古民家めぐり | |||||||||||||||||||||||||||||
☆古民家の思い出日本中を旅して回っていると少なくはなりましたが、地域によっては古い民家が残されているところもあります。築百年以上は経っていると思われるような伝統的な様式で造られた古民家は、その風土に溶け込んで、とても興味をそそられるものです。そんな古民家に実際住んでいるところは稀ですが、文化財として保存・公開されているところは結構あります。旅先で、そんなところに立ち寄って、昔からの伝統的な生活に思いを馳せてみるのもまた面白いかと思います。
☆伝統的な民家から学ぶもの伝統的な民家には、その土地に適応した様々な工夫が見られるものです。寒冷地では、いかにその寒さをしのぐか、豪雪地帯では如何に雪に耐えて生活できるようにするか、亜熱帯地方では風通しをよくすると共に、台風にも耐えられるようにするかなどなど、建物の構造、立地条件、建築用材等がいろいろと考えられています。そんなところに、その土地で何世代にもわたって、暮らし続けてきた人々の知恵を感じ、歴史を感じるものです。ぜひ、そういう伝統的な民家を見学する機会があったら、そんな工夫のあれこれをも見てほしいと思うのです。 |
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☆私の好きな古民家七題 私は、日本中を旅したなかで色々な古民家を巡りました、その中から特に印象に残った古民家を北から順に7つ紹介しましょう。 秋田県秋田市金足小泉にある、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜63年)に建てられた上層の民家です。奈良家は弘治年間(1555〜58年)に大和国の生駒山麓小泉村から現在の潟上市昭和豊川に移住し、江戸時代には約10km南の現在の場所に移転したものと伝えられてきました。奈良家9代善政(喜兵衛)の時に、3年の歳月と銀70貫を費やして建築された大型農家で、母屋は寄棟茅葺き屋根の両中門造り(上手中門は座敷、下手中門は馬屋)、桁行12間(7.3m)、梁間7間(9.1m)、延床面積は424.05uあります。部屋の平面は広間側の形式をもち、壁は板壁仕上げで、鉋仕上げ・チョウナ仕上げによる部材などから、古風なつくりを感じさせます。また、明治から昭和にかけて建設された付属施設として、味噌蔵、座敷蔵、文庫蔵、南北米倉、明治天皇北野小休所(移築)、和風住宅なども現存してきました。秋田県中央沿岸部の大型農家建築物を代表する貴重なものなので、1965年(昭和40)5月29日に、母屋は国指定重要文化財となり、2006年(平成18年)3月に、付属施設は、登録有形文化財に登録されています。現在は、「秋田県立博物館」の分館として公開され、内部には民具などが展示されてきました。
山形県最上郡最上町にあり、江戸時代中期に建てられた、当時の庄屋の家でした。1689年(元禄2)5月15日(新暦では7月1日)に、俳聖松尾芭蕉は門人の曾良と共に、2泊した「封人の家」として有名です。その時のことが、紀行文『おくのほそ道』に、「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿を求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。蚤虱馬の尿する枕もと」と書かれました。この建物は、茅葺の寄棟造りで、南面に切妻破風が付き、桁行25.5m、梁間11.2mある大型民家で、役宅でもあり、問屋や旅館としての機能も備えていたと考えられています。松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅で泊まった、唯一現存する建物ものとして、江戸中期大型民家の遺構としても、大変貴重なので、1969年(昭和44)に、国の重要文化財に指定されました。その後、1971年(昭和46)から2年かけて解体復元修理が行われ、建築当初の姿に復原したものです。現在は、最上町所有の建造物となり、一般公開されていて、内部には、関係する資料も展示されています。また、家の前に、松尾芭蕉が止まった時に詠んだ句碑「蚤虱 馬の尿する 枕もと」が立っています。
