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「旅のホームページ」は、いろいろな国内旅行を専門とするホームページです。

古(いにしえ)を訪ねる旅
 民家関係用語集
<あ行>
板葺き屋根 市島家住宅 入母屋造り 入母屋屋根 卯立・卯建
江川家住宅        
<か行>
合掌造り 金沢湯涌江戸村 兜造り多層民家 茅葺き屋根 刈羽民家
喜多家住宅 旧有路家住宅 旧安西家住宅 旧安間家住宅 旧遠藤家住宅
旧清田家住宅 旧黒木家住宅 旧黒木家住宅(米良の民家) 旧沢崎家住宅 旧永島家住宅
旧奈良家住宅 旧藤田家住宅 旧古井家住宅 旧目黒家住宅 旧山中家住宅
旧横田家住宅 切妻屋根 くど造り    
<さ行>
四国村 重要伝統的建造物群保存地区
<た行>
チセ 中門造り 坪川家住宅 妻入り
<な行>
奈良県立大和民俗公園 南部曲り家 日本民家園 日本民家集落博物館  
<は行>
博物館明治村 箱木家住宅 平入り 福島市民家園 富士系合掌造り
二棟造り 堀内家住宅 本瓦葺き 本間家旧本邸 本棟造り
<ま行>
民家野外博物館 宮崎県総合博物館民家園
<や行>
大和棟 寄棟屋根  
<ら行>
<わ行>

【板葺き屋根】(いたぶきやね)

 板で葺いた屋根のことです。使用する板の寸法、形状、葺き方によって、柿葺き(長さ30cm前後、厚さ3mm前後のサワラやスギの手割り板を竹釘を使って細かく葺くもの)、木賊葺き(厚さ4~7mmのもの),栩葺き(厚さ9~30mmのもの)、長板葺き(長板を縦に葺いたもの)、木瓦葺き、石置き板葺き(板葺きの上に石を置いて、板が風で飛ばないようにしたもの)などがあります。

野麦峠のお助け小屋の石置き板葺き屋根(長野県松本市) 日本民家園の三澤家住宅の石置き板葺き屋根(旧長野県伊那市)

【市島家住宅】(いちじまけじゅうたく)

 新潟県新発田市天王にあり、現在の建物は、明治時代前期に建てられたもので、木造本瓦葺き、敷地面積8,000余坪、延床面積600余坪、これを囲む回遊式庭園は、自然の風致に富み、広い池を取り巻く樹木はそれぞれの四季を映しています。市島家は戦前の越後千町歩地主五家(市島家、伊藤家、斎藤家、田巻家、白勢家)の一つで、丹波に発する家系であり、1598年(慶長3)に越後新発田藩主に任ぜられた溝口家に伴って、加賀大聖寺から現在の新発田市近辺に移住し、薬種問屋を営む傍ら回船や酒造、金融で富を蓄え、福島潟の干拓による新田開発で北陸でも屈指の大地主となったとのことです。1962年(昭和37)に、邸内の12棟1構が新潟県の有形文化財に指定され、一般公開されるようになりました。また、市島邸内の資料館には、市島家にゆかりの深い会津八一に関する資料などが展示され、庭園内に点在する屋敷の至る所には、歴史を感じさせる美術品などを見ることができ、千町歩地主の豪壮さを感じることができます。

市島邸表門 市島邸玄関

【入母屋造り】(いりもやづくり)

 滋賀県北部、福井県若狭地方、丹波・丹後・但馬地方、大阪府能勢地方などには、入母屋屋根の茅葺民家が分布していました。妻入りと平入りの2つのタイプがあり、破風が大きいのが特徴とされています。京都府南丹市美山町内には、このタイプの茅葺き民家が多数現存していますが、とりわけ北地区は、50戸の内38戸が茅葺き屋根の古民家で、昔ながらの村落景観を維持しています。そのことが評価されて、1993年(平成5)、周囲の水田と山林を含む集落全体127.5haが、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。この集落に現存している茅葺き屋根の家屋の多くが、江戸時代中頃から末期にかけて建てられたものであり、丈の高い入母屋造の屋根と神社の千木のような飾りが特色となっている「北山型民家」に分類されるものです。これ以外の代表的なものとして、近江風土記の丘にある旧宮地家住宅(旧滋賀県長浜市)、日本民家集落博物館にある旧泉家住宅(旧大阪府豊能郡能勢町)、田中家住宅(滋賀県伊香郡西浅井町)などが国指定重要文化財、丹後郷土資料館にある旧永島家住宅(旧京都府竹野郡丹後町)が京都府指定有形文化財となっています。

かやぶきの里の北山型入母屋造り民家(京都府南丹市美山町) 日本民家集落博物館にある旧泉家住宅(旧大阪府豊能郡能勢町)

【入母屋屋根】(いりもややね)

 上半分が切妻、下半分が寄棟とした屋根で、上部は二方向の勾配面、下部は四方向の勾配面で構成されます。神社やお寺の造りを模したもので、京都から近畿地方に多くありますが、西日本から関東、東北まで見られます。

かやぶきの里の北山型入母屋屋根民家(京都府南丹市美山町) 切妻屋根の模式図

【卯立・卯建】(うだつ)

 日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾のことです。古くは建物の棟を支えるため、梁上に立てられた棟束を宇太知または宇立(うだち)の名でよんでいましたが、自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を「うだつ」と呼ぶようになりました。現在は、切妻屋根の民家の妻に一段高く屋根を葺いたところを本卯建 (ほんうだつ) 、さらにその下方が軒下に出て袖壁(1階部分と2階部分の間についたもの)となったものを袖卯建 (そでうだつ) というようになっています。元々は家の格を示すもので、自己の財力を誇示するための手段として造られ、慣用句「うだつが上がらない」の語源の一つと考えられていますが、塗屋造では防火壁となりました。

袖卯建のある脇町南町の民家(徳島県美馬市) 本卯建のある美濃町の民家(岐阜県美濃市)

【江川家住宅】(えがわけじゅうたく)

