城郭関係用語集 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【石落】(いしおとし)石垣を登ってきたり、下にいる敵兵を攻撃するために、天守や櫓などの壁面に下方に向かって設けられている隙間のことです。石などを落下させたり、鉄砲や弓矢を打つためのものだと考えられています。唐破風や千鳥破風によって、わかりにくさせている場合があります。
【石垣】(いしがき) 城郭の耐久性や防御性を向上させるために石材を土塁などと共に積み上げて構築したものです。天守や櫓、塀などの土台としての建物基部ともなっています。防御性を高めるために、勾配が工夫され、ゆるく弧を描くように弓状に積んだものを扇の勾配と呼んでいます。また、石材の加工方法と積み方によって、以下の種類があり、石垣の角(隅)は、「算木積」(さんぎづみ)にしているところが多く見られます。
【一国一城令】(いっこくいちじょうれい) 江戸時代前期の1615年(慶長20年閏6月13日)に、江戸幕府が出した大名統制の法令の一つです。主として西国諸大名の軍事力を削減する目的で出されたもので、「貴殿御分国中居城ヲハ被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候」と、土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令(立案者は徳川家康)しました。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国の場合も、大名の領国の場合もある)に、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊する(例外あり)ことを命じたものです。その結果、短期間の内に約400の城が壊されました。その趣旨は、1ヶ月後に発布された『武家諸法度』第6条「諸国ノ居城、修補ヲ為スト雖、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。」にも同じように禁制を反復し、無断での居城修補を禁じるとともに、新規の築城を厳禁し、諸大名の軍事力の抑圧を主な目的としています。その後、の『武家諸法度』の改正により、この規定は「新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。」(第3条)と、さらに具体的となって、幕府の諸大名統制に相当の効果をあげました。
【馬出】(うまだし)虎口前方の堀を渡る土橋などの先に小さい曲輪を作ったもので、籠城戦時には攻守に便利な陣地となりました。この部分の周囲には堀が作られていて、そのの形により角馬出(長方形)、丸馬出(半円形)などと呼ばれていました。戦国期の武田氏領国では、丸馬出が多く、後北条氏領国では、角馬出が多く作られました。現在でも、篠山城、名古屋城、土浦城などに残されています。 【大手門】(おおてもん)城の表口にある、正面玄関にあたる門のことで、本来は追手門(おってもん)と呼んでいました。追手とは、敵などを追う人のことで、その方向にある門と言う意味で、籠城の時にその門に敵を追い詰めて戦ったのです。従って、堀や石垣で固めた堅固な門が多かったのです。現在も高知城、弘前城、丸亀城、小諸城などに昔のものが残され、国の重要文化財に指定されています。
【唐破風】(からはふ)神社の拝殿などに見られる軽く反曲した曲線状の破風(切妻造や入母屋造などの屋根の妻側において合掌形に付けられた部分)をいいます。城郭建築にも多く見られ、「石落」などを、たくみに擬装している場合があります。
【搦手門】(からめてもん)城の裏口のことを「搦手」(からめて)といい、そこにある門のことを搦手門といいます。籠城などの戦闘時に、この門から出撃して、大手門に集まる敵を挟撃して、搦め取ることから名づけられました。姫路城との一門〜との四門、彦根城佐和口門、高知城黒鉄門、宇和島城上立門、金沢城石川門などが搦手門として知られています。
【グスク】(ぐすく)旧琉球王国の領域にあった奄美・沖縄諸島では、「城」を「グスク」または「グシク」と呼んでいます。これは、城郭としての役割だけでなく、石囲の聖地でもあって、祖霊神ニライカナイの拝所、村落共同体の御嶽でもあると考えられています。独特の文化圏を象徴するものともいえるので、2000年(平成12)12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。
