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古(いにしえ)を訪ねる旅
 城郭探訪(6) 高知城

インデックス

①追手門 ②板垣退助銅像 ③杉の段 ④二の丸 ⑤本丸
⑥天守閣  ⑦山内一豊公の像  ⑧高知県立文学館  ☆旧山内家下屋敷長屋  ☆旧手嶋家
◎高知城関係の指定文化財一覧

高知城探訪マップ
 高知城(高知県高知市)は、 関ヶ原の戦いの戦功によって掛川7万石から一躍、土佐22万石の太守となった山内一豊が築き始めました。しかし、完成を見るのは二代藩主忠義の頃のことです。ところが、現存する天守は、山内一豊の築城当時のものではないのです。1727年(享保12)、城下の大火によって天守閣ほか多くの建造物が焼失してしまい、その2年後から普請を始め、1747年(延享4)、山内豊敷の時に、ほとんど同じ工法で再建されたものです。4層6階の天守は、望楼型の独立式で、最上階に高欄を廻らしています。また、本丸御殿(懐徳館)、、門など本丸部分の建物を完全に揃った形で残しているのが大きな特徴です。山内氏は16代260余年続いて、廃藩置県を迎えました。その後、1871年(明治4)に旧藩主から城が県に譲渡され、高知公園となって一般に解放され、今日に至っています。2001年(平成13)に築城400年を迎えたとのことで、年間に約20万人の人々が訪れるそうです。尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。

①追手門

追手門前から天守閣を望む
追手門正面 追手門裏側

 やはり、高知城探訪の入口は、城の正門である追手門からでしょう。この門は、慶長年間に創建され、1663年(寛文3)に崩壊したのを翌年に再建したものとのことです。高知城では珍しいのですが、切石を積んだ石垣桝形上に、南面して建てられた両脇戸付櫓門で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっています。桁行11間、梁間4間で、木割は太くて雄大、主柱や扉には﨔材を用い、扉や桁などに銅製のかざり金具が打ち付けられています。屋根勾配がゆるやかで、全体的にどっしりとしていて、豪壮かつ優美な感じを与えています。天守閣大手門(追手門)がそろって現存している城は珍しく、この城と弘前城、丸亀城の3城しかありませんが、追手門前から天守閣を望めるのはここしかなく、有名な撮影スポットにもなっています。

②板垣退助銅像

板垣退介銅像 「板垣死すとも自由は死せじ」の碑

 追手門を抜けて、左手の方に立っているのが、板垣退介の銅像です。退介は、自由民権運動の指導者として知られた、明治時代の政治家で、1837年(天保8)4月17日高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となりました。戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。それを書いた石碑も銅像の右後方に立っています。この銅像は、桂浜の坂本龍馬の銅像製作者と同じ本山白雲で、1924年(大正13)に建立されたのですが、戦時中に供出され、戦後、再建されたものとのことです。像の題字は、再建当時の内閣総理大臣吉田茂の揮毫です。自由民権運動の発祥の地と言われる高知県を象徴している銅像なのです。

③杉の段

杉の段にある山内一豊の妻像 杉の段から見た天守閣東面

 追手門から登城するための階段は、登りにくいのです。わざとそういう足幅に作られ、攻めるにのぼりにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているとか....。その石段を上がった所が「杉の段」でかつては老杉が生い茂っていたのでその名が残されていますが、現在は花壇公園になっています。そこに立っている馬と女性の像が、有名な「山内一豊の妻の像」です。「一豊の妻」といえば内助の功のお手本として知られていますが、名を山内まつ、山内千代ともいいます。一豊の死後は出家して見性院となりました。かつて一豊が織田家に仕えていた頃、馬市で名馬を見いだしましたが、買うお金がなかったのです。その時、千代は嫁入りの時に実家から持たされた黄金十枚を鏡の下から取り出し、「いざという時の蓄えにしていたので、使ってください」と差し出したといいます。それからほどなくして、安土城下で馬揃えがありましたが、その馬を見た信長の目にもとまり、出世の糸口になったとのことです。そんなエピソードを像にしたもので、山内家といえば、思い出されるくらい有名な話となっています。「杉の段」あたりの木々の合間から見える天守閣東面の姿もなかなか良いのです。