 静岡県伊豆の国市にあり、主家の一部は室町時代に造られたと思われますが、ほぼ現在の姿になったのは、江戸時代中期の1707年(宝永4)と考えられています。主家は、桁行25.4m、梁間18.8m、元は茅葺き(現在は銅板葺き)で、入母屋造、正面玄関が突出し、式台を持つ立派な玄関、七間四方の広い土間がある豪壮なものです。敷地は広く、平地部分は東西約150m、南北約200m、直角三角形の形状をしていて、主家以外に、表門、書院、5棟の蔵が立ち並んでいました。江川家は、鎌倉時代の北条時頼の時に、大和から伊豆に来たという名家で、慶長年間以来、代官を世襲してきたとのことです。特に有名なのは、幕末の韮山代官江川英龍(坦庵)で、1853年(嘉永6)6月、ペリーが来航して開港をせまり、江戸湾の防備が急務となったおり、国防の重要性を幕府に建議し、許可を得て大砲鋳造に必要な韮山反射炉を築造しました。これらの建物は、1958年(昭和33)に主屋が、国の重要文化財に指定され、1993年(平成5)に書院、仏間、蔵、門、塀、神社が追加指定を受け、一般公開されています。また、2013年(平成25)に「韮山代官江川家関係資料」38,581点、および「江川家関係写真」461点が、歴史資料として国の重要文化財に指定されました。主屋内部には、江川家の歴史や江川家住宅、韮山反射炉などの貴重な資料が展示されています。

江川家住宅の主家 江川家住宅の門

【合掌造り】(がっしょうづくり)

 日本の民家の建築様式の一つで、傾斜が急で大きな茅葺きの切妻屋根を持ち、手を合わせた姿(合掌)をしているのでこの名があります。この民家形式は、白川郷(岐阜県)から五箇山(富山県)にかけて分布し、昔は数十人の家族が住んでいて、屋根裏を三、四層に分けて蚕室に用いて、養蚕をしていました。現在、富山県南砺市菅沼と相倉、岐阜県白川村荻町の3つが合掌造りの集落として、重要伝統的建造物群保存地区に指定されて保存処置が講じられています。また、1995年(平成7)には、白川郷の荻町、五箇山の菅沼と相倉は、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、世界遺産(文化遺産)にも登録されました。 

白川郷(荻町)の合掌造り  五箇山(相倉)の合掌造り

【金沢湯涌江戸村】(かなざわゆわくえどむら)

 石川県金沢市湯涌荒屋町にある、金沢市立の野外民家博物館で、2010年(平成22)9月にオープンしたものです。湯涌温泉街の旧白雲楼ホテル(廃業)の隣にかつて存在した「旧金沢江戸村」の閉鎖にともない、この民家施設を引き継いだ金沢市が、新しく移築したものも含めて開設しました。江戸時代後期の建造物を中心に、農家4棟、武士住宅1棟、商家2棟、宿場問屋1棟、武家門1棟、総計9棟からなっています。建造物は、加賀藩ゆかりの地から移築復元されたもので、国指定重要文化財の旧松下家住宅、旧鯖波本陣石倉家住宅​、重要有形民俗文化財の旧園田家住宅​をはじめ、すべての建物が石川県・金沢市の有形文化財に指定されてきました。農家、商家、武家屋敷などを比較して見ることが出来、茅葺き農家の燻蒸や、体験講座、障子貼りなど、さまざまな活動を行っていて、参加することも可能です。

【兜造り多層民家】(かぶとづくりたそうみんか)

 山形県の月山山麓に多く見られた形式です。月山山麓の田麦俣集落は六十里越街道の要所で、江戸時代に湯殿山への参拝が盛んになると、宿場的性格を帯びました。昔の兜造り多層民家の内部は1階が主に家族の居住用、2階が下男たちの居住用と作業場・物置、3階が養蚕と作業用の「厨子」、さらにその上が物置用の「天井厨子」となっていました。その中で、この地方独特の茅葺き民家が建てられるようになりました。しかし、現在田麦俣に現存する兜造り多層民家は県指定重要文化財に指定されている「旧遠藤家住宅」と「かやぶき家(民宿)」の2軒だけになってしまい、大変貴重なものです。これ以外に、山形県鶴岡市の「致道博物館」に移築された国指定重要文化財の旧渋谷家住宅があります。

兜造り多層民家「旧遠藤家」(山形県鶴岡市田麦俣) 兜造り多層民家「かやぶき家」(山形県鶴岡市田麦俣)

【茅葺き屋根】(かやぶきやね)

 茅(ススキ、チガヤ、ヨシ、スゲなどの総称)で葺いた屋根のことです。東北地方以西の民家では、昔から多く用いられてされてきましたが、用材の入手難や職人不足、他の屋根材の普及等により、近年は著しく減少しています。

岩瀬湯本の茅葺き屋根の民家(福島県岩瀬郡天栄村) 門出の茅葺き屋根の民家(新潟県柏崎市高柳町)

【刈羽民家】(かりわみんか)

 新潟県刈羽郡南鯖石村大沢(現在の柏崎市大沢)にあった江戸時代の建築とされる農家です。主屋の土間前方に入母屋屋根の別棟(厩)を突出させる中門造と呼ばれる形式で、間口10m、奥行10mの3間取平面を持っていました。内部は天井を張らずに梁組をみせ、座敷だけを転根太床としていますが、他はすべて寒冷対策のため床を作らず、土間床になっていて、古風な形式を伝えています。太平洋戦争後に設立された北方文化博物館(旧千町歩地主伊藤邸)に移築され、2000年(平成12)には、伊藤邸主屋をはじめとした主要建造物と共に、国の登録有形文化財になりました。

刈羽民家の外観 刈羽民家の土間床の内部

【喜多家住宅】(きたけじゅうたく)

 石川県羽咋郡宝達志水町北川尻にあり、喜多家は十村役(十ヶ村の総庄屋のこと)をつとめた豪農でした。新田氏の子孫が、能登守護畠山氏に仕え、江戸時代前期の1638年(寛永15)に北川尻に百姓として移住したと伝えられています。本家は、河北郡倉見村(現在の津幡町倉見)に移りましたが、ここは分家として残り、1819年(文政2)から十村役を勤めました。宅地は、砂地の敷地の一部をやや低く掘り下げて造成され、周囲は広大な屋敷林となっている豪壮な構えです。主屋・表門・道具倉・味噌倉は江戸時代後期から末期に建てられたもので、1852年(嘉永5)の藩主巡検のおりには、本陣に使用されました。主屋は、切妻造り、妻入りで、藩主を迎えるに当たっての大式台(藩主専用の玄関)等が設けられています。東面する主屋の東に表門、その南に米倉、主屋の西に道具倉・味噌倉を配し、今日まで残されていました。大変貴重なものなので、1971年(昭和46)に、主屋・表門・道具倉が国の重要文化財の指定をうけ、1983年(昭和58)に、味噌倉、宅地及び山林が追加指定されました。資料館が併設されていて、加賀藩からの拝領品などさまざまな文化財が展示されています。

