文学に描かれた岬訪問記

足摺岬
小説「足摺岬」
田宮虎彦著
都井岬
紀行文「海南小記」
柳田国男著
伊良湖岬
詩「椰子の実」
島崎藤村著
安乗崎
詩「安乗の稚児」
伊良子清白著
犬吠埼
詩「犬吠岬旅情のうた」
佐藤春夫著
剱崎
紀行文「岬の端」
若山牧水著
三浦半島城ヶ島
詩「城ヶ島の雨」
北原白秋著
神島シラヤ崎
小説「潮騒」
三島由紀夫著


☆文学と岬

 岬の先端に立って海を眺めていると、言いしれぬ感慨に襲われることがあります。最果ての地に来たという思いと、広大な海と岩礁や木々が造り出す自然の造詣への畏怖といった感じでしょうか。そういう岬に、少なからず文学碑が建っていたりします。先人もこの地に来て、突き動かされるものがあって、文学になったのでしょうか...。そういう所で、あらためて、文学作品を読み直してみるのもいいものです。どちらか言うと韻文の方が似つかわしいような気がしますが、口から自然と出てくるような情景とマッチした詩や短歌などは感慨を深めてくれます。そんな岬を訪れ、文学に心を馳せたときの感想をまとめてみましたので、岬めぐりの参考にしていただければと思います。


☆足摺岬 (高知県土佐清水市)
「烈しくじりじりとやきつく日差をうけて私はまた足摺岬にあるいていった。あの雨の日のことがあって二十日余りたった日であった。蒼い怒濤がはてしもなくつづいて、鴎が白い波がしらを這ってとんでいた。砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨巌いちめんに雨のように降りそそいでいた。巨大な石の孟宗をおし並べたように奇岩が海中に走っている。私はそれをじっとみつめた。だが、私の心に、死のうといった気持ちは不思議にうかばなかった。あまりに日差が明かるすぎたからであろうか。・・・・・・・・」

小説『足摺岬』より 田宮虎彦著
足摺岬と灯台

◇1987年1月1日(木)に訪問する。

 正月休みを利用して、6泊7日で四国一周の旅に出て、3泊目を高知駅前ユースホステルにとり、そこで元旦を迎えました。さらに、国鉄土讃本線に乗って西へ進み、終着中村駅からは、バスに乗り換え、1時間半ほどかかって、ようやく足摺岬へとたどり着きました。それだけに、最果て感が募るところなのです。
 椿の林がトンネルのようになった自然遊歩道が続き、展望台からは、太平洋の黒潮が、岩壁に打ち寄せては砕け散っていて、南国ムードが漂っています。ここは、花崗岩の断崖が蒼海にそそり立つ海食台で、岬の先端の絶壁上に、白亜の足摺岬灯台が立っていますが、モダンなロケット型をしていて意表を突きます。この断崖は、自殺の名所ともなっていて、「飛び込む前に電話をください」という立て札が立ち、無料電話が設置されていました。
 田宮虎彦著『足摺岬』で有名になり、自殺志願者が多く訪れるようになったと聞きました。しかし、この小説の主人公は、この絶壁を前にして、思いとどまり、光明を求めて町へと戻っていったのです。そんな生死の境を漂わせるような、隔絶の地といったムードがあります。

◇2004年11月28日(日)に訪問する。

 2泊3日で、四国一周の岬と灯台めぐりの旅に出かけ、羽田空港から徳島空港へと下り立ったのです。オリックスレンタカーでトヨタのビッツを3日間借りて、いざ四国一周ドライブに出発、初日は、まず南下して海岸線にできるだけ沿って走り、蒲生田岬灯台室戸岬灯台高知灯台を撮影して、須崎市にある桑田山温泉へ泊まりました。
 翌日は、朝8時に宿を立って、山を下り国道56号線に出て南下していき、「ニュー佐賀温泉」のに入浴してから、窪津埼灯台を撮影しました。その後は、車に戻って先端を目指しましたが、道はとても細く、時々白装束のお遍路さんと行き交うことが、四国らしさを感じさせます。
 足摺岬の駐車場に着くととても暖かで、セーターを脱いで、展望台へと向かいました。学生時代以来の再訪となりますが、断崖絶壁上に立つ灯台の姿は変わりません。白亜でロケット型をした足摺岬灯台は、ひときわ目立って佇立していのました。ここでも何枚も写真を撮ってから、遊歩道を通ってさらに灯台へと近づいて行ったのですが、観光名所の椿のトンネルも先の台風で葉が吹き飛ばされていました。灯台下の園地には、田宮虎彦の石碑があって、かの小説『足摺岬』の一説「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌いちめんに 雨のように降りそそいでいた」が刻まれていて、私の好きな小説だけに、感慨深く眺め入っていたのです。遊歩道を巡ってから、四国八十八ヶ所札所の一つ金剛福寺にも参拝して、車へと戻りました。