【曲輪】(くるわ) 堀、石垣、土塁、塀などで分かたれた城郭内の区画のことです。形状や場所、使用目的等により、本曲輪、腰曲輪、帯曲輪、鍛冶曲輪、山里曲輪など様々な名称で呼ばれていました。しかし、1590年代ころから「曲輪」ではなく「丸」が多く使われるようになっていきます。その中で、天守や御殿のある中枢区画を「本丸」、城主やその家族等の住居や重要施設のある区画を「二の丸」、それらを取り囲んだ防御施設のある区画を「三の丸」と呼ぶようになりました。その配置によって、以下の形式に分類されています。 【虎口】(こぐち)城郭の出入口のことで、防御上の要となる場所なので、両脇を土塁や石垣、堀で固め、木戸や門が設けられ、番所が置かれていました。小口、戸口、城戸などいろいろな名称名があります。 【御殿】(ごてん)城の中心部の本丸や二之丸にあり、城主(藩主)が政務をとったり日常生活を送った屋敷で、本丸にある場合は、本丸御殿、二之丸にある場合は、二之丸御殿などと呼んでいました。役人が詰める政庁の役目もありましたが、天守とともに城の中心にある建物であったものの、平時は天守を使用しない為、御殿こそがその城の中枢となっていました。現在でも、高知城本丸御殿、川越城本丸御殿、二条城二之丸御殿、掛川城二之丸御殿などが昔のままに残されていて、国の文化財に指定されています。
【狭間】(さま)城郭内の天守や櫓の壁面、塀の壁に開けられた、鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための小窓のことです。円形、三角形、正方形のものは鉄砲用の鉄砲狭間、縦長の長方形は、弓や用の矢狭間と呼ばれていました。外部からわからないように壁で塗り込めにしていたり、普段は穴を壁土で塞いでおき、有事の際に開けて使用する「隠し狭間」などの工夫がありました。
【鯱桙】(しゃちほこ)頭が虎で胴体が魚、尾鰭は常に空を向き、背中にはいくつもの棘があるという想像上の生き物です。それを模して、屋根飾りとして使われていましたが、城の天守には、守り神として頂部につけることが多くありました。
【陣屋】(じんや) 堀や石垣、土塁と塀を巡らした単郭の区画の中に屋敷を構えたものです。城が複郭(本丸、二の丸、三の丸など)で、天守や櫓を多数構えたのに対し、防御面では劣っていました。主に以下の場合に設置されていました。
【続日本100名城】(ぞくにほんひゃくめいじょう)続日本100名城は、財団法人日本城郭協会が2017年(平成29)4月6日の「城の日」に発表したものです。すでに、2006年(平成18)2月13日に、同協会により「日本100名城」が選定されていましたが、それに続くものとして選定を求める声があり、同協会の設立50周年の記念事業の一環として行われました。今回は、協会の会員やファンからの推薦を受けた上で、約500城の候補から、小和田哲男日本城郭協会理事長他5人の専門家が選定を行い、前回100選で史実に即して復元されていないとして落選した城も選定されたのです。「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「地域・時代の代表」といった点を基準にしつつ、数の制限のために惜しくも「日本100名城」に収録できなかった城郭が選ばれていますが、前回同様、各都道府県に少なくともひとつ以上の城が入るようにされました。尚、「続日本100名城」公式ガイドブックの出版、スタンプラリーの実施がされています。
【大名庭園】(だいみょうていえん)
江戸時代の幕藩体制の下で、それぞれの藩の大名が領地内や江戸屋敷に築造した庭園で、各藩がお互いに競争したことにより、造園技術が発達し、各地に名園を生み出しました。これらの庭園は、大規模なものも多く、回遊式庭園がたくさん残されています。日本の庭園の歴史を見るうえで極めて重要なもので、領地の城郭内に造営されたものとしては、名古屋城二之丸庭園、二条城二之丸庭園、金沢城玉泉院丸庭園、和歌山城西之丸庭園など、城郭外の藩主別邸等に造営されたものとしては、栗林公園、水前寺成趣園などが知られています。また、江戸屋敷に造営されたものとしては、小石川後楽園(水戸藩)、六義園(郡山藩)などが有名です。