喜多家住宅の入口 喜多家住宅の表門(長屋門)

【旧有路家住宅】(きゅうありじけじゅうたく)

 山形県最上郡最上町にあり、江戸時代中期に建てられた、当時の庄屋の家でした。1689年(元禄2)5月15日(新暦では7月1日)に、俳聖松尾芭蕉は門人の曾良と共に、2泊した「封人の家」として有名です。その時のことが、紀行文『おくのほそ道』に、「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿を求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。蚤虱馬の尿する枕もと」と書かれました。この建物は、茅葺の寄棟造りで、南面に切妻破風が付き、桁行25.5m、梁間11.2mある大型民家で、役宅でもあり、問屋や旅館としての機能も備えていたと考えられています。松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅で泊まった、唯一現存する建物ものとして、江戸中期大型民家の遺構としても、大変貴重なので、1969年(昭和44)に、国の重要文化財に指定されました。その後、1971年(昭和46)から2年かけて解体復元修理が行われ、建築当初の姿に復原したものです。現在は、最上町所有の建造物となり、一般公開されていて、内部には、関係する資料も展示されています。また、家の前に、松尾芭蕉が止まった時に詠んだ句碑「蚤虱 馬の尿する 枕もと」が立っています。

旧有路家住宅(封人の家) 旧有路家住宅の囲炉裏

【旧安西家住宅】(きゅうあんざいけじゅうたく)

 上総国望陀郡草敷村(現在の木更津市草敷)にあった江戸時代中期(18世紀)の建築と推定されている民家です。安西家は草敷村の村役人(組頭)を務めた農家で、建築当初は、居住部分と土間がそれぞれ別棟となった分棟型でしたが、江戸時代末期に現在の直屋型に改築されました。寄棟屋根の茅葺き平入りで、間口13間、奥行5間あり、上総地方最大級の民家の一つとされています。間取りは、右側に座敷を並べ、土間寄りに「ひろま」をとり、奥に「仏間」と「なんど」を設け、上屋構造は、正面と座敷側の軒を張り出す「せがい造り」となっていました。1981年(昭和56)に木更津市指定文化財となり、翌年に太田山公園内に移築復元されています。

旧安西家住宅の妻側 旧安西家住宅の裏側

【旧安間家住宅】(きゅうあんまけじゅうたく)

 兵庫県丹波篠山市西新町にある、江渡時代後期の1830年(天保元)以降に建てられた武家屋敷です。安間家は篠山藩主青山家の家臣で、「高十二石三人扶持」の禄を得ていて、通称「御徒士町」と呼ばれる武家屋敷群の一角にあり、標準的な徒士住宅でした。母屋、土蔵、門からなり、母屋は茅葺屋根の曲屋形式で、正面を東に向け、間口六間半(約13m)、奥行七間半(約15m)、延べ床面積は131.35㎡あります。部屋割は正面に向かって玄関、右奥に庭園に面した八畳の座敷を配置し、 玄関奥には台所、座敷の奥に仏間、居間が続き、庭にある土蔵は瓦葺、門は茅葺とされていました。1994年(平成6)に篠山市指定文化財となり、翌年3月にかけて全面的な改修を行って史料館としてオープンし、母屋内には、古文書や当時の家具・食器、武具など、土蔵には丹波焼の古陶器が展示してあります。

旧安間家住宅の門 旧安間家住宅の外観

【旧遠藤家住宅】(きゅうえんどうけじゅうたく)

 山形県鶴岡市田麦俣にあり、この地方独特の茅葺きの多層民家です。田麦俣集落は六十里越街道の要所で、江戸時代に湯殿山への参拝が盛んになると、宿場的性格を帯びました。その中で、この地方独特の茅葺き民家が建てられるようになったのです。昔の兜造り多層民家の内部は1階が主に家族の居住用、2階が下男たちの居住用と作業場・物置、3階が養蚕と作業用の「厨子」、さらにその上が物置用の「天井厨子」となっていました。しかし、現在田麦俣に現存する兜造り多層民家は隣の民宿「かやぶきや」と2軒だけになってしまい、大変貴重なものなので、1974年(昭和49)に、山形県有形文化財の指定をうけ、現在は市有建造物となっています。

旧遠藤家住宅の外観

【旧清田家住宅(椎葉の民家)】(きゅうきよたけじゅうたく)

 宮崎県東臼杵郡椎葉村にあった、江戸時代後期の1864年(元治元)に建てられた民家です。寄棟茅葺屋根の平入りの直家で、床面積は137.97㎡ありました。宮崎県北西部に分布する典型的な並列型農家で、部屋を一列に横に並べる間取りで、三つの部屋(コザ、デイ、ウチネ)と土間からなり、手前には板縁が通っています。1976年(昭和51)10月~翌年3月にかけて、宮崎県宮崎市の「宮崎総合博物館」に隣接する民家園へ移築復元され、1977年(昭和52)4月1日に宮崎県指定有形文化財となって、公開されました。

旧清田家住宅の外観 旧清田家住宅の板縁

【旧黒木家住宅】(きゅうくろきけじゅうたく)

 宮崎県西諸県郡高原町にあった、江戸時代後期の1834年(天保5)から2年間かけて建てられた民家です。旧鹿児島藩領に属し、発見された墨書によって、郡奉行の御用宿を勤めたことがわかりました。旧鹿児島藩領に分布する典型的な分棟型農家で、寄棟茅葺屋根の平入の居室部(おもて)と妻入の土間部分(なかえ)の2棟からなっています。居室部は69.62㎡、土間部分は62.26㎡あり、梁には大きな角材を使い組み方はかなり進んでいました。重要な建築物なので、1973年(昭和48)2月23日に国指定重要文化財となり、1974年(昭和49)から翌年にかけて、宮崎県宮崎市の「宮崎総合博物館」に隣接する民家園へ移築復元されて公開されています。