「足摺岬」田宮虎彦先生文学碑


☆都井岬 (宮崎県串間市)

「それから自分は都井の宮浦に上陸して、牧の野馬を見に岬の鼻まで行った。高鍋藩の経営した、これもいたって古い海の牧場で、いわゆる福島馬の故郷である。今や馬種の改良が盛んに行われている。御崎社内の野生ソテツとともに、「この山の猪捕るべからず」の制札をもって、天然記念物の野猪は保存せられているが、人作の福島馬のみはえらい虐待で、牡はことごとく二歳になる前に、牧から追われて試情馬などの浅ましい生活を送っており、これに代って異国の種馬が、来たって極端の幸福を味わっている。・・・・・・・・」

紀行文『海南小記』より 柳田国男著
都井岬と灯台

◇1994年12月12日(月)に訪問する。

 宮崎市に用事があって来たついでに、1泊2日で大隅半島一周の旅に出て、途中都井岬(といみさき)に立ち寄りました。鹿屋市方面から、志布志湾を回り込み、串間市街を抜けて、岬へと至りました。ここは、日南海岸国定公園の南端にあたり、太平洋に突きだした風光明媚の地です。そして、野生動物の宝庫ともなっていて、猿や野兎、猪、狸などの姿を見ることが出来るそうです。
 しかし、なんといっても野生の「御崎馬(みさきうま)」が生息していることで有名です。その先端に、白亜の姿を見せるのが、都井岬灯台で、ここの観光のシンボルともなっています。雄大な太平洋を望む眺望と「御崎馬」は、格好の被写体となります。この馬は、体高は130pと小柄で、脚の割には胴長で、ずんぐりとした体つきです。馬が草をはんでいる姿を見ただけでほのぼのとした気分になれるのです。かの日本民俗学の樹立者といわれる柳田国男も、1920年(大正9)12月にわざわざこの馬を見に立ち寄ったことが、紀行文『海南小記』に書かれています。

都井岬に生息する野生の御崎馬


☆伊良湖岬 (愛知県渥美町)

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ
 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
 旧の樹は生いや茂れる 枝はなほ影をやなせる
 我もまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂
 海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々 いずれの日にか国に帰らむ


詩集『落梅集』の「椰子の実」より 島崎藤村著
伊良湖岬灯台

◇1997年12月13日(土)に訪問する。

 所用で浜松まで来たついでに、足を延ばして鳥羽まで1泊2日で行ってみることにしました。まず、豊橋鉄道に乗って、田原の町に立ち寄り、田原城跡や崋山神社などを散策したのです。その後は、バス停まで歩いていって、伊良湖岬行を待ちました。バスは定刻より10分程遅れて到着しましたが、ここからの道路はすいていて、右手に三河湾を見ながら順調に走っていきました。福江を過ぎてからは乗っているのは私一人となり、どのバス停にも乗客の影もなく、心地よい日差しを受けて、窓の外には海が広がってきたのです。
 前方に見えるのは、伊良湖岬の恋路ヶ浜です。すぐに、島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌が口をついて出てきました。かの民俗学者柳田国男が、1898年(明治31)夏、この恋路ヶ浜で椰子の実を発見し、東京に帰って親友の島崎藤村に話したところ、この詩が誕生したと言われています。その後、1936年(昭和11)、大中寅二によって作曲され、国民歌謡として全国に放送されて、一躍有名になりました。それで、今でも伊良湖岬と言えば、「椰子の実」が連想されるようになったのです。
 12時過ぎにはフェリー乗場へと到着しましたが、出航時刻にはまだ間があったので3階のレストランでココナッツカレーというのを食べました。この季節、土曜日の午後といえども観光客は少なく、空席が目立ち、12時50分発の鳥羽行フェリーもすいていました。乗客の大半はデッキに出て、景色を眺めていましたが、伊良湖岬の先端に灯台が白く光っているのが見えました。