山形県鶴岡市田麦俣にあり、この地方独特の茅葺きの多層民家です。田麦俣集落は六十里越街道の要所で、江戸時代に湯殿山への参拝が盛んになると、宿場的性格を帯びました。その中で、この地方独特の茅葺き民家が建てられるようになったのです。昔の兜造り多層民家の内部は1階が主に家族の居住用、2階が下男たちの居住用と作業場・物置、3階が養蚕と作業用の「厨子」、さらにその上が物置用の「天井厨子」となっていました。しかし、現在田麦俣に現存する兜造り多層民家は隣の民宿「かやぶきや」と2軒だけになってしまい、大変貴重なものなので、1974年(昭和49)に、山形県有形文化財の指定をうけ、現在は市有建造物となっています。
新潟県魚沼市須原にあり、江戸時代後期の1797年(寛政9)に目黒家11代五郎助が建てた割元庄屋(大庄屋職)の役宅をかねた豪農住宅です。木造平屋建一部2階建の茅葺で、主家は寄棟造りですが、中門部は入母屋造りとなっています。桁行7.4m、梁間6.1mの豪壮な規模で、豪農地帯の農家の特徴を備え、近世村役人層の住宅として、槍の間、中の間、奥座敷、小座敷、奥小座敷などの接客空間も整えられ、格式の高さが感じられるのです。また、表は旧会津街道に面し、街道沿いに石垣が築かれ、冠木門があるなど、どっしりとした屋敷構えです。隣接する銅板葺、寄棟造の離れ座敷は目黒家最盛期の1901年(明治34)に建てられたものです。1920年(大正9)には、2郡6ヶ村に及んで農地165町歩を有する大地主で、小作人総数は325人でした。1974年(昭和49)に、主屋・新蔵・新座敷などが国の重要文化財に指定され、1978年(昭和53)と1993年(平成5)に宅地等が追加指定されています。尚、隣接して「目黒邸資料館」が建てられていて、目黒家に江戸時代の初期から伝えられてきた古文書、大庄屋の諸用具・生活用具等や地方近代化の資料が展示してあります。
福井県坂井市丸岡町にあり、江戸時代前期の17世紀中頃に建てられたと考えられる古民家で、「千古の家」と呼ばれています。坪川家先祖の坪川但馬丞貞純は、北面の武士で、源三位頼政の後裔と伝えられる旧家で、この地に定住してからは、集落をつかさどる7人の「名司」の筆頭としての高い家格を持っていました。建物の正面が入母屋造り、背面が寄棟造りの茅葺屋根で妻入となり、外回りは杉皮張りの壁となっています。主な柱は栗材で、柱や梁の仕上げが丸刀の手斧を使ったままであること、そして股柱が三本も使われていることから、古い建築様式がうかがえます。福井県に残る民家の中で最も古く、全国的にも貴重な古民家のひとつなので、1966年(昭和41)6月11日に国の重要文化財の指定を受けまいた。また、庭園は国登録記念物となっていて、四季折々の風情があり、6月中頃には、隣接する菖蒲園できれいな菖蒲の花が咲き誇ります。
長野県塩尻市堀ノ内にあり、堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農でした。堀内家住宅は、江戸時代後期の1815年(文化12)に、下西条村の川上家の分家を移築したものと伝えられています。母屋は、約200年前の18世紀後半頃のものと考えられる本棟造りの建築で、桁行18.4m、梁間18.2m、一部2階、切妻造、妻入、南面庇付、板葺石置屋根でした。約1,000坪の敷地が旧中山道に南面し、正面に冠木門を構え、広い敷地に長々と板塀をめぐらしていて、ゆったりと広く、ケヤキの大木などが生い茂っています。石を置いた長板葺きの緩やかな勾配の妻入り屋根に、棟飾りの「雀踊り」がついているのが特徴で、明治時代初期の改造はありますが、意匠は力強く優れているので、1973年(昭和48)に、国の重要文化財に指定されました。
兵庫県神戸市北区山田町にあり、室町時代の建築と推定される日本最古の民家で、“箱木千年家”の通称をもっています。1967年(昭和42)に、国の重要文化財に指定されましたが、1977年(昭和52)に、呑吐ダムの建設に伴ない、約60m南東の現在地に移築されることになり、建物の解体調査と地下部分の発掘調査が行われました。その結果、主屋は少なくとも室町時代前半に遡るものと判定され、離れは江戸時代中期のもので、1979年(昭和54)にかけて、それぞれ建設当初の姿に移築復元されます。主屋は、茅葺入母屋造の屋根で内部は半分ぐらいが馬屋をともなった土間になり、床を張った部分は、表側の細長い室(おもて)と裏側の囲炉裏のある居間(ひろしき)、およびその奥の納戸から構成されていました。室町時代の現存する民家として大変貴重なもので、当時の農民の暮らしを知る上では重要です。
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〇古民家に泊まる ・古民家に泊まる(1) 兜づくり多層民家 民宿「かやぶきや」 |
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