旧黒木家住宅の外観 旧黒木家住宅の分棟接合部

【旧黒木家住宅(米良の民家)】(きゅうくろきけじゅうたく)

 宮崎県児湯郡西米良村大字竹原にあった、江戸時代後期の1821年(文政4)頃に建てられたとされる民家です。山間の三段石積みの上に建てられていたもので、母屋は寄棟茅葺き屋根の平入りの直家で、床面積は79.15㎡あり、隣接する馬屋は寄棟茅葺き屋根の平入りで、床面積35.18㎡ありました。外観、間取りなどに古い西米良の農家の形が残され、「ウチネ」、「コザ」、「シモハラ」からなる広間型の形式となっています。1972年(昭和47)10月~翌年3月にかけて、宮崎県宮崎市の「宮崎総合博物館」に隣接する民家園へ移築復元されて公開、1977年(昭和52)4月1日に宮崎県指定有形文化財となりました。

旧黒木家住宅(西米良の民家)の馬屋と母屋 旧黒木家住宅(西米良の民家)母屋の外観

【旧沢崎家住宅】(きゅうさわざきけじゅうたく)

 片貝川上流の富山県下新川郡平沢村(現在の魚津市平沢)にあった、江戸時代後期(安政年間)に建てられた、杣を生業とした人々(木材を伐採するきこり)の住宅です。当時の新川地方山間部の一般的民家型式を、ほとんど手を加えることなく今に伝えている県内でも数少ない貴重な建築物でした。茅葺入母屋屋根の平入りで、桁行6間(約11m)、梁間3間半(約6m)、正面の縁側に桟瓦葺きの下屋庇がある建物です。内部は広間(オイ)を中心に、右側(上手)に畳敷きの座敷と寝室(ねま)を置き、左側(下手)が土間(ニワ)空間(上部が中2階)となる広間型でした。天井には笹竹の竹すのこがもちいられており、奥の水屋(台所)へは外の谷川から清流を引き入れ、風呂場用としても使われています。貴重な建物なので、1973年(昭和48)に「魚津歴史民俗博物館」敷地内(天神山城の城跡)に移築保存の上、一般公開され、翌年には富山県指定有形文化財になりました。

旧沢崎家住宅の外観 旧沢崎家住宅の広間

【旧永島家住宅】(きゅうながしまけじゅうたく)

 京都府竹野郡丹後町字徳光にあった農家の主屋です。当家は18世紀中頃に永島勘兵衛家より分家、1796年(寛政8)の2代信麿の時に大庄屋役を拝命、苗字帯刀も許され、4代目浅治郎が、1839年(天保10)に再び大庄屋職を拝命した、翌年に当建物に建て替えられていることから、役儀拝命に関わる普請と考えられてきました。茅葺きの入母屋屋根で、丹後地方民家特有の「平入り広間型三間取り」が「整形四間取り」へと変化した初期の建物の特徴を持っています。中に入るとまずはおくどさんのあるニワで、囲炉裏のあるナベザ、ナンド、オクナンド、ダイドコロにオモテと5間あり、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられていました。1994年(平成6)に京都府指定有形文化財となり、翌年に「京都府立丹後郷土資料館」に隣接する史跡公園内に移築復元されています。現在は、「身近な道具」、「手作り和紙作品」等の展示のほか、「紙すき」などの丹後の手仕事体験教室も行なわれています。

旧永島家住宅の外観 旧永島家住宅の入母屋屋根

【旧奈良家住宅】(きゅうならけじゅうたく)

 秋田県秋田市金足小泉にある、江戸時代中期の宝暦年間(1751~63年)に建てられた上層の民家です。奈良家は弘治年間(1555~58年)に大和国の生駒山麓小泉村から現在の潟上市昭和豊川に移住し、江戸時代には約10km南の現在の場所に移転したものと伝えられてきました。奈良家9代善政(喜兵衛)の時に、3年の歳月と銀70貫を費やして建築された大型農家で、母屋は寄棟茅葺き屋根の両中門造り(上手中門は座敷、下手中門は馬屋)、桁行12間(7.3m)、梁間7間(9.1m)、延床面積は424.05㎡あります。部屋の平面は広間側の形式をもち、壁は板壁仕上げで、鉋仕上げ・チョウナ仕上げによる部材などから、古風なつくりを感じさせます。また、明治から昭和にかけて建設された付属施設として、味噌蔵、座敷蔵、文庫蔵、南北米倉、明治天皇北野小休所(移築)、和風住宅なども現存してきました。秋田県中央沿岸部の大型農家建築物を代表する貴重なものなので、1965年(昭和40)5月29日に、母屋は国指定重要文化財となり、2006年(平成18年)3月に、付属施設は、登録有形文化財に登録されています。現在は、「秋田県立博物館」の分館として公開され、内部には民具などが展示されてきました。

旧奈良家住宅の外観 旧奈良家住宅の内部

【旧藤田家住宅】(きゅうふじたけじゅうたく)

 宮崎県北西部五ヶ瀬町にあった、江戸時代後期の1787年(天明7)頃に建てられた民家です。寄棟茅葺き屋根の平入りの直家で、桁行11.6m、梁間7.8m、床面積は90.44㎡ありました。高千穂地方山間部にみられる並列型の間取りで、「オモテ」と「ヘンヤ」の二室からなっています。九州中南部では古く、この地方の民家の古い形式を伝える数少ない建物で、資料的価値が高いとされ、1973年(昭和48)2月23日に、国指定重要文化財となりました。1977年(昭和52)10月から1年かけて、宮崎県宮崎市の「宮崎総合博物館」に隣接する民家園へ移築復元の上、公開されています。

旧藤田家住宅の外観 旧藤田家住宅の前面

【旧古井家住宅】(きゅうふるいけじゅうたく)

 兵庫県姫路市にあり、戦国時代の建築と推定される古民家で、“古井千年家”の通称をもっています。1967年(昭和42)に、国の重要文化財に指定され、解体修理して建築当初の形にし、「千年家公園」として一般公開されました。入母屋造り、茅葺き屋根の農家で、入口には馬屋があり、この家の床下には亀石という大きな岩があり、厄除けとしてまつられています。この時代の現存する民家として大変貴重なもので、当時の農民の暮らしを知る上では重要です。