フェリー上から見た伊良湖岬 伊良湖岬の恋路ヶ浜

◇2004年12月30日(木)に訪問する。

 帰省途中に、伊良湖岬に立ち寄ることにして、国道42号線を渥美半島の南海岸に沿って走りました。左手には時々太平洋が見え隠れします。先端近くなって、日出の石門の駐車場に車を入れて、海岸線へ下りて行きました。途中、島崎藤村の「椰子の実」の誌碑があり、由来が書いてありました。なんでも、椰子の実を島から流して、流れ着くかどうかの検証をしているとか...。その海側に、大中寅二作曲記念碑も立っていました。
 さらに長い階段を下っていくと、浜の日出の石門へと至ります。太平洋の荒波が大岩を穿ち、窓が開いていて、そこから日の出が拝めるとか...。これ以外にも沖の日出の石門があります。風光明媚な海岸線をカメラに収め、波の音をボイスレコーダーに録音してから、戻っていったのですが、帰りの階段のきつかったこと...。
 再び国道42号線を西へ走り、恋路ヶ浜の駐車場へ駐めました。もう昼を過ぎていたので、目の前の民宿兼食堂へ入って、焼大あさり定食(1,600円)を注文しました。大きなアサリの浜焼きが6個出てきて、美味しくいただきました。
 その後、遊歩道を先端へと向かって歩くと、15分ほどで、伊良湖岬灯台へと至ります。海岸端に立っていて、神島の灯台と対峙し、伊勢湾へはいる船の航行安全をはかっているのです。白亜の灯台が、青い空と海に映え、絵になっていたので、何回もシャッターを切ってしまいました。それにしても、この辺の船の通行量は多く、ひっきりなしに大型船が行き交っています。丘の上には、伊勢湾海上交通センターがあって、その交通整理をしているとのことです。帰路は、階段を上って、万葉歌碑も見学してから駐車場へと戻っていきました。

大中寅二作曲記念碑 「椰子の実」詩碑


☆安乗崎 (三重県阿児町)
志摩の果安乗の小村 早手風(はやてかぜ)岩をどよもし 柳道木々を根こじて 虚空(みそら)飛ぶ断(ちぎ)れの細葉
 水底の泥を逆上げ かきにごす海の病(いたづき) そそり立つ波の大鋸 過(よ)げとこそ船をまつらめ とある家に飯蒸(いいむせ)かへり 男(お)もあらず女(め)も出で行きて 稚児ひとり小籠に坐り ほヽゑみて海に対(むか)へり
 荒壁の小家一村 反響(こだま)する心と心 稚児ひとり恐怖(おそれ)を知らず ほヽゑみて海に対へり いみじくも貴き景色 今もなほ胸ぞ跳(おど)る 少(わか)くして人と行きたる 志摩のはて安乗の小村

詩集『孔雀船』の「安乗の稚児」より 伊良子清白著
安乗崎と安乗埼灯台

◇2001年1月12日(金)に訪問する。

 2泊3日で、伊勢志摩の旅に出かけ、伊良湖からフェリーで鳥羽へ上陸し、風光明媚な志摩の海を写真に撮りながら、安乗崎(あのりさき)へと至りました。ここは、志摩半島の中央部に深く切れ込んだリアス式海岸で有名な的矢湾(まとやわん)の入り口に位置し、伊勢志摩国立公園の一部を成しています。安乗埼灯台周辺からの眺めは秀逸で、そこに建てられた伊良子清白の「安乗の稚児」詩碑は、なんとも言えない哀愁を添えていました。しばし、風景に見とれながら、カメラのシャッターを切り続けていました。
 詩碑には、明治詩史に残る詩集『孔雀船』の中の一篇「安乗の稚児」の第三連、「荒壁の小家一村 こだまする心と心 稚児ひとり恐怖をしらず ほほゑみて海に対へり」と黒御影石に刻まれています。清白は鳥羽市小浜の漁村で、23年ほど開業医を営んでいました。この詩は、嵐に襲われた安乗の光景を歌ったもので、清白の代表作と言われていますが、なんとも言い難い雰囲気を持っています。