④二の丸

二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面 二の丸から見た天守閣と廊下櫓門

 「杉の段」からさらに階段を上って、北の方へと回り込むと天守閣北面が多聞櫓に連なって、はっきり見えてきます。4層6階の天守は、望楼型の独立式で、外観は極めて古風です。二重櫓の大きな入母屋屋根の上に、高欄を廻らした望楼をのせた形をとり、南北に千鳥破風が付いています。現存する天守は、山内一豊の築城当時のものではありません。1727年(享保12)、城下の大火によって天守閣ほか多くの建造物が焼失してしまい、その2年後から普請を始め、1747年(延享4)、山内豊敷の時に、ほとんど同じ工法で再建されたため、古風な外観を保っているのです。さらに、石段を登って、二の丸まで達すると、廊下櫓門や多聞櫓と共に天守閣を望むことが出来、撮影スポットともなっています。往時、二の丸には東南に本御殿があり、西南に藩主の居屋敷があり、西北には奥御殿と長局があったといいますが、今は何も残されていません。また、西北角には、乾櫓(3階櫓)があったとのことですが、これも今はないのです。

⑤本丸

天守閣と本丸御殿(懐徳館) 本丸御殿(懐徳館)玄関
本丸御殿(懐徳館)の庭   東多聞・廊下門・詰門

 この城は、本丸部分の建物を完全に揃った形で残しているのが大きな特徴で、見所となっています。二の丸からからは廊下橋を渡って本丸に入りますが、この下が詰門で、門内に入ってきた敵が簡単に通り抜けられないように筋違い門にしてあるとのことです。突き当たりが、廊下門で、本丸の正門となっていて、脇戸付の櫓門構造をとり、入母屋造の屋根に本瓦をのせています。その東側に東多聞を接続し、本丸より一段低く地下門の形となっているのです。 本丸内に入ると左手が本丸御殿(懐徳館)、右手が西多聞、その隣が黒鉄門、正面奥に納戸蔵があって、本丸内のいずれの建物も国指定重要文化財です。懐徳館は平屋建の入母屋造で、本瓦葺、玄関・廊下、式台の間など14部屋からなります。玄関を入って右手に行くと書院があり、一段高い八畳間が上段の間と呼ばれ、藩主の座したところで、武者隠しの部屋も付随しています。しかし、この建物は、藩主が平時居住していたわけではなく、藩主の正式謁見の間としてつくられたものです。1727年(享保12)天守と共に焼け落ち、1747年(延享4)までに再建されたとのことです。懐徳館の名称は、明治維新以後、高知県に移管されてから付けられたものと聞きます。全国に残されている城郭御殿建築は珍しく、二条城、彦根城、掛川城、川越城などに残されているだけなので、たいへん希少価値があります。

⑥天守閣

天守閣から南方向を望む 天守閣から東方向を望む
 天守閣から北方向を望む  天守閣から西方向を望む

 天守閣に入ると、1階に大きな石落があり、その外の石垣面に向かって鉄剣を並べた忍び返しが備えられているとのことです。また、敵を狙う狭間が並んでいるのがわかります。外観は3層とも4層とも見えますが、内部は6階建になっています。急な階段を上って、最上階へ至ると、回り縁および高欄があって、すこぶる眺望が良いのです。高知市街や筆山、北山連山など周辺の山々を一望することができ、実にすばらしい。西の方を望むと眼下に入母屋造、本瓦葺の櫓門が見えますが、これが、黒鉄門で、搦手口から裏門への通路となっていて、階下の柱、扉などの南面に筋鉄を入れ、板張りで黒く仕上げているところから、この名があります。