旧古井家住宅の外観 旧古井家住宅の内部

【旧目黒家住宅】(きゅうめぐろけじゅうたく)

 新潟県魚沼市須原にあり、江戸時代後期の1797年(寛政9)に目黒家11代五郎助が建てた割元庄屋(大庄屋職)の役宅をかねた豪農住宅です。木造平屋建一部2階建の茅葺で、主家は寄棟造りですが、中門部は入母屋造りとなっています。桁行7.4m、梁間6.1mの豪壮な規模で、豪農地帯の農家の特徴を備え、近世村役人層の住宅として、槍の間、中の間、奥座敷、小座敷、奥小座敷などの接客空間も整えられ、格式の高さが感じられるのです。また、表は旧会津街道に面し、街道沿いに石垣が築かれ、冠木門があるなど、どっしりとした屋敷構えです。隣接する銅板葺、寄棟造の離れ座敷は目黒家最盛期の1901年(明治34)に建てられたものです。1920年(大正9)には、2郡6ヶ村に及んで農地165町歩を有する大地主で、小作人総数は325人でした。1974年(昭和49)に、主屋・新蔵・新座敷などが国の重要文化財に指定され、1978年(昭和53)と1993年(平成5)に宅地等が追加指定されています。尚、隣接して「目黒邸資料館」が建てられていて、目黒家に江戸時代の初期から伝えられてきた古文書、大庄屋の諸用具・生活用具等や地方近代化の資料が展示してあります。

目黒家住宅主屋の外観 目黒家住宅主屋の囲炉裏

【旧山中家住宅】(きゅうやまなかけじゅうたく)

 愛媛県宇摩郡別子山村(現在の新居浜市別子山)にあった江戸時代中期(18世紀中頃~後半)に建てられたと推定される民家です。この民家の由緒は明らかではありませんが、高知県境に近い四国中央山地にあり、山村民家によくみられる、部屋を一列に並べる間取りで、入母屋屋根の茅葺きの直家で、外壁は板張りとなっていました。建物は、桁行七間(14.752m)、梁間三間半(7.009m)、棟高7.733m、床面積99.537㎡の規模で、向かって左側に出入口を取っています。部屋割は大きく三分割され、正面向かって右より「ざしき」、中央が「おもて」、一番左が「ちゃのま」で「ちゃのま」の奥に「おく」と呼ばれる小部屋があり、土間が狭いのが特徴となっていました。この系統の中では古く、保存状態も良いことから、1970年(昭和45)6月17日に国の重要文化財に指定され、旧・美川村が「愛媛県立岩陰文化の里」整備事業の一環として旧・別子山村より譲り受け、1975年(昭和50)に、愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩に移築復元されています。

旧山中家住宅の外観 旧山中家住宅の内部

【旧横田家住宅】(きゅうよこたけじゅうたく)

 長野県長野市松代町にあり、江戸時代後期の18世紀末から19世紀中頃に建てられた中級武士の武家屋敷です。横田家は、松代藩の禄高150石の中級武士で郡奉行などを努めた家で、最後の甚五左衛門は表御用人でした。「富岡日記」で知られる和田英をはじめ、幕末から昭和時代にかけて最高裁判所長官、鉄道大臣など多くの人材を輩出しています。屋敷地は、間口約40m(22間合)、面積3,340.82㎡(約1,012坪)が残されていて、主屋は1794年(寛政6)、表門は1842年(天保13)に建てられ、隠居屋は、1820年(文政3)頃移築されたものと推定され、土蔵2棟と遠山を借景とする庭園・菜園がありました。武家住宅の代表例で、土間・座敷・縁側・お勝手・庭など邸内の随所から、当時の武士の暮らしぶりがうかがえます。往時の中級武士の住宅の特徴がよく残され、全国的にも貴重な遺構なので、1986年(昭和61)に国の重要文化財に指定されました。その後、長野市が保存・修景工事を行い、1992年(平成4)から一般公開されています。

旧横田家住宅主屋の外観 旧横田家住宅主屋の玄関

【切妻屋根】(きりづまやね)

 伝統的な民家の屋根の形式の一つで、本を開いて伏せたような形をしていて、切妻造りともいいます。屋根の頂部の水平な大棟から両側に葺きおろし,その両端を棟と直角に切ったもので、古くは、伊勢神宮や出雲大社などの神社に用いられました。世界各地に広く分布する基本的な形式の屋根です。

切妻屋根の合掌造り民家 切妻屋根の模式図

【くど造り】(くどづくり)

 日本の民家の建築様式の一つで、寄棟造りの草屋根の棟がくど(かまど)のようにコの字形をして、台風に強い構造を持っていました。2間梁の上に扠首(さす)を上げて屋根を組みあげるのが特色です。この民家形式は、熊本県北部から筑後川流域、佐賀県の有明海沿いにかけて分布していましたが、現在はほとんどが姿を消しました。代表的なものとして、川打家住宅(佐賀県多久市)や平川家住宅(福岡県うきは市)、旧矢羽田家住宅(大分県日田市)が国指定重要文化財となっています。

平川家住宅(福岡県うきは市) くど造り民家の模式図

【四国村(四国民家博物館)】(しこくむら)

 香川県高松市の屋島山麓に1976年(昭和51)オープンしたもので、四国にあった古い民家の建物などが展示される野外博物館です。約3万㎡の広大な敷地に移転・復元された江戸~明治時代の民家や蔵が30数棟立ち並び、内部には当時の暮らしぶりを伝える民具も展示されて、有料で公開されています。その中に、国指定重要文化財の旧河野家住宅、旧下木家住宅他、登録有形文化財や県・市指定文化財の古民家が移築されています。

【重要伝統的建造物群保存地区】(じゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)