「安乗の稚児」の詩碑


☆犬吠埼 (千葉県銚子市)

「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ。
 みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高きを知らず。
 波のうねうね ふる里のそれには如かず。
 ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて黝きを。
 わが心 錆びて黝きを。」

詩集『佐藤春夫詩集』の「犬吠岬旅情のうた」より 佐藤春夫著
犬吠埼と灯台

◇2003年12月28日(日)に訪問する。

 朝食を食べて、9時頃には、「矢指ヶ浦温泉館」を出立して、犬吠埼へと向かいました。まず、「地球の丸く見える丘展望館」というところに立ち寄ったのですが、天気も良く、ぐるりと330度の太平洋の眺望が楽しめました。実に、すばらしい景色だったです。
 それから、犬吠埼灯台へも立ち寄ったのですが、99段の階段を上った、灯台の上からの眺望も素晴らしかったのです。しかし、あまりの、高さに足がすくんでしまいました。周辺の岩礁には、大きな波が打ち寄せて、荒々しい景観を作っていたし、君ヶ浜の眺望も素晴らしかったのです。
 しかし、灯台後方の丘の上に立っている佐藤春夫の「犬吠岬旅情のうた」は、なんだか暗い感じがします。1911年(明治44)に、与謝野門下一同と来銚したときのものだそうですが、その時もこの絶景は変わらなかったのでは...。何か心に鬱するものでもあって、こんな吐露になったのでしょうか?それとも、天候が荒れたときには、暗く陰鬱な雰囲気が漂うのでしょうか?次回は、少し荒れた犬吠埼も見てみたいという気になりました。

君ヶ浜 灯台下の岩礁

◇2005年1月29日(土)に訪問する。

 2泊3日で、房総半島一周の旅に出かけ、朝6時過ぎに出立し、高速道路は使わずに、三郷から流山を経て国道6号線へ出て県境を越え、千葉県から茨城県へ入っていきました。最初に、竜ヶ崎市へ立ち寄って、関東鉄道竜ヶ崎線をカメラに収め、牛久市にある「シャトーカミヤ」に立ち寄りました。それから、東へ向かい、霞ヶ浦の湖畔へ出て写真を撮りつつ、鹿嶋市域へと至りました。鹿島灯台撮影後は、昼食に近くの蕎麦屋で天ざるそばを食べてから、犬吠埼へと向かったのです。
 国道124号をひたすら走って、銚子大橋を越えて、千葉県へと入り、犬吠埼灯台を見学したのですが、ここは、何度来ても海がダイナミックですばらしい!ほんとうに灯台の上から眺めると地球が丸く見えるのです。
 その後は、灯台後方の丘の上に立っている佐藤春夫の「犬吠岬旅情のうた」詩碑を見に行きました。その近くには、尾張穂草の歌碑があり、階段を下りた海岸端には、高浜虚子の句碑もありました。犬吠埼を訪れ、作品を成す文学者が多いことがわかります。

「犬吠岬旅情のうた」の詩碑


☆剱崎 (神奈川県三浦市)

「やがて柱の行列の尽きる所に来た。なるほど、この電線は、この岬端にある剣崎灯台(土地では松輪の灯台と呼んでいる)に懸っているものであったのだ。灯台は、今はただ白々と厳しい沈黙を守って日に輝いているのみである。そして、附近には人家らしいものも見えぬ。あちこちと見廻していると、すぐ眼下の崖下にそれらしい一端が見えて居る。私は勇んで坂を降りて行った。咽喉も渇き、腹も空いていた。・・・・・・・・」

