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「旅のホームページ」は、いろいろな国内旅行を専門とするホームページです。

旅と文学
<文学に描かれた離島訪問記>
伊豆大島波浮港
小説「伊豆の踊子」
川端康成著
加計呂麻島
小説「出発は逐に訪れず」
島尾俊雄著
神島
小説「潮騒」
三島由紀夫著
小豆島
小説「二十四の瞳」
壷井栄著

☆離島の文学紀行

 古来から、離島は隔絶したところとして、独特の文化や習慣が息づいてきました。それは、現在でも残されている所も多く、そういうところを旅すると、妙に感慨深いものを得たりするのです。
 小説の中にも、離島を舞台としたものには、その島独特の雰囲気や習俗みたいなものが織り込まれていて、とても読んでいて、面白いものです。そういった離島の「文学紀行」をしてみるのも、お勧めだと思います。
 例えば、三重県鳥羽市の神島を舞台にした三島由紀夫著の小説『潮騒』、鹿児島県加計呂麻島を舞台にした島尾敏雄著の『出発は遂に訪れず』、新潟県佐渡島を舞台にした太宰治著の『佐渡』などの独特の雰囲気を持ったものです。
 その中で、壺井栄著の小説『二十四の瞳』は、1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化されて大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されましたし、何度もテレビドラマ化されていますので、見たことがある人も多いのではないでしょうか。現在でも、モデルとなった小豆島をあげて、『二十四の瞳』を宣伝しています。

☆伊豆大島波浮港 (東京都大島町)

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 一行は大島の波浮の港の人達だった。春に島を出てから旅を続けているのだが、寒くなるし、冬の用意はして来ないので、下田に十日程いて伊東温泉から島へ帰るのだと言った。大島と聞くと私は一層詩を感じて、また踊子の美しい髪を眺めた。大島のことをいろいろ訊ねた。
「学生さんが沢山泳ぎに来るね」と、踊子が連れの女に言った。
「夏でしょう」と、私が振り向くと、踊子はどぎまぎして、
「冬でも……」と小声で答えたように思われた。
「冬でも?」
 踊子はやはり連れの女を見て笑った。
「冬でも泳げるんですか」と、私がもう一度言うと、踊子は赤くなって、非常に真面目な顔をしながら軽くうなずいた。
「馬鹿だ。この子は」と四十女が笑った。
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小説『伊豆の踊子』より 川端康成著
波浮の港(東京都大島町)

◇1996年12月22日(日)に訪問する。

 前日朝に伊豆半島の伊東港よりカトレア丸に乗り、約1時間20分で大島元町港に到着しました。そこから三原山山頂行きのバスに乗り、三原山を2時間ほど散策し、火口原から噴火口までのんびりと見学したのです。その後、元町バスターミナルへと戻り、「伊豆大島火山博物館」を見学してから、その日の宿である民宿「桜田」へ入りました。すぐに風呂で汗を流し、18時から美味しく夕食を頂き、日本酒も2合ほど飲んで、テレビを見ながら寝てしまったのです。

 朝食後、近くで軽自動車のレンタカーを借り、島の南端へ向かって西海岸を走りました。風が強かったのですが、所々道の両側に椿が垣根を作り、赤い花がちらほらと見え、伊豆大島ながらの風景が見られます。約30分で島の南端にある波浮港へ到着しました。この港は、旧火口湖が海とつながってできた天然の良港であり、かつては伊豆諸島の廻船や東西の廻船にとって航海の安全と多くの利便性を与える場所として多くの船で賑わったそうです。しかし、今は昔ながらの佇まいが残されて、ひっそりとしていました。

 ここが、伊豆の踊子たち旅芸人一座の出身地で、小説『伊豆の踊子』の中でも上記のように描かれています。今でも伊豆の踊子「薫」のモデルになった女性が、踊っていたという旧港屋旅館が資料館として残されていました。館内には、その当時の様子を再現した人形や関係資料が展示してあり、周辺は「踊子の里」として整備されています。古い街並みを静かに散策しながら、小説『伊豆の踊子』への思いを馳せてから、再び、レンタカーに乗りましたが、東海岸の道路が通行不能とのことだったので、来た道を元町の方へと戻っていきました。

旧港屋旅館(東京都大島町) 旧港屋旅館座敷(東京都大島町)