 城下町、宿場町、港町、農漁村集落など伝統的建造物群およびこれと一体をなしてその価値を形成している環境を保存するため、市町村が都市計画区域内では都市計画によって、都市計画以外の区域では、条例によって定める「伝統的建造物群保存地区」のうち、当該市町村の申出にもとづき、その保存地区の全部または一部で我が国にとって、その価値が特に高いものとして、「文化財保護法」に基づき、文部科学大臣が選定した地区のことです。1975年(昭和50)に、「文化財保護法」が改正され、同法第1章総則のなかで文化財の定義を定めた第2条に、新たに「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの」を「伝統的建造物群」と名づけて文化財の一種に位置づけました。さらに、「伝統的建造物群保存地区」に関する規定をまとめて第5章の2とし、伝統的建造物群およびこれと一体をなしてその価値を形成している環境を保存するため「伝統的建造物群保存地区」として、市町村が地域地区として都市計画もしくは条例で定めることとします。その中で、第144条の規定に基づき、国(文部科学大臣)は市町村からの申し出を受けて、国にとって価値が高いと判断したものを「重要伝統的建造物群保存地区」に選定し、修理や防災などに対する補助や税制優遇などの支援を行うことになりました。それを受けて、1976年(昭和51)7月23日に文化財保護審議会が初めて7ヶ所(角館町武家屋敷・南木曽町妻蘢宿・白川村荻町・京都市祇園新橋・京都市産寧坂・萩市堀内地区・萩市平安古地区)を重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出し、同年9月4日付で選定されます。その後、1980年(昭和55)末には12市町村の15地区、1990年(平成2)末には24市町村の29地区、2000年(平成12)末には84市町村の102地区へと増加しました。さらに、2018年(平成30)末現在では、43道府県98市町村の118地区(合計面積約3,924.9ha)あり、約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

【チセ】(ちせ)

 北海道や千島列島、樺太の先住民族であるアイヌの集落(コタン)にある伝統的な住居建築です。3間×4間、または2間×3間の1室造りで、セム(前室・玄関兼物置)と呼ばれる張り出しが付いた間取りです。構造は、掘っ立て柱を立て、柱に梁・桁を載せ、屋根を支えた寄棟の家屋となっています。屋根や壁は、茅・笹・葦などの材料で葺いていて、内部の中央やや入口寄りに炉を切り、火棚もつられています。

ポロトコタンのチセ(北海道白老郡白老町) ポロトコタンのチセの家並

【中門造り】(ちゅうもんづくり)

 日本の民家の建築様式の一つで、主屋の一部に中門と呼ばれる突出部をもつもので、突出部には主屋への通路、厩(馬屋)、便所等を設けたり、物置に用いたりしていました。北陸地方から東北地方の日本海沿岸地域に多く見られましたが、雪の積もった冬に出入りがしやすいように、玄関部分を出っ張らせたものだと言われています。現在は、少なくなってきていますが、福島県南会津郡南会津町の前澤集落には、古い中門造りの民家が多く保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、旧目黒家住宅・旧佐藤家住宅(新潟県魚沼市)、旧奈良家住宅(秋田県秋田市)、鈴木家住宅(秋田県雄勝郡羽後町)、旧矢作家住宅(山形県新庄市)などの中門造り民家が、国指定重要文化財として保存されていて見学することも可能です。

中門造りの民家(福島県南会津郡南会津町前澤) 旧目黒家住宅(新潟県魚沼市) 

【坪川家住宅】(つぼかわけじゅうたく)

 福井県坂井市丸岡町にあり、江戸時代前期の17世紀中頃に建てられたと考えられる古民家で、「千古の家」と呼ばれています。坪川家先祖の坪川但馬丞貞純は、北面の武士で、源三位頼政の後裔と伝えられる旧家で、この地に定住してからは、集落をつかさどる7人の「名司」の筆頭としての高い家格を持っていました。建物の正面が入母屋造り、背面が寄棟造りの茅葺屋根で妻入となり、外回りは杉皮張りの壁となっています。主な柱は栗材で、柱や梁の仕上げが丸刀の手斧を使ったままであること、そして股柱が三本も使われていることから、古い建築様式がうかがえます。福井県に残る民家の中で最も古く、全国的にも貴重な古民家のひとつなので、1966年(昭和41)6月11日に国の重要文化財の指定を受けまいた。また、庭園は国登録記念物となっていて、四季折々の風情があり、6月中頃には、隣接する菖蒲園できれいな菖蒲の花が咲き誇ります。

坪川家住宅の外観 坪川家住宅の内部

【妻入り】(つまいり)

 建物の妻側(棟木と直角の面)に、出入口のある建物のことです。民家にも、京都などの町屋や北陸方面の白川郷合掌造り、兜造りなどにみられますが、神社建築では大社造、住吉造、春日造がこの形式です。

近江風土記の丘の妻入りの旧宮地家住宅(旧滋賀県長浜市国友町) 妻入りの模式図

【奈良県立大和民俗公園】(ならけんりつやまとみんぞくこうえん)

 奈良県大和郡山市の都市公園で、「奈良県立民俗博物館」に付属する、日本の古民家を中心とした野外博物館となっています。1975年(昭和50)度に都市計画決定を受けて整備を開始し、26.6haの広大な敷地の中に、江戸時代の伝統的な家屋(民家・土蔵)11件(15棟)を県内から移築・復元の上、公開してきました。古民家は、町屋集落、国中集落、宇陀・東山集落、吉野集落と数軒ずつの4つのブロックに分けられ、国指定重要文化財の旧臼井家住宅、旧岩本家住宅をはじめ、7件(10棟)の奈良県指定有形文化財の民家など貴重な建物が並んでいます。園内は、里山を活かしながら梅林(蝋梅、紅梅、白梅と3種類約140本)や菖蒲園などが整備され、森林浴・ウォーキングなども楽しめ、各種イベントも開催されてきました。

【南部曲り家】(なんぶまがりや)

 日本の民家の建築様式の一つで、L字形の平面をした家屋で、母屋と厩(馬屋)が一体化しているものを曲り家(曲屋)といい、南部地方(岩手県)に多く分布していたのでこの呼び方がされていました。この地方のものは、寄せ棟づくりの屋根がカギ型に連なり、馬屋が母屋と一つになっているのが特徴で、冬は馬が寒かろうと家のなかに取り込んだと言われていますが、現存するものは少なくなっています。岩手県北上市の「みちのく民俗村」には、南部地方の民家20数棟が移築公開されていますが、その中に、旧北川家住宅と旧星川家住宅の2棟の曲り家があって、内部まで見学できます。また、岩手県遠野市の「遠野伝承園」にも、曲り家の国重要文化財旧菊池家住宅があって、見ることが可能です。

