのことで、駅前のいかや旅館(現在のホテルセンチュリーイカヤ)に泊まりました。そして、周辺を散策し、三野屋菓子店で、"継続団子"を買って食べたとのことです。その体験が、後年の小説『放浪記』の第三部に、下記のように描かれています。それを記念して、2011年(平成23)11月にJR直江津駅前に記念碑が立てられました。これは、「放浪記」の舞台女優として知られる森光子さんから送られてきた直筆の色紙を元に、林芙美子が好んだ「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき」が刻まれています。碑は高さ70cm、幅90cmで、上越市出身の彫刻家、岡本銕二さんが制作したもので、上部に森光子と林芙美子をイメージしたブロンズ像が付いています。また、小説に登場する"継続団子"は、今でも三野屋菓子店で売っていて、賞味できました。
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この作品を読んでみたい方は、現在簡単に手に入るものとして、『新版 放浪記』(林芙美子著)が岩波文庫<460円>、新潮文庫<391円>、角川文庫<391円>他から出版されています。 |
所在地 | 位置 | 名称 | 碑文 | 建立日 |
福岡県直方市須崎町18 | 須崎町公園 | 「放浪記」文学碑 | 私は古里を持たない 旅が古里であった | 1981年秋 |
福岡県直方市山部540 | 西徳寺 | 林芙美子滞在地記念文学碑 |
梟と真珠と木賃宿 林芙美子
定まった故郷をもたない私は
きまったふる里の家をもたない私は
木賃宿を一生の古巣としている
雑草のやうな群達の中に
私は一本の草に育まれて来た
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1993年5月 |
福岡県中間市垣生 | 垣生公園 | 林芙美子文学碑 | 私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の眼に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長いことしゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。 (「新版 放浪記」の一説) |
1971年3月23日 |
愛媛県西条市三津屋444-2 | JR壬生川駅前 | 父に宛てた手紙の石碑 | 何もかも忘れ、この不幸な私を、父上は愛して下さるでしょう 芙美子 父上様 (西条市は実父宮田麻太郎の出身地) |
2000年2月 |
愛媛県西条市 | 佐々久山 | 林芙美子詩碑 | 帰郷 古里の山や海を眺めて泣く私です 久々で訪れた古里の家 昔々子供の飯事に 私のオムコサンになつた子供は 小さな村いつぱいにツチの音をたてゝ 大きな風呂桶にタガを入れてゐる もう大木のやうな若者だ。 崩れた土橋の上で 小指をつないだかのひとは 誰も知らない国へ行つてゐるつてことだが。 小高い蜜柑山の上から海を眺めて オーイと呼んでみやうか 村の人が村のお友達が みんなオーイと集つて来るでせう。 林芙美子の詩集より |
2000年2月 |
山口県下関市田中町 | 五穀神社 | 林芙美子生誕地の碑 | 林芙美子生誕地 | 1966年 |
山口県下関市中之町1-1 | 亀山八幡宮 | 林芙美子文学碑 | 花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき 林芙美子 (「私が生まれたのはその下関の町である」を刻んだ陶板の副碑あり) |
1966年 |
福岡県北九州市門司区羽山2丁目 | 小森江浄水場跡 | 林芙美子生誕地記念文学碑 | いづくにか 吾古里はなきものか 葡萄の棚下に よりそひて よりそひて 一房の甘き実を食(は)み 言葉少なの心安けさ 梢の風と共に よし朽ち葉とならうとも 哀傷の楽を聴きて いづくにか 吾古里を探しみむ (掌 草紙の詩) |
1974年 |
鹿児島県鹿児島市古里町 | 古里公園 | 林芙美子文学碑 | 花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき | 1952年 |
新潟県上越市中央 | JR直江津駅前 | 『放浪記』記念碑 |
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき
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2011年11月 |
千葉県千葉市若葉区野呂町野呂 | パーキングエリア文学の森 | 『放浪記』文学碑 | 「放浪記」 十月×日 窓外は愁々とした秋景色。 小さなバスケット一ツに一切をたくして、私は興津行きの汽車に乗る。 土氣を過ぎると小さなトンネルがあった。 (中略) 三門で下車する。ホタホタ灯がつきそめて、驛の前は、桑畑、チラリホラリ、藁屋根が目につく、私はバスケットをさげたまゝ、ぼんやり驛に立ちつくしてしまった。 「ここに宿屋ありますか?」 (中略) 此まゝ消えてなくなりたい今の心に、ぢつと色々な思ひにむせてゐる事がたまらなくなつて、私は厭なコロロホルムの匂ひを押し花のやうに鼻におし當てた。 林芙美子 |
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広島県尾道市西土堂町19 | 千光寺公園 | 林芙美子碑 | 海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。 林芙美子 放浪記より |
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広島県尾道市東久保町12-1 | 尾道東高校内 | 林芙美子碑 | 巷に来れば憩ひあり。人間みな吾を慰さめて、煩悩滅除を歌ふなり | 1957年6月28日 |
広島県尾道市東御所町 | 本通り商店街入口 | 林芙美子像 | 海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。 | 1984年7月22日 |
広島県尾道市土堂 | うず潮小路 | 林芙美子碑 | 林芙美子が多感な青春時代を過ごした林文学の芽生えをはぐくんだ家の跡です | 1964年11月 |
広島県尾道市因島土生町 | 因島公園内 | 林芙美子文学碑 | 海を見て 島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い | 1981年5月 |
◇新宿区立林芙美子記念館 | 東京都新宿区立の林芙美子の旧居を活用した文学記念館です。 |
◇おのみち林芙美子記念館(旧林芙美子居宅) | 尾道まちかど広報室のおのみち林芙美子記念館(旧林芙美子居宅) のページです。 |
◇Wikipediaの『放浪記』 | フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「放浪記」のページです。 |
◇青空文庫『新版 放浪記』 | 青空文庫にある『新版 放浪記』の図書カードで、このサイトで全文をダウンロードしたり読んだり出来ます。 |
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