◇2016年11月6日(日)に訪問する。

 20年ぶりで、再び伊豆大島へ行ってみることにしました。前日の朝8時50分に東京の竹芝桟橋をジェット船で出港し、10時35分に大島岡田港へ到着、24時間レンタカーを借りて島めぐりを始めました。まず「伊豆大島火山博物館」を見学してから、三原山へと上り、火口原から噴火口まで徒歩で往復してから、今日の宿である民宿「椿山」へと至りました。宿へ荷物を置いてから、公共の露天風呂「浜の湯」へ入浴に行き、帰ってきて海の幸と明日葉のてんぷらなどが並ぶ夕食を堪能して、早めに床に就きました。

 朝周辺を散策して、朝食を取り、レンタカーで島一周へ出立しました。元町から西海岸を南へ向かいましたが、途中に褶曲のすばらしい地層の露頭があったので立ち寄って、カメラに収めたのです。さらに南下し、大島町貝の博物館「ばれ・らめーる」に立ち寄ってから、再び波浮港へと至りました。天気も良く、高台から港全体を俯瞰した後、文学の散歩道を歩いてみました。ここは、多くの文学者が訪れているようで、与謝野鉄幹、幸田露伴、荻原井泉水などの文学碑が立ち並んでいます。そこを下って、また「旧港屋旅館資料館」を見学しましたが、小説『伊豆の踊子』との関りを反芻し、良い勉強になりました。

 古い街並みを散策してから、レンタカーへと戻り、今度は東海岸を北上していきました。途中、筆島をカメラに収め、素晴らしい風景を堪能しながら曲がりくねった道を運転し、「東京都立大島公園動物園」と「椿資料館」も見学しました。椿の花もきれいに咲いていて、それを愛でながら、岡田港へと向かい、14時30分発のジェット船で島を離れ、東京竹芝桟橋へと戻っていったのです。

旧港屋旅館の外観と内部階段(東京都大島町)
踊子の里の旧甚之丸邸(東京都大島町) 踊子の里の石垣と石畳(東京都大島町)
文学の旅(10)「伊豆の踊子」川端康成著へ
☆加計呂麻島 (鹿児島県名瀬市)
「重なり過ぎた日は、一つの目的のために準備され、生きてもどることの考えられない突入が、その最後の目的として与えられていた。それはまぬかれぬ運命と思い、その状態に合わせて行くための試みが日日を支えていたにはちがいないが、でも心の奥では、その遂行の日が、割けた海の壁のように目の前に黒々と立ちふさがり、近い日にその海の底に必ずのみこまれ、おそろしい虚無の中にまきこまれてしまうのだと思わぬ日とてなかった。でも今私を取りまくすべてのものの運行は、はたとその動きを止めてしまったように見える。・・・・・・・・」

小説『出発は遂に訪れず』より 島尾俊雄著
フェリーかけろま 茅葺き屋根の残る南龍(民宿)

