☆天守閣について
戦国時代以前の中世の城は山城といわれ、数十から数百m位の山の上に作られた、防御的機能に重点を置いたものが多く、城下町の発達も余りみられませんでした。また、天守閣というような大きな建物もなく、現在の遺跡としてもあまり見るべきものが残っていません。旅先で見かけるのは、安土桃山時代以降の城で平城、平山城と呼ばれ、平地に聳え、軍事、政治の中心となっていたものです。規模も大きく、当時は石垣や土塁の上に天守閣や櫓が立ち並び、周囲を威圧していました。しかし、現在でも城の威容を保っているものはあまりありません、江戸時代には170余もあったのですが、今でも昔のままの天守閣が聳えているのは、12城にすぎません。又、近年鉄筋コンクリートで外見だけ復元したものも少なくありません。堀が埋められたり、石垣が崩されたりして、ほとんど形をとどめていないものさえあります。全く残念なことだと思います。ただ、最近になって、木造で江戸時代のままに復元しようという動きもあって、白石城(宮城県)、白河小峰城(福島県)、掛川城(静岡県)で木造天守閣が建てられ、周りの景観も整備されて、往時の姿を伺えるようになりました。一度立ち寄ってみ
ては如何でしょうか。
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「弘前城」のデータ |
所在地 |
青森県弘前市白銀町 |
城種別 |
平城・平山城 |
築城年 |
1611(慶長16)年 |
築城者 |
津軽信牧 |
別名 |
高岡城 |
天守成立年 |
1810(文化7)年 |
天守構築者 |
津軽寧親 |
天守閣構造 |
3層3階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
櫓3基、櫓門3棟、石垣、土塁、堀 |
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弘前城天守閣 |
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天守閣北西面 |
天守閣南西面 |
関東以北では、唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されました。本来は1611年(慶長16)、津軽信枚公が完成させた5層天守が聳えていたのですが、2代信牧公のとき1627年(寛永4)の落雷で焼失しました。現存天守閣の特徴は、見る方向によって姿が異なり、二の丸から見える東面、南面にだけ千鳥破風を飾り、本丸から見える北面、西面は銅扉の連窓としていることです。また、城跡には他に3基の櫓と大手門はじめ5棟の櫓門が残り、国の重要文化財に指定されています。石垣、土塁、堀なども残っていて、往時の状況を彷彿とさせる城跡です。
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「松本城」のデータ |
所在地 |
長野県松本市丸の内 |
城種別 |
平城 |
築城年 |
1504年(永正元) |
築城者 |
島立貞永 |
別名 |
深志城、烏城 |
天守建造年 |
1597年(慶長2)頃 |
天守建造者 |
石川康長 |
天守閣構造 |
5層6階、連結複合式 |
文化財指定 |
国宝 |
他の遺構 |
小天守、櫓2基、復元門2棟、石垣、堀 |
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天守閣南面 |
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天守閣東面 |
黒門から天守閣と北アルプスを望む |
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成年代は諸説あってはっきりしませんが、1597(慶長2)年頃、石川康長によるものと考えられています。5層6階の大天守は二重の渡櫓によって、3層の乾小天守と連結され、東に2層の巽付櫓と月見櫓を伴う、見事なL字型の連結複合式天守です。屋根は寄棟づくりで、各層に千鳥破風や唐破風が見られ、窓は少な目です。城としては、1504年(永正元)、島立貞永が築いた深志城がそのはじまりでしたが、1550年(天文19)、武田信玄によって落城しています。その後、武田氏がこの城に城代を置いていましたが、1582年(天正10)、勝頼の代になって織田信長に滅ぼされました。それからの深志城は信長の城代がおかれていましたが、本能寺の変によって信長が倒れてからは小笠原氏が入り、小笠原貞慶のとき城の名を松本城と改めました。豊臣秀吉の時代になって、石川数正が入封し、現在の松本城の築城にとりかかり、1598年(慶長3)、主要部分が完成しました。関ヶ原合戦以降は、小笠原秀政が入封し、江戸時代になって戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏と城主が変遷しました。しかし、1726年(享保11)、戸田氏が入封して以後は安定し、廃藩置県を迎えたのです。天守閣群の昭和の大修理以降、城跡の復元工事が続けられていて、1960年(昭和35)に黒門が、枡形の二の門と塀は、1989年(平成元)、そして太鼓門が1999年(平成11)に復元されました。
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「犬山城」のデータ |
所在地 |
愛知県犬山市犬山 |
城種別 |
平城 |
築城年 |
1537年(天文6) |
築城者 |
織田信康 |
別名 |
白帝城 |
天守建造年 |
? |
天守建造者 |
? |
天守閣構造 |
3層4階、複合式 |
文化財指定 |
国宝 |
他の遺構 |
復元櫓、復元城門、石垣 |
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犬山城天守閣 |
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天守閣西面 |
木曽川から犬山城を望む |