【千鳥破風】(ちどりはふ)天守や櫓の屋根に取付けられた三角形の破風(切妻造や入母屋造などの屋根の妻側において合掌形に付けられた部分)をいいます。この中に「石落」などを、たくみに擬装している場合があります。
【チャシ】(ちゃし)アイヌ語で、囲い、砦、館、柵を意味する言葉です。河川,海,湖沼などの自然地形を利用し、堀や土塁をもって、円形、半円形、方形などに区画されていて、数百uから千uくらいの広さです。北海道、東北地方、サハリン(樺太)に遺構として残されていて、北海道だけでも、100箇所以上あるとされています。 【天守(閣)】(てんしゅ)城郭の中枢部(本丸が多いが二の丸などの場合もある)に建造された、普通3層以上(2層の場合もある)の建物で、城の象徴ともなっています。戦闘時には、望楼や司令塔の役割を果たし、籠城時には、最後のよりどころともなりました。古代からの望楼の発達したものと考えられ、室町時代の末期頃から建てられたと思われ、古くは、殿主、殿守、天主とも書いたといわれています。狭間や石落などの防御機能を備え、接見、物見、貯蔵等の機能もあわせもっていたと考えられています。江戸時代には、100以上の天守があったとされていますが、幕末明治維新期に多くが失われ、大正時代までには、20になってしまいました。さらに、太平洋戦争とその後の火災で8つ失われ、現存するのは、12となっています。それ以外に戦後、鉄筋コンクリート造で外観復元されたものや木造で復元されたものもあります。天守は、平面構成によって、独立式、複合式、連結式、連立式の4つの形式があり、また、建築様式により、望楼型、層塔型の2つに分けられています。
【砦・取手】(とりで)本城に付随して、または敵の領内や攻城の前線基地として、設置された比較的小さい城のことです。本城に対して、簡易的なものが多く、せいぜい単郭が2つ程で、周りに土塁と堀、柵くらいを巡らし、いくつかの建物がありました。現在でも、堀や土塁が残された遺跡があります。
【土塁】(どるい)城郭の周囲に防御のために、土を盛って高くつき固めて築いた盛土のことで、土居(どい)と呼ぶ場合もあります。自然の地形を削って築いたり、堀を掘った際の残土で築かれました。石垣に適した岩石があまりない地方では多く築かれましたが、耐久性では石垣に劣りました。
【縄張】(なわばり)城の曲輪、石垣、堀などの配置を定めることで、城郭全体を設計することです。昔は、紐や縄を張って行っていたことから、この名前があります。 【日本100名城】(にほんひゃくめいじょう)「日本100名城」は、財団法人日本城郭協会が2006年(平成18)2月13日に発表したもので、同協会の設立40周年の記念事業の一環として、城郭愛好家からの推薦、専門家による選定会議を経て決定したものです。選定にあたっては、まず対象を@優れた文化財・史跡、A著名な歴史の舞台、B時代・地域の代表とし、各都道府県から1城以上5城以内として選出されています。近世城郭だけではなく、古代山城や環濠集落も含まれているのが特徴です。2007年(平成19)6月2日からは、選定された全国の100城を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』が開始されています。尚、2017年(平成29)4月6日に同協会により「続日本100名城」も選定されました。
【橋】(はし)城郭における橋は、防備の上でも攻撃の上でも重要な役割を持っていました。大きく分けると土橋と掛橋に大別されます。土橋は、土を盛って突き固めたもので、掛橋は、石材や木材を用いて架橋されていました。
【番所】(ばんしょ)虎口があるところには、必ず番所が置かれ、出入口を監視する詰所となっていました。現在でも、江戸城、丸亀城、姫路城、弘前城、掛川城などに建物が残されています。
【平城】(ひらじろ)平地に築かれた城郭で、在地支配を主目的にしたものです。水利との関係を重視して、周辺には水堀を巡らしています。本格的なものは、豊臣秀吉の大坂城に始まり、江戸時代に多く築城されました。近世の代表的な平城としては、名古屋城、松本城、広島城、大垣城、赤穂城、二条城、広島城、津城などが上げられます。