みちのく民俗村の旧北川家住宅 みちのく民俗村の旧星川家住宅 

【日本民家園】(にほんみんかえん)

 神奈川県川崎市多摩区の生田緑地にある、日本の古民家を中心とした川崎市立の野外博物館です。1967年(昭和42)に開園、敷地は約180万㎡あり、市内の民家をはじめ、主に東日本の茅葺屋根等の民家25棟が移築復元され、本館展示室では、これらの民家に関する基礎知識を学ぶこともできるようになりました。園内は、「神奈川の村」、「関東の村」、「東北の村」、「信越の村」、「宿場」の5エリアに分けられ、それぞれ数棟ずつがまとまっています。その中に、国指定重要文化財7件(9棟)、重要有形民俗文化財1件(舞台)をはじめ、県・市の文化財指定をすべて受けていて、日本を代表する古民家の野外博物館とされてきました。藁・竹細工や機織りなどの伝統的な民具製作技術の保存・継承活動を行う「伝統工芸館」も併設しています。

【日本民家集落博物館】(にほんみんかしゅうらくはくぶつかん)

 大阪府豊中市の服部緑地内にある、日本の古民家を中心とした野外博物館です。日本最初の野外博物館として1956年(昭和31年)に開館、約3万6千㎡の敷地内に、北は岩手県「南部の曲家」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで12棟の江戸時代(17~19世紀)の山村農家を中心に移築・復元してきました。国指定重要文化財3棟、国指定重要有形民俗文化財1棟を含め、すべてが指定文化財となっています。関連民具も合わせて展示され、それぞれの建物にゆかりの行事や公演なども行なわれてきました。

【博物館明治村】(はくぶつかんめいじむら)

 愛知県犬山市の入鹿池湖畔にあり、明治時代の建物などが展示される野外博物館です。1962年(昭和37)に財団法人として発足し、1975年(昭和40)3月18日開村しました。現在は、11棟の国指定重要文化財を含む、全67棟の明治時代の建物などが100万㎡の広大な敷地に建ち並び、有料で公開されています。その中に、国指定重要文化財の旧東松家住宅​、登録有形文化財の旧幸田露伴住宅蝸牛庵、旧森鷗外・夏目漱石住宅、旧芝川家住宅主屋などの古民家が移築されています。

【箱木家住宅】(はこぎけじゅうたく)

 兵庫県神戸市北区山田町にあり、室町時代の建築と推定される日本最古の民家で、“箱木千年家”の通称をもっています。1967年(昭和42)に、国の重要文化財に指定されましたが、1977年(昭和52)に、呑吐ダムの建設に伴ない、約60m南東の現在地に移築されることになり、建物の解体調査と地下部分の発掘調査が行われました。その結果、主屋は少なくとも室町時代前半に遡るものと判定され、離れは江戸時代中期のもので、1979年(昭和54)にかけて、それぞれ建設当初の姿に移築復元されます。主屋は、茅葺入母屋造の屋根で内部は半分ぐらいが馬屋をともなった土間になり、床を張った部分は、表側の細長い室(おもて)と裏側の囲炉裏のある居間(ひろしき)、およびその奥の納戸から構成されていました。室町時代の現存する民家として大変貴重なもので、当時の農民の暮らしを知る上では重要です。

箱木家住宅の外観 箱木家住宅の内部

【平入り】(ひらいり)

 建物の平側(棟木と平行の面)に、出入口のある建物のことです。民家には、一般的に見られ、全国的に多くありました。

奥会津博物館の平入の旧杉原家住宅(福島県南会津郡南会津町) 平入りの模式図

【福島市民家園】(ふくしましみんかえん)

 福島県福島市のあづま総合運動公園内にある、日本の古民家を中心とした野外博物館です。1979年(昭和54)より文化財保存施設および教育施設として建設が進められ、1982年(昭和57)に開園、敷地は約110,000㎡あり、主に福島県県北地方の江戸時代から明治時代の建物を移築・復元してきました。国指定重要文化財の芝居小屋旧広瀬座、県指定文化財の旧阿部家住宅、旧奈良輪家住宅、旧菅野家住宅をはじめ、商人宿、料亭、板倉、民家など10数棟が公開されています。また、園内には生活・生産用具を展示し、庭や畑と共に当時の生活環境を再現、時節にあわせて年中行事の再現やわら細工等の体験行事などの伝承活動も行ってきました。

【富士系合掌造り】(ふじけいがっしょうづくり)

 山梨県から東京都多摩地方に分布し、屋根の形が兜に似ているところから、かぶと式、カブト造りともいわれますが、正式には「富士系合掌造り」と呼ばれています。この形式の民家は、入母屋の二重兜造りという屋根が特徴で、内部は四層に仕切られおり一階と二階は普通の部屋、その上に三階と四階の板の間になっています。ここも昔は、養蚕が盛んに行われた為に、上層に養蚕室を持った多層構造の大型民家に発展し、外光を取り込む為にこのような兜造りとなったとのことです。この建物は、クギをほとんど使わず木と木を組み合わせる建築構造になっていました。戦前まで東京都桧原村数馬の家は、この合掌造りがほとんどだったそうですが、現在では、完全な合掌造りは4軒を残すのみとなっています。

富士系合掌造り民家(東京都檜原村数馬)

【二棟造り】(ふたむねづくり)

 日本の民家の建築様式の一つで、オモテ、ナカエと呼ばれる二つの棟を一家屋として使う形式で、「ハレ」(公開の、儀礼的な)部分と「ケ」(日常の、私的な)を分けているのが特徴です。太平洋沿岸の房総半島、東海、四国、九州から沖縄まで分布していますが、二つの棟が互に接近して軒を接するものの、内部的には未だ連結されることがなくて完全に独立する揚合(分棟型)と両者間が連結されて一体化する場合(合体型)とに大きく分類されてきました。多くは高床と土間の組み合わせですが、鹿児島の場合は二つの棟とも高床式で、床をつなぐ場合には段差を設けて接続されます。代表的なものとして、二階堂家住宅(鹿児島県肝属郡肝付町)や望月家住宅(愛知県新城市)、日本民家園の旧作田家住宅(旧千葉県山武郡九十九里町)などが国指定重要文化財になっています。