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成年代ははっきりしません。しかし、1965年(昭和40)に解体修理されたおりに、金山城天守を移築した形跡は見あたらなかったため、従来から言われていた日本最古の現存天守ではないのではと考えられるようになりました。木曽川の絶壁上に聳え、付櫓のある3層4階の望楼型複合式天守で、南面と北面に唐破風があります。この城は木曽川河畔の断崖上に立ち、江戸時代の学者荻生徂来が唐の詩人李白の「朝に白帝を辞する彩雲の間・・・」という漢詩から連想して白帝城と呼び、別名となっています。また、日本で唯一かつての城主成瀬家の子孫による個人所有の城としても知られています。犬山城は織田信泰により1537年(天文6)に創築され、その後、石川氏、小笠原氏等が入り、近世の犬山城が完成されました。1617年(元和3)尾張藩の付家老成瀬正成が入り、廃藩置県まで成瀬氏の居城となりました。
☆丸岡城
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「丸岡城」のデータ |
所在地 |
福井県坂井郡丸岡町霞 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1576年(天正4) |
築城者 |
柴田勝豊 |
別名 |
霞ヶ城 |
天守建造年 |
1576年(天正4)? |
天守建造者 |
柴田勝豊 |
天守閣構造 |
2層3階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
門、石垣 |
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丸岡城天守閣 |
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天守閣東面 |
天守閣北面 |
日本最古の現存天守閣として知られていますが、1576年(天正4)に織田信長の家臣柴田勝家の甥勝豊によって築かれました。2層3階の天守は、入母屋櫓上に望楼を乗せた初期望楼型の独立式天守で、最上階に廻縁高欄をめぐらし、石瓦で葺かれています。本能寺の変後、勝豊が近江の長浜へ移ると、城主は安井氏、青山氏、今村氏とめまぐるしくかわりました。その後、1613年(慶長18)に本多成重が4万3,000石で入城しましたが、4代重能の時、お家騒動に因を発して除封となりました。かわって有馬清純が5万石で入部し、廃藩置県まで、8代160年間続きました。
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「彦根城」のデータ |
所在地 |
滋賀県彦根市金亀町 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1603年(慶長8) |
築城者 |
井伊直勝 |
別名 |
金亀城 |
天守建造年 |
1606年(慶長11) |
天守建造者 |
井伊直孝 |
天守閣構造 |
3層3階、複合式 |
文化財指定 |
国宝 |
他の遺構 |
櫓4基、太鼓門、馬屋、石垣、土塁、堀 |
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彦根城天守閣 |
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天守閣東面 |
玄宮園より天守閣を望む |
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成は1603(慶長8)年、井伊直孝の時ですが、旧大津城天守閣の資材を使って再築されたものとされています。この城は、大坂の豊臣氏、西国大名に備える戦略的目的から、幕府の全面的支援を得た天下普請となり、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じて完成しました。3層3階の天守は、付櫓を持つ複合式で、華灯窓や武者窓、唐破風、千鳥破風などに飾りの付いた美しい姿をしています。築城以来、廃藩置県まで井伊氏が居城しました。城跡には、天守閣以外に櫓4基、太鼓門、馬屋、石垣、土塁、堀が現存し、往時の城郭の様子を今にとどめています。また、旧表御殿の外観(一部内部)を復元した彦根城博物館が建設されています。
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「姫路城」のデータ |
所在地 |
兵庫県姫路市本町 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1609年(慶長14) |
築城者 |
池田輝政 |
別名 |
白鷺城 |
天守建造年 |
1609年慶長14) |
天守建造者 |
池田輝政 |
天守閣構造 |
5層6階、連立式 |
文化財指定 |
国宝 |
他の遺構 |
小天守3基、櫓26基、門15棟、石垣、土塁、堀 |
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天守閣南面 |
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天守閣西面 |
姫路城はの門 |
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成は1609年(慶長14)、優れた築城家として知られる池田輝政の時です。日本一の名城と評判の高い姫路城は、その外見の美しさから「白鷺城」と呼ばれ、1994年(平成5)には世界文化遺産にも登録されています。5層6階の大天守と東、乾、西の小天守を渡櫓で結ぶ、連立式天守で、近世城郭の最高技術水準を示しています。各層の逓減率があまり大きくなく、安定感あり、千鳥破風、唐破風が巧みに組み合わされ、白漆喰総塗籠となっています。この城は今から約670年前の1333年(元弘3)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が、ここ姫山に砦を築き、その子貞範が館を設けたのがその始まりとされています。しかし、最近では、黒田重隆と職隆が、1555年(天文24)から1561年(永禄4)の間に御着城の出城として築いたという説が有力となっています。その後、1580年(天正8)、羽柴秀吉が中国攻めの根拠地として3層の天守閣を築きました。池田氏の後は本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏めまぐるしく城主がかわって廃藩置県を迎えます。天守閣群の他に、櫓26基、門15棟、石垣、土塁、堀などが残り、城郭建築の宝庫と言われています。