◇1998年1月14日(水)に訪問する。

 そんな奄美大島の海岸線をさらにレンタカーを走らせて、やっと昼過ぎに瀬戸内町の中心古仁屋へとたどり着きました。どこか昼食を取れるところはないかと探しましたが、なかなか見つからないのです。車をぐるぐると回して、港の待合所の近くに大衆食堂を見つけました。焼魚定食を食べていたら、その店の飼い犬が横に来てちょこんと座り、うらめしそうにこちらをみています。おこぼれでもちょうだいできないかといった感じです。ちょっとあげようかとも思いましたが、癖になるといけないと考え、思い止まったのです。小休止できて、腹を満たすとともに運転の疲れをとりましたが、フェリーの出航まで時間があったので、町の歴史民俗資料館へ行ってみることにしました。民俗的な展示が中心でしたが、見学しながら時間をつぶし、手頃な時刻にフェリー乗り場へと戻ってきました。入港してきたのは車数台乗せれば一杯になってしまうような小型の船でしたが、乗った車は私の一台だけで、後は徒歩の乗客でした。ほぼ定刻通り15時25分に“フェリーかけろま”は出航して、加計呂麻島の生間港へと向かい、所要20分で静かな海峡を渡って、あまり人気のない入江へと入っていきました。
 先ず、南の方から島を一周してみようとしましたが、こんな僻地の離島でも自動車道は思ったより整備されていて、ほとんど舗装されていました。しかし、狭くて曲がりくねった道が多いのは地形上やむをえないところか。南端をぐるっと回って、西海岸の諸鈍長浜に出ました。海岸線に立派なディゴの並木があり、隣の請島も望めて、なかなかよい景色です。観光地化されていない素朴さがとても気に入りました。かつては茅葺きだった民家も屋根だけはトタンに変わったものの、昔ながらのたたずまいを見せています。再び生間港へと出てきて、そこからは北に進路をとりました。静かできれいな入江が小さな半島に区切られて次々に登場します。
 この入江が、50数年前には太平洋戦争の最前線になったとは思えないほどです。そんな一つ、呑之浦の海岸縁に島尾俊雄の文学碑が建っていました。『出発は逐に訪れず』、『死の棘』など自身の特攻隊長としての体験を元にした作品群が知られていますが、この地にその特攻基地があったことは初めてわかりました。遊歩道に沿って歩いてみると所々にコンクリート製の横穴があって、その一つに海軍の特攻水雷艇「震洋」が復元して置いてありました。モーターボートの先端に爆薬を付け、敵艦船に特攻したものですが、いかにもちゃちな感じがしました。こんなもので、果して戦果が上げられたのだろうか疑問に思ったのです。しばらくの間、全く人影のない、おだやかな入江を眺めながら、半世紀前の戦争に心をいたし、島尾俊雄のことを考えながら、その場で追想していました。もう、日が傾きはじめているので先を急ぎ、瀬相港から山越えをして再び西海岸の西阿室集落へと向かいましたが、途中、徳州会の加計呂麻病院の立派な建物があり、こんな離島にとちょっと異質な感じを受けました。
 今日泊まる民宿は西阿室集落の中の小径沿いにあり、看板も出ていなかったので、前を通りすぎてしまいました。村人に教えられてやっとたどり着きましたが、ここには昔ながらの茅葺き民家が残されていました。通されたのは瓦葺きの母屋の方でしたが、夏には希望する青年たちがその茅葺き屋根にも泊まると聞きました。

 
島尾俊雄の文学碑 特攻水雷艇「震洋」

☆神島 (三重県鳥羽市)

「丸い頂上の小部屋は、磨き立てられた木の壁に囲まれていた。真鍮の金具は光り、五百ワットの光源の電燈のまわりを、それを六万五千燭光に拡大する厚いレンズが、連閃白光を放つ速度を保って、ゆったりと廻っていた。レンズの影は丸い周囲の木壁をめぐり、明治時代の燈台の特徴をなすチンチンチンチンという廻転音を伴いながら、その影は窓に顔を押しあてている若者と許婚の背中をめぐった。二人は、お互いの頬を、触れようと思えばすぐ触れることもできる近くに感じた。その燃えている熱さも。・・・・・・そして二人の前には予測のつかぬ闇があり、燈台の光りは規則正しく茫漠とそれをよぎり、レンズの影は白いシャツと白い浴衣の背を、丁度そこのところだけ形を歪めながら廻っていた。・・・・・・・・」

小説『潮騒』より 三島由紀夫著
神島の全景 神島港へ入る定期船

◇2005年12月30日(金)に訪問する。

 帰省途中に伊勢志摩へ立ち寄り、鳥羽から菅島に渡り、菅島灯台を巡った後、神島へと向かったのです。鳥羽から来た定期船は、ほぼ定刻どおりに港へ入ってきましたが、帰省客で混み合っていて、通路にまで、人と荷物が溢れていました。それに乗り込み、14時20分に神島へ向けて出航したものの、ここからは外海に出ることになるので、少し波が高くなり船が揺れています。しかし、ほぼ定刻どおり15時前には神島港へと入っていきました。

 神島は伊勢湾の入口に浮かぶ、周囲約4km、人口500人余の小さな島で、標高170mの灯明(とうめ)山を中心として全体が山地状で、集落は季節風を避けるように北側斜面に集まっています。そして、なによりも三島由紀夫の小説『潮騒』のモデルになったことで、有名で、昔から一度来たいと思っていたのです。

 神島へ着いて、今日の宿「山海荘」に荷物を置くと、さっそく島一周の散策に出かけました。ほんとうに急斜面にへばりつくように人家が密集して建っていて、歩道が急勾配でアップダウンしながらその間を縫っています。まず、集落の東側にある八代神社へと行ってみたのですが、真っ直ぐ伸びた214段もの階段を登らなくてはならず、閉口しました。ここで、元旦の夜明けにゲーター祭りと呼ばれる奇祭が行われると聞きました。