紀行文『岬の端』より 若山牧水著
剱埼灯台

◇2004年1月31日(日)に訪問する。

 急に海の写真を撮りたくなって、三浦半島、伊豆半島方面へ1泊2日の旅に出ることにしました。初日は、まず、横須賀から観音崎灯台に立ち寄り、さらに三浦半島の突端の方へと向かったのです。三崎港へと続く県道から、細い道へ左折すると、うねうねとくねりながら、畑の中を先端へ向かって行きました。そして、剱埼灯台へと至って、海と灯台の写真を撮ったのです。
 観光地化の進む三浦半島にあって、ここだけは取り残されたように静かでした。若山牧水が、1915年(大正4)に来たって、紀行文『岬の端』を書いた頃とほとんど変化していないのではと、思わせるくらいでした。こういうのどかな風情は、このままそっとしておいてほしいと願うのですが...。

剱崎の風景

◇2005年1月8日(土)に訪問する。

 2泊3日で、三浦半島と伊豆半島の岬と灯台めぐりに出た時に、剱崎に再度立ち寄っていくことにしました。早朝6時過ぎに出立して、首都高速に乗り、湾岸線から横浜ベイブリッジへと至りました。たいした渋滞もなくすいすい走って、7時過ぎには大黒パーキングに着いて、朝食休憩を取ったのです。その後は、有料の横浜横須賀道路を抜けて、三浦半島の先端へと向かっていきました。まず、剱崎に立ち寄って、剱埼灯台と海の写真を撮ったのですが、空も海も澄んでとてもきれいでした。ところが、ここでトラブルが発生!カメラの電池が切れて、フィルムが巻き上げの途中で止まってしまったのです。ところが、巻き上げが終わったものと勘違いして、裏フタを開けてしまったので、フィルム1本パアーにしてしまいました。こんなことはめったんにないのですが...。

剱崎周辺の海


☆三浦半島城ヶ島 (神奈川県三崎町)

「雨はふるふる、城ヶ島の磯に、 利休鼠の雨がふる。
 雨は真珠か、夜明けの霧か、 それともわたしの忍び泣き。
 船はゆくゆく通り矢のはなを 濡れて帆上げたぬしの船。
 ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、 唄は船頭さんの心意気。
 雨はふるふる、日は薄曇る。
 舟はゆくゆく、帆がかすむ。」

詩『城ヶ島の雨』より 北原白秋著
城ヶ島灯台

◇2004年1月31日(土)に訪問する。

 急に海の写真を撮りたくなって、三浦半島、伊豆半島方面へ1泊2日の旅に出ることにしました。初日は、まず、横須賀から観音崎に立ち寄り、さらに三浦半島の突端の方へと向かったのです。そして、劔崎へ行って、海と灯台の写真を撮り、さらに城ヶ島へ至って、散策しました。この島も、架橋によって三浦半島とつながり、離島ではなく、半島の先端という趣になっています。ここにも、城ヶ島灯台があって、そこからの太平洋の眺めが素晴らしかったのです。
 城ヶ島で、忘れることが出来ないのは、北原白秋作詞の『城ヶ島の雨』です。島村抱月の依嘱によって、1913年(大正2)に作られたもので、梁田貞が作曲して、人々に愛唱されるようになりました。実は、白秋は10ヶ月足らずではありましたが、この地に住んだことがあり、その時の想いがこの詩になったとか...。この中の「利休鼠の雨」の部分がとても印象的なのですが、灰色がかった雨の微妙な色合いを表したものだそうです。とても繊細で、面白いと思いました。この詩碑は、城ヶ島大橋の下に、ひっそりと立っています。

城ヶ島の磯 三崎港の風景

◇2005年1月8日(土)に訪問する。

 2泊3日で、三浦半島と伊豆半島の岬と灯台めぐりに出た時に、剱崎の次に、三浦市街へと至り、城ヶ島大橋を渡ったのです。最初に城ヶ島公園(500円)の駐車場に車を置き、安房埼灯台と海の写真を撮り、その後、城ヶ島大橋下の北原白秋記念館を見学しました。白秋は、ここに逗留したことがあって、名詩『城ヶ島の雨』を作っているのですが、三浦半島での足跡が詳しく紹介されていました。また、詩の中に出てくる「利休鼠の雨」についての解説があり、江戸時代から使われた伝統的な色を表現する言葉で、抹茶のような緑色をおびた鼠色を表すとのことで、勉強になりました。記念館の脇の橋の下に立派な詩碑が立っていましたので、カメラに収めておきました。それから、島の西端にある城ヶ島灯台へも立ち寄って、灯台と磯を巡ったのです。