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「松江城」のデータ |
所在地 |
島根県松江市殿町 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1611年(慶長16) |
築城者 |
堀尾吉晴 |
別名 |
千鳥城 |
天守建造年 |
1607年(慶長12) |
天守建造者 |
堀尾吉晴 |
天守閣構造 |
5層5階、複合式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
付櫓、石垣、堀 |
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天守閣南面 |
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天守閣西面 |
松江城一ノ門 |
山陰地方で唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存天守は、1611(慶長16)年、堀尾吉晴の築城によるもので、小高い岡に立地し、周囲に内堀をめぐらした典型的な平山城です。5層6階の天守は望楼型で、付櫓を持つ複合式天守です。2層までは、黒の下見板張りで、簡素で実践的な造りで、初期天守閣の姿を今に伝えています。市内をめぐる外堀もほとんど残っていて、武家屋敷なども残存し、旧城下町の風情も残されています。堀尾氏の無嗣改易以後は、京極氏、そして松平(越前)氏の支配で230年続き廃藩置県を迎えます。現在は、城郭の復元工事によって、1960年(昭和35)本丸一の門と南多聞の一部が復元され、1994年(平成6)に三之丸と二之丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二之丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)が復元されました。さらに、2000年(平成12)に二之丸南櫓)が、翌2001年(平成13)中櫓、太鼓櫓、それらをつなぐ約130mの塀が復元され、125年ぶりに往時の姿をよみがえらせました。
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「備中松山城」のデータ |
所在地 |
岡山県高梁市内山下 |
城種別 |
山城 |
築城年 |
1240年(仁治元) |
築城者 |
秋庭重信 |
別名 |
高梁城 |
天守建造年 |
1683年(天和3) |
天守建造者 |
水谷勝宗 |
天守閣構造 |
2層2階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
櫓2基、土塀、石垣 |
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備中松山城天守閣 |
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天守閣と復元された土塀と石垣 |
二の丸から復元櫓と天守閣を望む |
全国で唯一山城跡に残る天守閣として知られています。現存天守は、1683(天和3)年、水谷勝宗によって造られたもので、臥牛山(標高478m)の一つの峰にあります。2層2階の独立式天守で、天守の位置は標高430mもあり、日本三大山城の一つとされています。この城は、1240年(仁治元)に秋葉重信が築いた高梁城が始まりとされています。秋葉氏五代の後、守護職となった高橋宗康は、城域を小松山まで拡張し、松山城と改名しました。応仁の乱以降、この城をめぐる争奪戦は激しく、めまぐるしく城主が入れ替わっています。関ヶ原の合戦以後は、一端幕府直轄領になり、1617年(元和3)に池田氏が城主となってからは、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と変遷して廃藩置県を迎えました。現在は、天守閣以外に現存する二重櫓、石垣があり、1997年(平成9)に、本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元され、江戸時代の雄姿がよみがえりました。
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「丸亀城」のデータ |
所在地 |
香川県丸亀市一番町 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1597年(慶長2) |
築城者 |
生駒親正 |
別名 |
亀山城 |
天守建造年 |
1642年(寛永19)、改築1660年(万治3) |
天守建造者 |
山崎安治、京極高和 |
天守閣構造 |
3層3階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
門3棟、石垣、堀 |
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丸亀城天守閣を望む |
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天守閣北面 |
丸亀城大手門から見る天守閣 |
