私は、学生時代から各地を旅していますが、その中で特に心に残った紀行文に関わる所を5つ、北から順に紹介します。。
(1)象潟(秋田県にかほ市)
紀行文の白眉、松尾芭蕉著『奥の細道』の目的地の一つで、当時は松島と並び賞される裏日本の景勝地でした。その後、1804年(文化元)の象潟地震で隆起し、島々は陸地と化してしまい、景観が一変してしまいました。今では、島々は水田の中の小山となっていますが、往時を忍ぶことが出来ます。芭蕉が訪れた蚶満寺には、『象潟や雨に西施がねぶの花』の句碑があります。
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象潟の蚶満寺山門(秋田県) |
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松尾芭蕉 |
蚶満寺の芭蕉句碑 |
(2)秋山郷(長野県栄村・新潟県津南町)
『北越雪譜』で知られる江戸時代後期の越後の文人鈴木牧之が、十返舎一九の勧めで書いた『秋山紀行』という紀行文があります。1828年(文政11)秋に、秋山郷の村々を6泊7日で巡った時のことを書いたものです。山村の自然や風土、人々の衣食住から仕事に到るまで、詳細に記録し、民俗学の先駆といわれているのです。百数十年前のものですが、自然の様子はあまり変わっていないようにも思われ、とても興味深いのです。最奥の集落、切明の温泉の様子も記載され、今でも河原に穴を掘って入れる状態に、古を伺うこともできます。また、上野原には、鈴木牧之に因んで造られた「のよさの里
牧之の宿」というのもあり、その当時の秋山郷の暮らしと文化を再現した、本家と400mの廊下で結ばれている7戸の分家で構成されていて、面白い施設です。
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切明温泉の河原の露天風呂(長野県栄村) |
「のよさの里 牧之の宿」の外観(長野県栄村) |
(3)暮坂峠(群馬県中之条町)
若山牧水が1922年(大正11)の旅の途中で、雪景色の中を弟子と2人徒歩で越えたところです。この時の旅は『みなかみ紀行』として発表され、牧水の代表的な紀行文として知られていますが、文中、旅の途中で歌った多くの短歌が散りばめられています。草津温泉から暮坂峠を越え沢渡温泉に至る道端にはその歌碑がたくさん立てられ、自然環境もよく残されていて、当時の旅を追想させる所です。別に、この時の印象を詠った「枯野の旅」という詩が残されていて、これを刻んだ立派な詩碑と牧水の旅姿の像が、1957年(昭和32)峠に立ちました。牧水が通った10月20日には毎年ここで、盛大な牧水祭が催されるといいます。
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暮坂峠(群馬県六合村・中之条町) |
旅姿の若山牧水 |
暮坂峠の牧水誌碑 |
(4)大江天主堂(熊本県天草市)
紀行文『五足の靴』の旅全体のクライマックスで、8月8日に天草下島西海岸で、一行(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里−−五足の靴としゃれている)が苦労して歩いた道の一部が、文学遊歩道として残されています。大江天主堂は建て変わりましたが丘の上にそびえ、周辺には、一行が訪ねたガルニエ神父の墓や胸像が建てられています。天主堂の脇には吉井勇の歌碑があり、この旅を回想して、「白州とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿」と刻まれています。現在では、天主堂に隣接して天草ロザリオ館が建てられ、天草の苦難に満ちたキリシタンの歴史を学ぶことができます。
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大江天主堂(熊本県天草町) |
天草四郎像 |
再建された現在の島原城跡(長崎県島原市) |
(5)都井岬(宮崎県串間市)
ここには、日本民俗学の樹立者といわれる柳田国男が、1920年(大正9)12月にわざわざ野生の「御崎馬(みさきうま)」を見に立ち寄ったことが、紀行文『海南小記』に書かれています。日南海岸国定公園の南端にあたり、太平洋に突きだした風光明媚の地で、野生動物の宝庫ともなっていて、猿や野兎、猪、狸などの姿を見ることが出来るそうです。しかし、なんといっても御崎馬が生息していることで有名です。その先端に、白亜の姿を見せるのが、都井岬灯台で、ここの観光のシンボルともなっていて、雄大な太平洋を望む眺望と「御崎馬」は、格好の被写体となります。この馬は、体高は130pと小柄で、脚の割には胴長で、ずんぐりとした体つきです。馬が草をはんでいる姿を見ただけでほのぼのとした気分になれるのです。
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都井岬に生息する野生の御崎馬 |
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