『城ヶ島の雨』の白秋詩碑 白秋記念館


☆神島シラヤ崎 (三重県鳥羽市)

「丸い頂上の小部屋は、磨き立てられた木の壁に囲まれていた。真鍮の金具は光り、五百ワットの光源の電燈のまわりを、それを六万五千燭光に拡大する厚いレンズが、連閃白光を放つ速度を保って、ゆったりと廻っていた。レンズの影は丸い周囲の木壁をめぐり、明治時代の燈台の特徴をなすチンチンチンチンという廻転音を伴いながら、その影は窓に顔を押しあてている若者と許婚の背中をめぐった。二人は、お互いの頬を、触れようと思えばすぐ触れることもできる近くに感じた。その燃えている熱さも。・・・・・・そして二人の前には予測のつかぬ闇があり、燈台の光りは規則正しく茫漠とそれをよぎり、レンズの影は白いシャツと白い浴衣の背を、丁度そこのところだけ形を歪めながら廻っていた。・・・・・・・・」

小説『潮騒』より 三島由紀夫著
神島灯台

◇2005年12月30日(金)に訪問する。

 帰省途中に伊勢志摩へ立ち寄り、鳥羽から菅島に渡り、菅島灯台を巡った後、神島へと向かったのです。鳥羽から来た定期船は、ほぼ定刻どおりに港へ入ってきましたが、帰省客で混み合っていて、通路にまで、人と荷物が溢れていました。それに乗り込み、14時20分に神島へ向けて出航しましたが、ここからは外海に出ることになるので、少し波が高くなり船が揺れていた。しかし、ほぼ定刻どおり15時前には神島港へと入っていきました。神島は伊勢湾の入口に浮かぶ、周囲約4km、人口500人余の小さな島で、標高170mの灯明(とうめ)山を中心として全体が山地状で、集落は季節風を避けるように北側斜面に集まっています。そして、なによりも三島由紀夫の小説「潮騒」のモデルになったことで、有名で、昔から一度来たいと思っていたのです。神島へ着いて、今日の宿「山海荘」に荷物を置くと、さっそく島一周の散策に出かけました。ほんとうに急斜面にへばりつくように人家が密集して建っていて、歩道が急勾配でアップダウンしながらその間を縫っています。まず、集落の東側にある八代神社へと行ってみたのですが、真っ直ぐ伸びた214段もの階段を登らなくてはならず、閉口しました。ここで、元旦の夜明けにゲーター祭りと呼ばれる奇祭が行われると聞きました。社殿参拝後、時計回りに島を一周しようと、裏手の遊歩道を上っていったのですが、勾配がきつく、断崖絶壁になって海に落ち込むような細道を進んでいきます。しかし、伊勢湾、伊良湖岬から太平洋の景色はすばらしいのです。しばらく行くと、シラヤ崎に至り、神島灯台の門が見えてきました。小説の中でも、新治、初江が灯台職員宿舎(退息所)を訪ねるシーンが印象的ですが、退息所は無人化に伴い撤去されていて空き地となっていました。その奥に白亜の灯台が立っていて、小説「潮騒」の案内板がありますが、そこからの眺望はすこぶるよく、小説の場面を彷彿とさせるのです。また、灯台についての描写は特に秀逸で、新治、初江の前途とも重ねて描かれていて、脳裏に思い浮かべながら、見上げていました。この小説は、青山京子、吉永小百合、山口百恵、堀ちえみ等の主演により5回にわたって映画化されていますが、灯台周辺でのロケもありました。その映画の場面を思い出しながら、しばしたたずんでいました。

「潮騒」の案内板 小説「潮騒」に描かれている灯台職員宿舎跡


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