 社殿参拝後、時計回りに島を一周しようと、裏手の遊歩道を上っていったのですが、勾配がきつく、断崖絶壁になって海に落ち込むような細道を進んでいきます。しかし、伊勢湾、伊良湖岬から太平洋の景色はすばらしいのです。

 しばらく行くと、シラヤ崎に至り、神島灯台の門が見えてきました。小説の中でも、新治、初江が灯台職員宿舎(退息所)を訪ねるシーンが印象的ですが、退息所は無人化に伴い撤去されていて空き地となっていました。その奥に白亜の灯台が立っていて、 小説『潮騒』の案内板がありますが、そこからの眺望はすこぶるよく、小説の場面を彷彿とさせるのです。また、灯台についての描写は特に秀逸で、新治、初江の前途とも重ねて描かれていて、脳裏に思い浮かべながら、見上げていました。

 この小説は、青山京子、吉永小百合、山口百恵、堀ちえみ等の主演により5回にわたって映画化されていますが、灯台周辺でのロケもありました。その映画の場面を思い出しながら、しばしたたずんでいました。

「潮騒」の案内板 小説「潮騒」に描かれている灯台職員宿舎跡
神島灯台より伊良湖崎を望む 神島灯台
文学の旅(16)「潮騒」三島由紀夫著へ

☆小豆島 (香川県小豆郡小豆島町)

 ・・・・・・・・
 始業を報じる板木が鳴りひびいて、大石先生はおどろいて我にかえった。ここでは最高の四年生の級長に昨日えらばれたばかりの男の子が、背のびをして板木をたたいていた。校庭に出ると、今日はじめて親の手をはなれ、ひとりで学校へきた気負いと一種の不安をみせて、一年生のかたまりだけは、独特な、無言のざわめきをみせている。三四年の組がさっさと教室へはいっていったあと、大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた。はじめてじぶんにかえったようなゆとりが心にわいてきた。
 ・・・・・・・・

小説『二十四の瞳』より 壷井栄著
岬の分教場の外観 岬の分教場の内部

◇2007年1月27日(土)に訪問する。

 前日に姫路港から、13時35分発の小豆島急行フェリーに乗船し、瀬戸内海を進み、ほぼ定刻通り、15時15分頃には小豆島福田港に到着しました。

 福田港からは土庄行きの小豆島バスに乗り、土庄本町へ着いてからは、宿まで15分少々歩いて、鹿島海岸にある「小豆島シーサイドホテル松風」にたどり着き、ここに宿泊しましたが、通された部屋からは、海がとてもよく見え、風光明媚で気に入りました。
 翌日は、レンタカーを借り、「小豆島 尾崎放哉記念館」、「道の駅 小豆島ふるさと村」、「オリーブ園」、「マルキン醤油記念館」へ立ち寄り、黒島伝治文学碑、壷井栄の夫であった壺井繁治詩碑を見学してから、岬の分教場へと向かいました。

 ここは、壺井栄著『二十四の瞳』の舞台となったところで、学生時代に一度訪れたことがあります。その時は、対岸の小豆島ユースホステルに泊まって、おなご先生のように自転車で岬に向かって、走ってきた記憶が蘇ってきました。とても懐かしく思い、建物もよく保存されていて、小説の場面を彷彿とさせ、映画のシーンも思い出して、感動を新たにしたのです。

 続いて、「二十四の瞳映画村」にも立ち寄りました。ここは、2度目の映画化(1987年松竹作品・朝間義隆監督)の時に造られたオープンセットを公開したもので、「壺井栄文学館」も併設されています。中に入ると、昭和初期のレトロな雰囲気が漂っており、映画のシーンを彷彿とさせるのです。「松竹座映画館」というのもあって、実際の映画も見ることが出来、感激しました。じっくりと見ながら写真を撮っていったので、結構時間がかかってしまいました。

 見学後は、来た道を戻って、坂手にある壺井栄文学碑と生田春月詩碑も見てから、大門鼻を経由して、寒霞渓にも立ち寄り、今日の宿「国民宿舎 小豆島」へと至りました。

壺井栄文学館 映画に使われたバス
映画で使用されたオープンセット  二十四の瞳の像「せんせあそぼ」
文学の旅(15)「二十四の瞳」壷井栄著へ
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