【平山城】(ひらやまじろ)そんなに険しくはない丘などと平地を利用して築かれた城で、戦闘性と居住性の二面を兼ね備えていました。安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、築城されたものに多く見られます。三大平山城として、姫路城、津山城、伊予松山城が知られていますが、それ以外の代表的な平山城としては、彦根城、松江城、和歌山城、岡山城、丸亀城、彦根城、犬山城、伊賀上野城、徳島城、大洲城、宇和島城などが上げられます。
【塀】(へい)敵を防ぐために、城郭の石垣や土塁の上に築かれた壁で、土塀、築地塀、板塀などからなりますが、きわめて頑丈に造られていました。この塀には、壁土を塗り残して外部に向かって矢や鉄砲を放つために、狭間という丸や三角、長方形などの穴を開けていたものもあります。明治維新後の廃城で壊されてしまったため、土塀が残っているものはあまりありませんが、現存するものとしては、熊本城の長塀、金沢城石川門土塀などが知られています。
【堀】(ほり)防御のために城の周囲を一定の幅と深さで掘削した溝のことで、水を湛えたものを水堀(みずぼり)、そうでないものを空堀(からぼり)、泥田状・沼状のものを沼田堀(ぬまたぼり)といいます。水堀の中には、自然の河川を利用したものもあり、何重にもめぐらされている場合は、本丸に近いものから内堀(うちぼり)、中堀(なかぼり)、外堀(そとぼり)という名称で呼ばれている城もあります。また、堀の断面の形状により、箱堀、薬研堀、毛抜堀、畝堀に分類されます。
【本丸】(ほんまる)城の中心にある区画のことですが、ここには城主(藩主)の住む本丸御殿や天守などの中枢となる建物が置かれて、防御上も一番手堅い場所にありました。江戸時代になり、戦乱が遠のくと御殿などが本丸から二の丸などへ移る場合もありました。 【枡形】(ますがた)城郭の虎口に設けられた、周囲を石垣や土塁で囲んだ方形の区画のことです。防御のためのもので、侵入してきた敵をここで食いとめておき、周囲から弓矢や鉄砲等で攻撃するためのものでした。通常2つの出入り口があり、城内側を一の門といい、一般に櫓門が設置され、城外側を二の門といい、一般に高麗門が設けられていました。 【水城】(みずじろ)平城の中で、河川や湖沼、海、湿地帯などを利用して縄張された城のことです。水運の利用に適し、水による防御を考えたもので、堅固でした。海を利用したものは、海城ともいい、湖を利用したものは、湖城とも呼ばれています。また、浮城の別名をもった城も多くあります。三大水城として、中津城、高松城、今治城が知られていますが、それ以外の代表的なものは、高島城、三原城などです。
【櫓】(やぐら)中世の城郭においては、“矢倉”、“矢蔵”と書かれ、飛び道具である弓矢を蓄えてあったところでした。敵が攻撃してきた時に、そこから矢を放って、迎え撃つための施設にもなっていきます。門や石垣、土塁の上など、城内要所に木造で設置されることが多く、その形状によって、平櫓、二重櫓、三重櫓、多門櫓、重箱櫓などと呼ばれていました。また、その用途によって、太鼓櫓、月見櫓、井戸櫓などと言われる場合もあります。通常の窓以外に、攻撃用の狭間や石落を備えたものもありました。
【山城】(やまじろ)険しい山の地形を利用し、独立した山や山脈の一部に築かれた、防御機能を重視した城郭のことです。古代に築かれたものもありますが、中世になって全国的に築城されるようになりました。室町時代には、比高100〜200m級の山城が、守護の居城として多く見られるようになり、戦国時代になると、大規模化していき、戦国大名の居城となったところも少なくありません。その場合、山麓に城下町を形成するところも出てきました。しかし、安土桃山時代から江戸時代になってくると、居住性や在地支配を主目的にした平山城や平城に移るところも多くなってきました。三大山城として、備中松山城、高取城、岩村城が知られていますが、それ以外の代表的な山城としては、山中城、小谷城、岩国城、岡城、津和野城、岐阜城などがあります。
【籠城】(ろうじょう)防御能力の高い城にたてこもって敵を防ぐことで、他からの援軍を待ったり、敵が疲弊するのをねらって行いました。しかし、敵軍に包囲され、連絡路を絶たれて、兵糧攻めにあうなどの危険もありました。 |
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