⑦山内一豊公の像

山内一豊公の像

 本丸から下りてきて、追手門の手前から県立図書館の方へ向かうと山内一豊公の像があります。山内一豊は、1545年(天文14)7月、岩倉城の家老但馬守盛豊の三男として、愛知県岩倉の地に生まれました。一豊は、1567年(永禄10)頃から織田信長に仕え、1570年(元亀元)ころに妻の千代を迎えたとされています。その後、豊臣秀吉の下に付けられ、1584年(天正12)に近江の長浜で5万石、6年後の1590年(天正18)には遠江の掛川で6万石の城主と出世しました。秀吉死後は、徳川家康に味方し、1600年(慶長5)関ヶ原の合戦の功により、土佐22万石の領主となり、高知城を築城したのです。像は、馬にまたがって長い槍を持ち堂々としています。

⑧高知県立文学館

高知県立文学館

 さらに、県立図書館を回り込んで裏手の方へ行くと高知県立文学館があります。文学館内には、紀貫之の『土佐日記』から現代の文学まで、高知県ゆかりの約40名の文学者を紹介しているので、時間がある方は立ち寄ってみると良いでしょう。(9~17時、毎週月曜日休館、観覧料一般350円)

高知県立文学館の公式ホームページへ

*ちょっと足を延ばすと

☆旧山内家下屋敷長屋

 追手門から南に進み、右折して県庁前に出てから左折し、南に進んで電車通りを越え、さらに南下し、都合10分ほど歩くと旧山内家下屋敷長屋展示館があります。16代藩主山内豊範が、1864年(元治元)、ここに下屋敷を建設したおりに建てられた桁行17間半、梁間2間半の2階建て入母屋造の武家長屋です。それが、そのまま資料館となっていて無料で見学できるのです。1階部分では、藩政後期の台所用品や浄瑠璃語りの道具、幕末江戸の画家春木南溟の山水屏風など、2階では土佐藩船・夕顔丸の模型などが展示されています。この長屋は後世改造されていましたが、当初の柱や梁がよく残っていたため、1979年(昭和54) 2月 3日に国指定重要文化財となり、1981年(昭和56)年の解体修理で当初の形に復元されたとのことです。大名の下屋敷の長屋で、現存しているものは全国的に珍しく、下級武士の生活を知る上で貴重な遺構なので、立ち寄ってみることをお奨めします。(7~17時、無休)

旧山内家下屋敷長屋  旧山内家下屋敷門

☆旧手嶋家住宅(大川筋武家屋敷資料館)

 追手門から、西に進み、土佐女子高校のところで左に曲がって北に進み、江の口川を渡ったところに、大川筋武家屋敷資料館があります。約150年前、幕末の土佐藩中級武士・旧手嶋家の長屋門と母屋を復元したもので、高知城下で当時の武家の建築様式を今に残している唯一の建造物とのことです。1996年(平成8)に高知市有形文化財に指定され、1999年(平成11)4月、大川筋武家屋敷資料館として開館し、無料で見学できます。手嶋家は掛川から山内一豊に従って入国した家禄が250石の御馬廻りで、上士と呼ばれ、郷士(長宗我部氏時代の家臣)より身分が高い、中級の位の武士です。内部には日常生活に使った家具や調度品を再現してあり、土蔵を移築した資料館には1830年(天保元)の市内地図などを展示してあります。城下町は、城と一帯のもので、武士の生活を知る上で貴重な施設なので、時間が許す方はぜひ訪れて欲しいです。(9~17時、毎週水曜休館)

大川筋武家屋敷資料館の公式ホームページへ

☆高知城関係の指定文化財一覧

指定文化財 指定 員数 指定年月日
高知城天守 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城追手門 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城懐徳館 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城納戸蔵 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城黒鉄門 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城東多聞 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城西多聞 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城廊下門 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城詰門 重要文化財 1棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城矢狭間塀 重要文化財 6棟 1934年(昭和 9) 1月30日
高知城跡 史跡 1件 1959年(昭和34)6月18日
旧山内家下屋敷長屋 重要文化財 1棟 1979年(昭和54) 2月 3日
旧手嶋家住宅 市有形文化財 2棟 1996年(平成8)
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