平地から本丸までの石垣の高さは60mを超え、日本一といわれています。現存天守は、1642年(寛永19)に山崎安治によって築かれましたが、1660(万治3)年に京極高和によって改築されています。3層3階の天守は、小ぶりな独立式ですが、そこからの讃岐平野の眺望はすばらしいものがあります。この城は、生駒親正によって、西讃岐の守護のため築かれた平山城ですが、1615年(元和元)徳川幕府が発布した「一国一城令」によりいったん廃城になりました。しかし、生駒氏の転封後、代わって入封した山崎家治によって丸亀城は再建されます。その後、京極氏の居城となり、廃藩置県まで続きます。現在は、天守閣以外に現存する大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋とともに、山の4囲に廻らされたみごとな高石垣が平山城の偉容を残してくれています。
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「高知城」のデータ |
所在地 |
高知県高知市丸の内 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1601年(慶長6) |
築城者 |
山内一豊 |
別名 |
大高坂城 |
天守建造年 |
1747年(延享4) |
天守建造者 |
山内豊敷 |
天守閣構造 |
4層6階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
本丸御殿、多聞櫓2棟、門4棟、石垣、堀 |
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高知城大手門から見る天守閣 |
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高知城天守閣 |
高知城天守閣と廊下門 |
現存する天守は、山内一豊の築城当時のものではありません。1727年(享保12)、城下の大火によって天守閣ほか多くの建造物が焼失してしまい、その2年後から普請を始め、1747年(延享4)、山内豊敷の時に、ほとんど同じ工法で再建されたものです。4層6階の天守は、望楼型の独立式で、最上階に高欄を廻らしています。また、書院、櫓、門など本丸部分の建物を完全に揃った形で残しているのが大きな特徴です。この城は、
関ヶ原の戦いで掛川7万石から一躍、土佐22万石の太守となった山内一豊が築き始めました。しかし、完成を見るのは二代藩主忠義の頃のことです。山内氏は16代260余年続いて、廃藩置県を迎えました。
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「伊予松山城」のデータ |
所在地 |
愛媛県松山市丸の内 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
1602年(慶長7) |
築城者 |
加藤嘉明 |
別名 |
勝山城・金亀城 |
天守建造年 |
1853年(安政5) |
天守建造者 |
松平勝善 |
天守閣構造 |
3層3階、連立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
櫓5基、門8棟、塀、石垣、堀 |
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伊予松山城天守閣 |
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天守閣南面 |
天守閣西面 |
姫路城、和歌山城と共に三大平山城の一つとされています。現存天守は、創建時の天守が1784年(天明4)に落雷によって焼失した後、1853年(安政5)に再建されたもので、当時の城主は12代松平勝善でした。3層3階の天守は、層塔型の連立式で、大小天守と2基の隅櫓が長方形の中庭を造っています。この城は、1602年(慶長7)に加藤嘉明によって創築され、工事は25年を費やし、完成をみたのは1627年(寛永4)のことで、この時には嘉明は国替えになっていました。その後を継いだ、蒲生氏も無嗣断絶となり、松平(久松)氏が城主となってからは廃藩置県まで続きました。現在は、天守の他、櫓5基、門8棟、塀、石垣、堀などが現存し、加えて1966年(昭和41)よ始められた復元工事によって、本丸の小天守、隅櫓2基が木造で復元されて、連立式天守の偉容を回復しました。また、二の丸の復元整備も進められ、櫓や門、塀が復元され、二之丸史跡庭園や大井戸も見学できるようになりました。
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「宇和島城」のデータ |
所在地 |
愛媛県宇和島市丸の内 |
城種別 |
平山城 |
築城年 |
慶長年間 |
築城者 |
藤堂高虎 |
別名 |
鶴島城 |
天守建造年 |
1665年(寛文5) |
天守建造者 |
伊達宗利 |
天守閣構造 |
3層3階、独立式 |
文化財指定 |
国指定重要文化財 |
他の遺構 |
門、城塁、石垣 |
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宇和島城天守閣 |
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天守閣南面 |
天守閣東面 |
国内で最も西に位置する現存天守で、藤堂高虎創建の天守を、1665年(寛文5)伊達宗利の時代に再築したものです。3層3階の天守は、層塔型の独立式で、南面・北面に2つ、西面に一つの千鳥破風を配し、優美な入母屋造り白壁塗です。この城の歴史は古く、941年(天慶4)藤原純友の乱に、橘遠保が築城した丸串城にまでさかのぼるとされています。しかし、近世城郭として整備されたのは、豊臣秀吉によって封ぜられた藤堂高虎が南予七万石の領主になってからのことです。1596年(慶長元)から大規模な築城工事が開始され、高虎は丸串の名を宇和島と改めました。その後、富田氏へと城主は代わり、江戸時代になってからは伊達氏の居城となり廃藩置県まで続きました。現在は、天守の他に上立門、城塁、石垣が残されています。
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