奄美博物館へ移築復元された古仁屋の民家(鹿児島県奄美市) 二棟造りの二階堂家住宅(鹿児島県肝属郡肝付町)

【堀内家住宅】(ほりうちけじゅうたく)

 長野県塩尻市堀ノ内にあり、堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農でした。堀内家住宅は、江戸時代後期の1815年(文化12)に、下西条村の川上家の分家を移築したものと伝えられています。母屋は、約200年前の18世紀後半頃のものと考えられる本棟造りの建築で、桁行18.4m、梁間18.2m、一部2階、切妻造、妻入、南面庇付、板葺石置屋根でした。約1,000坪の敷地が旧中山道に南面し、正面に冠木門を構え、広い敷地に長々と板塀をめぐらしていて、ゆったりと広く、ケヤキの大木などが生い茂っています。石を置いた長板葺きの緩やかな勾配の妻入り屋根に、棟飾りの「雀踊り」がついているのが特徴で、明治時代初期の改造はありますが、意匠は力強く優れているので、1973年(昭和48)に、国の重要文化財に指定されました。

堀内家住宅正面 堀内家住宅の「雀踊り」

【本瓦葺き】(ほんがわらぶき)

 凹型の平瓦と凸型の丸瓦とを交互に組み合わせて並べる屋根の葺き方です。歴史的には、中国から朝鮮半島を経由し、約1,500年前の飛鳥時代に寺院建築の技術とともに伝来した形式でした。主に寺院の屋根に多く用いられてきましたが、宮殿、城郭建築、役所・役宅や上層の民家の屋根などにも用いられています。

本瓦葺き民家の屋根 本瓦葺きに用いる平瓦と丸瓦

【本間家旧本邸】(ほんまけきゅうほんてい)

 山形県酒田市にあり、江戸時代中期の1768年(明和5)年に三代目・光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として、旗本2,000石の格式をもつ書院造りを建造したものです。その後、拝領し、本間家代々の本邸として使用されてきました。本邸の敷地には大きな長屋門と東側に薬医門があり、桟瓦ぶきの平屋建てとなっていて、本屋は22の間数で、桁行(南北)33.6m、梁間(東西)16.5m、敷地1,322平方メートルあります。本間家は、戦後の農地解放までは、日本一の大地主といわれ、最大時約3;000町歩(3,000ha)の農地を保有し、およそ3,000人の小作人を抱えていたと言われています。本間家初代の原光は、江戸時代中期の1689年(元禄2)に酒田市本町に「新潟屋」を開業し、関西方面の豪商らと、瀬戸物や薬、小判、米など様々な商品取引を通じて、台頭していきました。そして、二代目・光寿、三代目・光丘と繁栄を重ね、江戸時代中期には25万石もの豪農であったそうです。「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌まで読まれたと言われています。明治維新後も繁栄を重ねて、昭和時代前期まで興隆していったのです。旧本邸と長屋門は、1953年(昭和28)に山形県指定有形文化財になりました。1982年(昭和57)から有料で一般公開されていますが、周囲には樹木をうえ、北側に4棟の蔵を配置し、土塀がめぐらされていて、豪壮な構えを見ることができます。

本間家旧本邸 本間家長屋門

【本棟造り】(ほんむねづくり)

 日本の民家の建築様式の一つで、正方形の間取り、板葺きのゆるい勾配の屋根の切妻造・妻入りで、烏威(雀おどし・雀踊り)と呼ばれる棟飾りが特色です。この民家形式は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布し、庄屋や本陣などの住居となっているものが多く見られました。代表的なものとして、長野県内の堀内家住宅(塩尻市)や馬場家住宅(松本市)、曽根原家住宅(安曇野市)、竹ノ内家住宅(下伊那郡高森町)が、国指定重要文化財となっています。

馬場家住宅正面(長野県松本市) 堀内家住宅の「雀踊り」(長野県塩尻市)

【宮崎県総合博物館民家園】(みやざきけんそうごうはくぶつかんみんかえん) 

 宮崎県宮崎市の「宮崎県総合博物館」に付属する、日本の古民家を中心とした野外博物館です。1972年(昭和42)から1978年(昭和53)にかけ、宮崎県内より古民家(江戸時代後期)を移築・復元しました。現在は、国指定重要文化財の旧黒木家住宅、旧藤田家住宅、県指定文化財の旧清田家住宅(椎葉の民家)、旧黒木家住宅(米良の民家)の4棟が公開され、ボランティアによって、見学者の案内やイベントなどが行われています。

【民家野外博物館】(みんかやがいはくぶつかん) 

 野外博物館は、建築物の集合体や、展示物が屋内ではなく、屋外にあり、見たり触ったりで体験して学んでもらうことに主眼を置いた博物館ですが、その中でも民家を主体にし、その家の中に民俗関係の資料を展示したり、生活の様子をわかるようにしてある施設をこう呼んでいます。

【大和棟】(やまとむね)

 日本の民家の建築様式の一つで、急勾配の藁葺き屋根の両妻部分を瓦葺きにして、一段低く緩勾配の屋根を設けたもので、両妻側が壁土または白漆喰で塗り込めてあり、高塀造りとも呼ばれています。奈良盆地・大阪府河内地方・三重県伊賀地方に多く見られ、切妻の白い漆喰壁と屋根の対象性が美しく、江戸時代には大庄屋、庄屋層などの家の格式を示す形式でした。明治時代以降は一般農家にも普及するようになりましたが、冬の乾燥期の火災防止の意図があると考えられます。代表的なものとして、吉村家住宅(大阪府羽曳野市)や中家住宅(奈良県生駒郡安堵町)、藤田家住宅(奈良県生駒郡平群町)、高林家住宅(大阪府堺市北区)などが国指定重要文化財となっています。

大和棟の桃林堂板倉家住宅(大阪府八尾市) 大和棟の吉村家(大阪府羽曳野市)

【寄棟屋根】(よせむねやね)

 棟木に四方向の屋根勾配面が取りつけられた屋根で、四柱屋根とも言われます。構造的に簡単ですが、荘重な感じがあり全国に広く分布してきました。

寄棟屋根の旧大竹家住宅(福島県南会津郡南会津町) 寄棟屋根の模式図
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